前置きのない恋のはなし

もりすや蒼

1年後の約束の代わりに

人生の中のたった半年。


時間が重なったとすら言えない、すれ違っただけの人。




年明けから通い始めたスクールの、入り口にある掲示板をじっと見つめる。


『スタッフ退職のお知らせ』


写真の爽やかな笑顔は、初日に私を迎えてくれたその人のものだった。




「急ですね、今月いっぱいなんて。」


初級クラスの生徒である私と、上級クラス担当の彼。


普通なら全く関わることのない相手。


けれど私の入会日に急病になった担当者の代わりに案内してくれたこともあって、すれ違えば多少の会話を交わすようにはなっていた。




黙っておくつもりだったのか、言われるとは思っていなかったのか。


少し驚いたように一呼吸して、彼はいつもより控えめな笑みを浮かべる。


「見られたんですね。」


理由も何もなく、たったそれだけ。


講師のチーフを務め、多くのレッスンを持つ彼の退職には何か理由があるのだろう。


それが彼の意思ならいい。でもそれを確かめられるほど、私たちの関係は深くない。


「しかもとても遠いところに行くようで。」


「はい。」


真意を探ろうとしても、返ってくるのは短い答えだけ。










どうして?


何かあったの?


あなたはそれで良かったの?










投げつけたい言葉が形になることなく喉の奥で消える。




「1年後が楽しみ、って言ったじゃないですか。」




入会してすぐから連日のように通いつめ、レッスンをこなす私に彼が掛けてくれた言葉。


『すごいですね、初心者なのにこんなに成長が早い人は初めてですよ。』


『1年後どうなっているか楽しみですね。初日から見守ってきた甲斐があります。』


言われたのは3月だった。あれからまだ、数ヶ月しかたっていないのに。




「そうですね、楽しみでした。…いえ、今も楽しみです。


 あなたがとても頑張れる人だと知っていますから。」


「それは、」




あなたが居たから。




どうして今わかってしまうんだろう。


不慣れなことでも、人見知りのせいで仲良くできる生徒が居なくても。


黙々と打ち込んで結果を出せたのはこの人が褒めてくれたから。


この人に自分が出来たことを話したかったからだ。




「約束しましょう。」




穏やかな声で、さみしい笑顔のまま彼が言う。


いつも話すときと同じ、優しい瞳で。




「僕は、行った先で自分とあなたに誇れる結果を出します。


 だからあなたも最初に僕に話してくれた目標を成し遂げてください。」




『レッスンを続けて、どうなりたいですか?』


『よくやったと、自分で自分を誇れるようになりたい。』




初めての日、私が彼に言ったこと。


相手が彼だったからこそ、きっと今の私がある。




「わかりました。」




私の言葉にようやく彼は少し明るく笑うと「それじゃあ」と自分のクラスへと足を向けた。






人生の中のたった半年。


時間が重なったとすら言えない、すれ違っただけの人。




けれど「すれ違った」ということすら奇跡なんだろう。


会えてよかったと、私も彼もそう思っているからこそ。




『自分とあなたに誇れるように』




その一瞬をこの言葉でつなぐことが出来たのだ、きっと。

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