義問
藤ノ宮 陸
悪とは
道路の端で等間隔に並ぶガス灯が、夜の中を走る青年を照らした。身なりの汚い、明らかに数日は身体を清めていないことがよく分かる、濃密な鬼気を漂わせた若者だった。彼はしきりに後ろを気にするように振り返り、不必要にいくつもの路地を曲がった。それなりの時間を青年は走り続け、商店街にある一つの店にかかった看板を見つける。街灯に照らされた看板を見上げ、そこが目的の場所であることを確認する。大きく息を吐いて扉の前に座り込んだ。
レンガ造りの家が並ぶ幅の広い通りにいるのは、何者かから逃げおおせた青年、ゴミを漁る痩せ細った猫、それとぼろを纏った酔っ払いくらいのものだった。青年は懐から粉末の入った瓶をつまんで取り出し、顔の前に掲げて中身を透かし見た。
「こんな小さい物のために、ここまでしなくてはならないとはね」
死人も同然のやつれた顔に乾いた笑いが浮かぶ。のっそりと立ち上がり、その背を預けていた扉を開けた。
そこは古めかしい歴史書が多く並ぶ本屋だった。ガラスの天井と二階まで続く吹き抜けを持つ設計は空間を贅沢に使ったものである。本屋が営業している昼間ならば、本棚に並ぶ難しそうな書物とは対照的に開放的な印象を与えただろう。しかし、夜の帳は本棚の奥まで闇を送り込み、暗い色を持つ革の背表紙が並ぶ黴臭い空間は魔物でも潜んでいそうな雰囲気を纏っていた。
夜中だというのに鍵も閉めていないその店は青年の来訪を待ち受けているかのように、玄関にだけ明かりを灯していた。そして、今店の奥から、夜闇と同化するほど黒いスーツを着た一人の男が姿を現す。
「こんな夜遅くにどうしたんだい?話をしようじゃないか、若者よ」
彼はこの本屋の主で、夜遅くに来訪した青年の後見人だった。
「ああ、あなたに話……というよりは、聞いてほしいことがあるんだ」
「当然聞くとも。折り入っての相談だろう?よりによって私が、君の話を聞かないわけがあるまい」
男は上機嫌で青年に応じる。しかし、扉を閉め自分に近づく青年の姿を見て言葉を訂正した。
「だが、話をするにも準備というものがある。風呂と食事を用意しよう。使用人に用意させる。着いて来たまえ」
男と青年は店の奥へと消えた。
身を清め食事を取った青年からは、先ほどまでの鬼気迫る迫力が感じられない。顔立ちの整っている彼は、店主の後をついて行く今、この書店の跡継ぎかと見紛う程度には小綺麗になっていた。
二人は店主の書斎に入る。男は棚の一つから酒を取り出し、二つのグラスに注いだ。それを机においてから豪奢な飾りがあしらわれた椅子に座り、青年には机の反対側にある客人用のソファに座るよう促した。
「これは仮の話だけど」
そう青年はソファに腰掛けながら言った。
「森の中、二人で幸せに暮らす夫婦がいた。あるとき突然病魔が妻を襲い、夫は薬を探すことになった。幸いなことに薬はすぐに見つかった。それは広く名の知れたもので、男の住んでいた森のすぐ近く、小さな町の薬屋にあったからだ。しかし、薬は高額で、男の生業は金を手にしづらい木こりだった。必要なのは家にあるものをすべて売り払っても買える値段ではない。一度は絶望に打ちひしがれる男だったが、彼は諦めなかった。運がいいのか悪いのか、病は数年をかけてゆっくりと身体を蝕むもので、男には薬を買うだけの金を集める余裕が充分にあったからだ」
「男はあらゆる手を尽くして金を集めた。不要なものを売り、寝る間を惜しんで働き、借りられる限りの金を借りた。そして一年が経った頃、男はついにその薬を買えるだけの金を手にすることができた。喜び勇んで薬屋に向かった男は――」
青年はそこで息を大きく吐き、顔を伏せて誰にも聞こえないほどの小声で汚い言葉を吐いた。
部屋の主である男は、その顔に微笑を浮かべたまま、話の続きを促した。
「それで?説明に困ることでも無いだろう」
青年は男を睨み、目を閉じてまた床に顔を向けた。
「男は――男はそこで現実というものを知った。薬屋は汚い性根の持ち主で、男が持ってきた金では足りないと言い放ったのだ。男は値札に書いているだけの金を持ってきたと主張したが、薬屋は値札を握りつぶし、言った。『今、値段が変わったところだ』と。その薬は多くの病気に効く上代用できるものが少ない。いくら値段をつり上げたところで安定して売れるものだったんだ。ついでに――薬屋は貧乏人をいたぶる趣味があることで有名だった」
「薬屋は交渉のうまく、かつ演技がかった事が好きな人間だった。まず元の値の倍ほどの価格を提示し、怯んだところでそれよりはずっと安い、しかし元値を大きく越えた価格を示した。それがあと半年も働けば余裕で手に入る程度の金だと計算した男は、まんまと薬屋の口車に乗りそれを了承してしまった。それを聞いた薬屋は、大きく口をゆがめて言った。『その金をあと一月で用意してもらおうか。できなければ貴様には売らん』と。その言葉を言い放った薬屋は男が反論する前に引きこもり、そしてその日は二度と店の表に顔を出さなかった」
「男は諦めの悪い人間だった。妻を知り合いに預けて家を売り払い、寝ずに働き、明らかに堅気ではないものからも金を借りた。男が倒れなかったのは奇跡と言ってもいいかもしれない。そして……そして男は金を準備できた。準備できたんだ」
青年はそのとき既に滂沱のごとく涙を流していた。
「それを知った薬屋はもはや金を稼ぐことは眼中に無く、男の心を折る事と自尊心を守ることに執着していた。少し前から薬屋が荒くれ者を雇いはじめた事を友人から聞いた男は、今まで以上に金を奪われないように、また襲われないよう細心の注意を払った」
「薬屋はもう手段を選ばなかった。約束の日、奴は自分の店の前に雇った荒くれ者を張り付かせ、何も知らずに店に入ろうとした男を襲い身ぐるみ剥がせたんだ。騒ぎを聞きつけ始めて店の奥から顔を出した薬屋はのたまった。『金も無いのに何故来たのだ。貧乏人に売る薬は無い。消えろ』とね。後は単純な話だ。――男は愛する妻の為に薬を用意しなければ無かった。その日の内に、薬屋から目的の薬を盗む算段をつけ、今日盗んできたのが、これだ」
青年は小瓶を机に叩きつけた。もはや仮定の主人公を置くことを諦め開き直った彼は、なおも言葉を続ける。
「僕はあらゆる手段を用いて金を集め、その貯金は薬屋の横暴で跳ね上げられた価格すらも壁とはしなかった。金は結果的に薬屋の懐に入り、僕は薬を盗んだ。あなたはどう思う?正義はどこにある?間違っているのは誰だ?」
青年は疲れと罪悪感、燃え上がらんばかりの恨みに心を壊され自分が泣いていることにも気がつかなかった。
「そうだね。犯罪は悪いことだが、君は正しい行いをしたと思うよ」
永遠とも一瞬ともつかない不思議な時間が経った後、その間にも常に微笑みを絶やさない男は言った。青年が顔を上げる。
「確かに君が薬を盗んだ行為は罪だ。露見すれば君は裁判所に出頭することになり、法によって裁かれるだろう」
胸に手を当てしおらしくうなだれた様に男は言った。しかし、拳を握りしめ唸るように言葉を続ける。
「だが君が犯罪者なら薬屋も同罪だ。彼がしたのは真面目で清貧な若者を騙して薬の価格をつり上げ、社会全体の公正な取引すべてを侮辱するかのような行為だ。それに君が薬を欲しがったのは君が愛する妻の命を救う為であり、これを邪魔するのは人殺しも同然。君が自首するか捕まるかのどちらが早いかは分からないが、何にせよ君が捕らえられるのは既定路線だ。しかし薬屋もこのままじゃいられないだろう。元々あこぎな商売で彼も組合の鼻つまみ者だったからな。君が晴れて社会復帰する頃には、奴はこの地で商売を行えない。そしてそのときが来るのもそう遠くはない。なぜなら泥棒が犯罪なのは間違いないが、君にはやむにやまれぬ事情と正当性が存在するからだ。都市の裁判官が人格者なのは辺鄙な田舎にあるこの店にまで伝わっているよ。君の罪が情状酌量で軽くなることは間違いない。半年も経たずに君は元の生活に戻ることができ、薬屋はどこかで野垂れ死にしているだろう。いや奴のことだから惨めたらしく親戚など誰かしらに縋り付いているだろうが、そんなの君が知ったことじゃないさ。薬は君のものになって奥さんは元気を取り戻せるだろうし、正当な価格から差し引きされ戻った分で借金も返せるに違いない。金に関しては後見人の私も支援する。何より社会が君の味方だ。酷く醜い薬屋の中年と、若く正義感に溢れた働き者の青年。どちらに世論が傾くかなんて考えるまでも無い。当然、罪を償い戻ってきた暁には私も君を快く迎えよう。その間の奥さんの世話も任せたまえ。私を含め皆が君の味方をする。なぜなら君は正しいからだ。君は間違っていないからだ。君は自信をもって町を歩ける。なぜなら、君は正しいからだ。そして――。」
男は、時に青年を励ますようはつらつに、時に薬屋の横暴に義憤を隠せないよう罵るように語った。その間青年はずっと涙を流し、男の話に聞き入る様に彼の顔を正面から見ていた。
その偽りの微笑みを、男は青年が部屋に入ってきて初めて剥がす。その表情は無だった。
「――そして、君は私にそう励ましてほしいと思っている」
青年はそう言われることが分かっていたかのように痛ましげに顔を伏せた。
「何様のつもりだ?こんな夜中に人の家に盗品を持ってきて堂々と犯行を語るなど正気の沙汰とは思えない。何が仮定の話だ。すべて君の罪だろう。君が行ってきた人生だろう。臆面も無く罪を告白して慰めてもらいたいなど人の子が為していい所業では無いぞ、恥を知れ」
男は無の表情のまま言いつのる。
「そして挙げ句の果てが私への質問だ。『僕が正しいと思う』だと?木を切ることしか能が無い木偶の坊でも少し考えれば分かるだろう。悪いことだから犯罪なのであってそれ以上も以下もあるか。お前は犯罪者だ、この能無しが」
「その顔を見るに私がお前を責めることくらい織り込み済みでここに来たのだろう。もう一度言おう。お前何様のつもりだ?人様の家に乗り込み怒ってもらいたいだなんて倒錯した性癖物乞いでも持ち合わせてなかろう。それとも私に叱られていっぱしに贖罪でもしたつもりか?わざわざ私にそれをさせる権利がお前にあるのか?」
青年はもう男の顔を見られなかった。
「……悪かったよ、言い過ぎた。だが後半の侮蔑はともかく、私は間違ったことを言ったつもりは無いぞ。社会的に見るならな」
青年はわずかに肩を動かした。
「冷静に君の質問に答えてやろうじゃないか。一度君のすべてを私が赦そう。顔を上げなさい」
青年がおずおずと顔を上げると、眼前に在る男の顔に驚き硬直する。人を惑わす独特な語り口のせいか、青年は男の意思に背く術を持たない。
「一つずつ、こなしていこうじゃないか」
その瞳に魅入られたように、青年は首だけ動かして頷く。
「社会的に考えるのなら、君の行いは犯罪だ。都市の裁判官は公正だが、それならなおさら君が獄に入れられる未来は避けられない。もっと詳しく言うなら、君が犯したのは森に住む君が夜の間に居住区に侵入した罪、他人の住居に不法侵入した罪、そして薬を盗んだ罪だ。君は君自身が間違っているかだなんて単純な聞き方をしたが、君はたった一晩の間にこれだけの罪を犯した。だから、君がしたことは間違ったことだ」
青年は動かない。
「次に倫理的な問題だ。今日の夜起こったことを単純化するなら、君は一人の人間の命を救うために他人の生活を主に経済的な面で侵害した。社会倫理で考えるなら先ほど述べたように君の行いは間違いだが、君の行いによって君の奥さんは生きながらえる。生命倫理で考えるならこちらの結果が優先され、どちらかというと君は正しい行いをしたことになる」
「君が薬を盗んだという行為によって発生する利益は、一人の人命が救われた事。不利益は薬屋が商品を盗まれた……ああそうか、荒くれ者を経由しているとはいえ結果的に金は薬屋の懐に入っていたのだな。なら不利益は薬屋の店舗の窓が壊されたことだ。比べるまでもないが、替えのきく戸と人命ならどちらが重いかは自明だ」
「頷くくらいの反応はしたらどうだ……。まあいい。そして最後に、心理的な話だ」
男は大げさに腕を広げ、この晩で最も輝いた、あるいは妖しい笑みをうかべて言う。
「何も難しい話じゃない。この事件を知った大衆がどう思うかだよ。普段から金持ちに苦しめられている労働者共は間違いなく君に同情する。そして金持ちの……そうだな、世間をよく見ている婦人達も君への支援を惜しまないだろう。君を被害者だと思う人間もそう多くないだろうからな。もちろん君が犯罪者だという事実は誰の目にも明らかだが、それでも君を悪くないと主張する民衆は決して少なくない筈だ」
青年は何かを理解したかのようにまた顔を伏せた。男は踊る。踊っているかのようにくるくると話題を変え、語り口を変え、結論すら確定させない。しかし青年には話の先が読めていた。だからこそ男の妙技に抗い、話の続きを拒否するかのように男から顔を背けた。それを男は意にも介さず話を続ける。
「むしろ、所得が上がるほど君を支持する者の割合は上がるだろう。なぜなら君は全うに稼ぎ、法では裁けなかった悪人の馬脚を引っ張り出し、それでも越えられなかった壁を独力で打ち砕いたからだ。下手な劇よりまっすぐで、刺激的で、何より美しい。教養のある者が好みそうな脚本だ。もちろんそれは学のない者の心の琴線にも触れる。多くの者が、君を支持することは間違いない。本当に、世間の大多数がだ」
そして一息おいた後、男はさらに笑みを深くする。
「そして、君を支持するのは正義を正しいと思っている人間だけだ」
「正義とは、果たして正しいものだろうか。その質問には大抵の場合肯定ができよう。なぜならそもそもの定義を正しいことすなわち正義とおいても良いからだ。だが、正義でないものが悪か、間違ったことかと聞かれれば私はそれを否定しよう。例えばある劇作家の言葉を引用するなら、『正義に反するもの、それもまた正義である』。宗教がわかりやすいだろう。各々が信じる神に従って、国を荒らし人を殺し正義を蹂躙する。その行為は殺戮とも言えるが、本人達は聖戦だと言う。端から見たら山賊と変わらぬその行為は果たして正義と言えるだろうか。」
「こんな言葉を残した人間もいる。『道徳的行為とは後味の良いことであり、非道徳的行為とは後味の悪いことである』と。彼は正義と悪に社会的な意味を感じていない人間だったのかもしれない。これに当てはめるなら、泣いた君は悪を犯したというのが妥当だろう」
「だが、民衆は君の感情など遙か置き去りにして止まることは無い。もし薬屋が賄賂など送って君の罪が不当に重くなったとしたら、かの薬屋の店舗は打ち壊しにあってもおかしくない。それだけじゃないぞ。学のない者の動きに脈絡は無い。彼と親しい者の店、組合、果てはただ同じ薬を扱っているだけの店にまで被害が及ぶ可能性がある。彼らにその意義を聞けばきっとこう答えるだろう。『私たちは悪を成敗した』とね。この場合、彼らを悪に反した悪、後味の良い不道徳といっても過言では無いだろう」
くっくっと音を立てて男は笑った。青年はうつむいたままだった。
「ついでに言うなら、事の始まりは君にある。すべて君が起こしたこととも言えるな」
男は召使いを呼び、青年が持ってきた薬を彼の妻に飲ませるよう指示した。召使いが部屋を出た後、古めかしい本棚に積まれていた法律の本を一冊取り出して開く。
「そろそろ分かったか?」
男はもう笑っていなかった。青年も未だに顔を伏せていたが、泣いてはいなかった。
「これだけ話しておきながら言うのも何だが、正しいだの間違っているだの曖昧な観点での議論なら私は受け付けないぞ。君が起こすべき確固たる行動は自首であり、それを法の下確定させるのは私の領分では無い。分かったか?」
青年は顔を伏せたままつぶやいた。
「酷いものだね。ここまで言われるとは思っていなかった」
男は初めて不可解をその顔に浮かべた。
「主語が無いのが気になるが……仕方ない、考える余裕が無いなら私が道を定めよう。奥方は私が責任を持って預かってやる。君と私の仲だ、金もいらん。君は自首し、しかるべき刑期を果たした後精々働いて借金を返したまえ。君が木を切るあの山に詳しいのはこの町にはいないのだから数年程度間を開けても君の代わりができることは無いだろう。夜も更けてきたし君の家は遠い。一晩くらい止めてやるからさっさと――」
「主語が気になるって?」
青年が、初めて男の言葉を遮った。
「ああ、気にはなったさ」
男は話を妨げられたせいか少し不機嫌そうだった。
「なら教えてあげるよ。――酷いのは、あなただ」
「はあ?」
男は本を置き、再度椅子に腰掛け足を組んだ。その顔には明らかに不満を浮かべていた。
「どういうことだ。まさか本当に慰めてほしかったのか?君が生まれた頃からの付き合いだから分かるだろう。私にそんなことを求める君では無いはずだ」
「そんなことじゃない、もうとぼけるのはやめてくれ」
青年は両の手で顔を覆った。その声は震えていて、感情が決壊するのは目前だった。それを見た男が再度その顔に無を浮かべる。
「…そうか、どうやら私は君を甘く見ていたようだ。あの状況でも頭が回るようだし、あまりに優しすぎる」
「いいから言え!」
青年は吠えた。
「最後に僕を襲った荒くれ者を雇ったのはあなただろう!なぜそんなことをした!」
男は肘掛けに腕を預け、年下の友人を慈しむように笑った。
「いつから分かっていた?」
青年の刺すような視線を正面から受け止め、男が最初に発したのはそんな言葉だった。
「気づいたのはちょうど薬を盗んだときだ。薬屋はあれで臆病な男だから、裏で襲わせようとしても正面切って店の前で金を奪うようなことはしない。そういえば、薬屋が荒くれ者を雇ったと僕に教えたのはあなただ。それが襲われたときに犯人を誤解させる嘘だという可能性もある」
「……頭が回るというのは取り消そう。それはただの勘で、根拠にはならない」
男は失望したかのように目を閉じた。だが、今度は青年が腕を組み自信をもって答える。
「それに、僕は殴られたが怪我の一つもしなかった。普通なら肋骨の一本や二本折れていてもおかしくない」
男は眉をひそめる。
「まさか、それが私が雇い主だという根拠か?」
「そうだ」
青年の出した論拠に呆れた男は気が抜けたように椅子に背を預けた。
「全部、推測ですら無い憶測じゃないか……」
「でも、認めるんだろ?」
「鎌をかけられたようで不服だが、ああ、認めるとも。君の言うとおり、薬屋が君を襲うために荒くれ者を雇ったという話は聞いていない。当然真実である可能性もあるが、実際に君からすべてを奪ったのは私が金を握らせた軍人だ。当然君が無事なのは私が彼に手加減するよう頼んだからで、君が金を失った原因は私にある」
青年は顔を歪ませて吠えた。物心ついたころから、そしてこの本屋の主人だった父を亡くしてからも長い間共にいた男に裏切られたことは、彼に味方がいなくなったことを意味する。到底認められることではない。
「どうしてそんなことを……あなたのせいで僕は薬を買えなかった。妻が死ぬかもしれなかったんだぞ!」
「そこまで理解しているならどうして先ほど薬を使用人に渡した。私が隠すなり売りさばくなりするとは思わないのか」
「思わない」
青年は即答した。
「あなたを信用しているから。僕が怪我をしてない事と、あなたが犯人である事と結びつけられたのはあなたの優しさを信用しているからだ。あなたが僕を傷つけることはないし、僕の妻ならなおさらだ。だから聞いた。聞いたのは理由だけだ」
青年の目はどこまでもまっすぐ、困った顔をしている男を見ていた。
「正しいことをしたと思っているが、そこまで信用されているとね。流石に、罪悪感というものを覚えるよ」
男は一口、いままで一度も口をつけなかった酒をなめた。それは男が所持している酒の中でもかなり度数の強いものだった。
「君、さっき言っていただろう。危ないところから金を借りたと。調べさせてもらったよ。君が借金をしたのは、正規の金貸しではない。法外な利息で金を貸し返せない者は奴隷として売り飛ばす犯罪者だ」
「知っているさ。覚悟の上だ」
男はゆるゆると首を振る。
「それは、金を返すという意味ではないだろう?」
「ああ」
青年は怯まない。男の話に正面から向き合っていた。
「君に金を返す当てはなかった。いや、真面目な君のことだ。最初に借りた友人達には返すつもりだったのだろうけど、その後で自ら奴隷に堕ちるつもりだった。違うかい?」
「その通りだ。後から借りた奴らには……申し訳ないが、優先順位というものがある。僕は全うに金を返すことより妻を優先した。身体で返すという返済方法を用意してくれているのなら、喜んで奴隷という立場にこの身を捧げよう」
「見ていられないよ……」
今度は、男がうなだれる番だった。
「それで済むと思うか?周りが君のように甘ったれた考えの人間ばかりだと思うな。売られた先で無残な扱いを受けて死ぬことだって珍しくない。自分の妻を未亡人にするつもりか!」
「僕は死なないよ」
「それは幻想だろう」
男が怒鳴る。しかし青年は初めて見る彼の怒り顔を意にも介さない。
「今回のことで学んだよ。人生大抵のことは気概で乗り越えられる」
「たった一回盗みを成功させただけでもう仙人気取りか。私の半分も生きていない小僧がいきがるなよ。少しは頭を冷やせ!」
青年は心外だといわんばかりに首を振った。
「一回も何も、盗みの原因はあなたじゃないか。そのくせ金はまともに返せという。いいかげんここに来た理由を果たさせてもらう。僕を襲わせたのは何故だ。それのせいで計画はぐちゃぐちゃだ。聞いてもしらばっくれるからあなたに合わせた演技も意味が無い」
「計画の不備を人のせいにするなよ」
男は頭を抱えながらも不服そうに言った。
「つまり、君は私の店に入ったとき既に私を問い詰めるつもりで、自白させるために泣き落としにかかったという訳か。なかなかの名演技だったよ。君が演じるのを諦めるまで全く気がつかなかった」
大仰にソファにもたれかかった男は、ある意味では愉快そうな顔をしていた。それはまた諦めも意味している。
「いいよ、話そう。私は目的を持って君を襲わせた。それは奥方の命を軽んじたからではない。――君が強行策を取らなければ私が薬を買うつもりだったからね」
「そんなことさせない!」
青年が怒鳴った。すべての策を封じられ薬を盗むまで、彼は対価のない施しを受けることを嫌う頑固な人間だった。
「だろうな。君はそもそも私に薬を買ってもらうよう頼むことだってできた。その選択を取らなかった時点でこうなることは確定していたのかもしれない」
「あなたがあんな事をしなければこうはならなかったはずだ」
「指示語が多い。そして話の腰を折るな。君は自らを滅ぼさん勢いで金を稼ぎ、それを薬屋が加速させた。薬を買えたとて金を返す当てもなく、死んだとて誰も驚きはしないだろう。」
男はため息をつき、青年の顔を睨む。
「そして、誰でもない私がそれを赦すと思うか?君の父君、その前に私の師である男から託された唯一の遺産である君をむざむざと手放すと思うか?私が君を襲わせたのは、君が罪を犯す状況を作り獄に繋げておくためだ。君が捕まっている間、金を返す義務があるのは後見人である私しかいない。私は君の奥方を保護し、借金は代わりに返す。すべては君と奥方を守るためだ」
「余計なことを。あなたに頼りたくない」
「若造が調子に乗るなよ。私には君達を守る義務がある。最初から青臭い自尊心など捨てて私に泣きついていれば良かったのだ」
男は上品に鼻を鳴らした。顔の前で腕を組み、話を纏めにかかった。
「――さて。君がここに来た目的は達され、心配事もなくなった。結論はついたところで、純粋な興味から私も君に一つ質問をしよう」
酒で口を湿らせながら。
「不当な商取引を行い経済を乱した薬屋。法を犯してすら奥方一人救いきれなかった君。君を守るために守るべき者の名誉と経歴に泥を塗った私」
嗜虐的で妖艶な笑みを浮かべて。
「本当の悪者は、誰だい?
義問 藤ノ宮 陸 @Goe_mon
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