黒牟田初郎

最後に今の自分の世界にいる人間以外と会話をしたのはいつだったか。

 深夜、事務机のパソコンの灯りが散乱する資料を青白く照らす。

社室の電灯をつけてもいいが、自分の尻拭いのために余計な経費を使わせるのが煩わしい。

パソコンの画面には連連と書き上げた文字が映し出されている。

 子供の頃から本を読むのは好きだった。

しかし、いざ自分で書いてみてはと誘われた時は躊躇ちゅうちょした。

マニア向けのオカルト雑誌の巻末コーナでも誰かが読んでいると思うとプレッシャーで身が引き締まる。

これが丸ごと自分で書き上げる作家なら。

途方もない夢だと自嘲した。

 広く一般的に人々が眠りにつくこんな時間に誰だ。

着信はアメリカ人ハーフの義妹からだ。

だるい。一応は家族だから連絡先を教えてはいるが、昔から口数が少なかったこいつからか。

「どうした?」

久しぶりに聞くあいつの声は焦燥していた。

「友達が海に飛び込んで今は病院にいる?それと俺になんの関係があるんだ?」

仲が悪かった義妹とはいえ、こんな時間に病院にいるとなれば流石に心配になる。

それでも突き放すような言い方しかできない自分が嫌だ。

「今村京香?小学生の時に俺がよく一緒にいた?」

名前からして女か。

 何処にも居場所がなくて孤独だった小学生時代を思い出すのも億劫だ。 

家族以外で一緒にいた人物…。

あぁ…いたな。根城にしていた図書室にいた。

読書しているとクソガキにちょっかいをかけられてたな。

鬱陶しいからクソガキを追っ払ったものだ。

こっちは本を読んでいるんだ。

「行くから泣くな」

久しぶりの会話がこれか。

義妹はもう外の世界の人間だと思っていた。

嫌いだからではない。接し方が分からなかった。

 ガキの頃は黒いモヤだった思考が形になったのは最近だ。

人間、上手くいかない日々が続くと過去に浸る本能でも備えているんだろう。

良し悪し関係なく。

自分の過去なんてどんなものか覚えていても。

 今村との思い出はどうだったか。

親が離婚して母親と二人暮らし。

ガキの俺でも、お袋が慣れない水商売で疲弊しているのを笑って誤魔化していると感じ取っていた。

生活苦。おもちゃなんて頼めない。

教室に居ても怠惰と普通の家庭環境に身を置く同級生達への嫉妬で窮屈だった。

 図書室はいい。

金がかからない図書館の支所といった感じで、有り余る時間でもっても読み切れない本が並んでいた。

 居た。

思い出の中にいた。

白黒の思い出の中で淡い色をした数少ない場面に。図書室で今村京香がいた。

 初対面の時はあからさまに人を頭から喰ってしまう怪物にでも遭遇したような顔をした。

こっちも図書室なんてのは貸出の用紙を管理する委員しか来ないと思っていた。

 本棚に背中をくっつけそろそろと。

後になってあいつから聞いた。

こっちは面白いからじっと見ていたのが、睨まれていると思われていたようだ。眉毛が薄いから余計に。

 雑居ビルの玄関前にタクシーがやってきた。

「予約車」のだいだい色の蛍光文字が「送迎」に変わった。

タクシーにそんな表示があったか?

「東島」は個人タクシーだからまあ、初めて見たものとして。

扉が開かれると煙草の煙が勢いよく空に昇っていった。

続いて金属同士がぶつかる鈍い音。 

 予約車の筈だ。なら、後部座席に座っているこの男女は誰なんだ。

「はいはい!ハンサムな男は細かい事を気にしない!ほら!乗った乗った!」

真ん中に座った真っ赤な服の少女らしき女は煙草を咥えている。

奥の和柄のシャツの男は子供用の小さなパックジュースを飲んでいる。

ルームミラー越しに見える運転手は、全てを諦めた顔をしていた。

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