帰還

黒部雷太郎

第1話 帰還

 ある春の穏やかな日に起きた出来事。一人で旅をしていた俺は、K駅に着き自動改札機を出た。

 だだっ広い駅の構内は、老若男女で溢れている。そして、まだ俺の予約したホテルのチェックイン時間までには早過ぎた。コインロッカーに荷物を預け、俺は東口側にある地図を見てホテルまでの道を調べたのだ。大通りを真っ直ぐに歩けば、ここから10分とかからないことが分かった。

 この時期のK県では、非公開文化財特別公開を実施している。そのため至る所で貴重な文化財の宣伝が出ていた。そして俺のようによその土地から来て、バスや電車を乗り継ぎ寺や神社にある絵や仏像を鑑賞する者も多い。地元の人間も、参加していたため夕方まで、マスク姿の歩行者がせわしなく活動している。

 俺は不慣れなその地でスマホも使い、街についての地理感覚を把握しようとした。そして、某邸宅跡で伝説の書を見ようとしていたのだ。でも新幹線に乗車している間、何も口にしていなかったため、随分と腹を空かしている。

 俺が駅の構内で横に長い通路を進み、端の出口に近付くとレストラン街があった。どの店も待ち客はいなかったが、すぐに入店することはできなかった。俺はその事情を知ろうとして、メニューの出ている中華料理店の入口へ行った。

 やがて片言の日本語を話せる店員が出て来て、どの店も営業していない理由を説明してくれたのだ。それによると、レストラン街近くの水道施設で原因不明の障害が起きたということである。

 そして店で修理を頼んでみても、近郊でそのような障害が同時多発し、復旧不可能な状況なのだ。店員は汗だくになりながら、次の手立てを考えているような顔で店内に戻って行った。

 俺はやっとレストラン街に来たというのに、食事ができないということになって苛立った。また今すぐに何か食べないと耐えられないほどの空腹を感じた。飲み物だけでも欲しくなり、俺はレストラン街を出て、飲食物を探すためにその場から離れようとした。

 だがそれと同時に、俺の前にさっきの店員が現れ、ドアの内側へ入ることを勧めたのだ。誰もお客のいない長方形の室内で、エアコンが心地の良い温度を保っている。厨房ではガタイのいいオヤジが、冷蔵庫に食材を詰め込んでいた。

「水は使えませんが、あり合わせの物でよければ出しましょうか?」

 店内にストックしてある水も使い果たし、付近の自動販売機も全て売り切れていたので、ほぼ水のない状態になっているとのことだった。

「そうしてもらえるかい」

 俺は喉の渇きを感じながら答えた。

 それから人の気配に気付くと、オレンジ色の髪をした老婆が隣のテーブル席に腰かけていた。彼女は珍しい動物を、見つけた時のような目付きで俺を凝視している。

「この店はねえ、いざとなると和食も提供できるんだよ」

 老婆が目を細める。

「あんた、いつの間にその席に座ったんだ?音もしなかったぞ」

「アタシは、音も気配も消して動けるんだ。あんたが気付くわけないさ」

「どうやったら、そんなことができるようになるんだ?」

 俺は別の星に来てしまったような思いがした。

「そんなことは、どうでもいいじゃないか。早く何か注文しなよ」

 彼女にそう言われて、メニューにある担々麺を頼んだが、店から今は和食しか出せないと断られてしまったのだ。

「和食って何があるんですか?」

「おにぎりとお稲荷さんだけです」

 厨房にいたオヤジが、こちらへ振り返って大きな声を出した。

 俺はそれを聞いて、麺類が食べられないことに落胆した。

「じゃあ、両方にするよ」

 しばらくして、皿に置かれたおにぎりとお稲荷さんがテーブルに運ばれた。老婆はそれを見ると、少し分けて欲しいと俺に言ってウエイターに小皿を用意させたのだ。

「あんた、まだ俺はそれを分けてやるなんて言ってないぞ」

「まあ、固いこと言いなさんな」

 彼女は俺の皿から、三角形のおにぎりを奪い取った。

「勝手に持っていきやがって、お礼ぐらい言ったらどうなんだ?」

「ありがとよ。充分この見返りは、用意しておくから期待しておきなよ」

 俺はそんなことを老婆から言われても信用できなかった。

「あんたこんなふうにして、いつも他人の飯を自分の物にしているのか?」

「そうさ、この店であたしは、金なんて出したことがないよ」

「まさかそこまでやるのか!よく、そんなことを続けられるな」

 俺は呆れるというより彼女に凄みを感じたのだ。

「まあ、この店以外でも滅多に支払いなんてしないよ。それにあたしは、1日6食以上を確保しているんだ」

「そんなに食っているのか!」

「そうしないと、やせ細ってしまう体質なんだよ」

 俺は老婆の食生活を知って驚嘆した。

「そんなことよりお稲荷さんも分けとくれよ」

「もうやれないぞ。こっちも腹が減っているんだ」

 俺は皿に伸ばした、彼女の手を追い払うように邪魔をした。

「分かったよ。もう欲しがるのは止めだ」

 彼女は舌を出した。

「あんた、この店には頻繁ひんぱんに来るのかい?」

 俺は老婆の日常が気になった。

「来なかった日なんてないね。店長とは家族同然の付き合いがあるんだ」

「そうだったのか」

「あたしが店に頼めば、あんたの食事代も安くしてもらえるよ」 

 老婆が誇らしげに言った。

「それはありがたい」

「ところであんた、T県から来たのかい?」

「そうだ。なんで分かったんだ」

 俺は急に、自分のことを当てられて不思議に思った。

「発音で分かるよ。あたしは、微妙な音の違いを区別できるのさ」

「あんた、すごい耳をしているんだな!」

 彼女は誇らしげに笑ってから、楊枝を器用に歯の隙間へ入れて動かした。

「ところで、どうしてT県からK県へ来たんだい?」

「旅をしているんだよ。この時期に貴重な文化財を、特別公開しているから拝見しに来たのさ」

 俺はこの地を訪れた目的を教えたのだ。

「それなら、そういう物が好きなんだね」

「大好きだよ。写真が撮れるものは、残しているんだ」

「撮影してるのか。じゃあ、明日あたしが同行してもいいかい?」

 俺が了解すると老婆は満足気に目じりを下げた。

「それで、あんたは今日どこに泊まるのさ?」

「ビジネスホテルだよ」

「今夜そこから抜け出して、あたしとまた会えるかい?」

 彼女は意味あり気に俺を見据えた。

「いいけど、今日は俺と何をするつもりなんだ?」

 俺はその申し出を怪しんだ。

「来れば分かるよ」

 と言って老婆は、待ち合わせ場所をメモ紙に書いて俺へ渡した。

「あんたはこの辺りに住んでいるのか?」

「そうだよ。と言っても知り合いの家を日々渡り歩いているんだ」

「定住していないのか!あんたは何者なんだい」

「あたしが何者だっていいじゃないか。それより8時になったら約束の場所へ来ておくれよ」

 彼女は不意に立ち上がり、俺の分の食事代をテーブルに置いて素早く立ち去った。

 それから俺は、老婆の金で支払いを済ませ外へ出て、コインロッカーから荷物を取り出した。もうチェックインのできる時間になっている。俺はどんよりとして、薄い灰色に変わった曇り空を時折眺め、駅から直線に舗装された大通りに沿ってホテルまで歩いた。

 写真で見るよりかなり、縦に長いビジネスホテルで俺が宿泊の手続きを終えると、訳もなく空虚な孤独感に苛まれてしまった。そして案内された最上階の、自室の窓から下を見ると、天上世界から下界を見せられているように思えたのだ。

 やがて俺は、老婆と会う約束の8時までの間に、外へ出てKタワーを見物することにした。そして身に着けていたシャツや靴下を取り替え、部屋を出る前に、地図でKタワーまでの道順を確認した。

 ホテルから出て地下鉄を乗り継ぎ、目的地へ歩いていると俺は、近代的な建物の隙間から見える寺院に歴史的な荘厳さを感じた。またいくぶん肌寒い外気により、頭が冴えわたっていくような気持ちになっている。

 Kタワーに着くと、修学旅行中の高校生が館内で溢れかえっている。俺はその集団をすり抜けるように、エレベーターで最上階へ行き、K県の街並みを眺めようとした。

「すみません。写真を撮ってもらえますか?」

 野球部に所属していそうな坊主頭の学生が声を掛けてきた。

「いいよ」

 俺はデジタルカメラを手渡され、そのファインダーから3人組の男子高校生を見た。全員が画面に納まっている。

「このボタンを押せばいいの?」

 俺は学生に、デジタルカメラの操作を教わり彼らの肩を組んだ写真を撮った。喜んだ学生にデジタルカメラを返し、一人でKタワーからの展望を見下ろすと、ずっと昔の高校時代の記憶が蘇ったのだ。それは世間にスマホがまだ無く、級友とバスでW県へ行き遺跡を見学した思い出だった。

 やがて、売店でコーヒーを飲んでいるうちに、老婆との待ち合わせ場所へ行くことが面倒に思えてきた。そしてあんな婆さんと、二度と会うことはないだろうと考えそこへ行くのを止めたのだ。

 それから俺はKタワーを後にして、1時間近く街を歩き回ってから、路地裏のとんかつ屋へ入った。そこでロースかつ定食を、食べているうちに老婆と会う約束の8時は過ぎたが、一人でいる方が気楽だと感じていたのだった。

 また普段より、焼酎を飲み過ぎていたので店を出て夜風に当たったが、足元はおぼつかなかった。そして近くにあったコンビニで、ミネラルウォーターを買って飲み、公園のベンチに横たわり酔いが醒めるのを待ったのだ。

 やがて自分だけしかいない小さな公園で、二つのブランコを眺めているとくさむらから、ガサゴソと不穏な音が聞こえてきた。やがて黒光りしている、くさむらの一部分は中央で分かれ始め、突如何者かが起き上がった。

「なんで約束の時間に来なかったんだ」

 昼間に料理店で会った老婆が俺の正面に立っている。

 俺は驚いて、後方に倒れてしまいすぐには起き上がれなかった。

「昼間の婆さんじゃないか!」

 俺は精一杯、声を振り絞った。

「せっかくいろんなことを用意しておいたのに」

 暗闇の中で、彼女の目玉がぎょろりと光っている。

「どんな用意か知らないけど、これ以上俺に近寄るな!」

 俺は辛うじて立ち上がった。

「そういう訳にもいかないねえ、ウフフフ・・・・・・」

 夜の公園に老婆のしゃがれた笑い声が響いていた。

 俺は薄気味悪くなり、彼女を無視してその場を立ち去ろうとした。だが両膝の震えは、自分の意志に反してひどくなり、一歩も動けなかったのだ。

「あたしから逃げられると思うな!」

「うるせえ、お前を警察に突き出すぞ」

「どうやって、捕まえるんだ。今のあんたじゃ、片足さえ動かせないだろう」

 老婆は、勝ち誇ったような目で俺を見た。

「婆さん、頼むからもう俺を独りにしてくれよ」

 俺はしつこく傍にいる彼女に怯えた。

「分かったよ。最後の一仕事を遂行したら離れてやる」

「なんだその、一仕事っていうのは?」

「これを見な」

 老婆は手にした、懐中電灯で地面を照らした。するとその一帯で、無数のコオロギが折り重なり、羽音を立て始めたのだ。

「すごい数のコオロギだな!」

「あたしが、K県のこの街へ訪れる者を全てこの虫に変えたのさ」

 彼女は懐中電灯の光を、下から動かして俺の顔へ向けた。

「やめろ、体が痺れてくる・・・・・・」

「アハハハ、お前で最後の千人目だ。これだけ人間を虫に変えれば金がもらえる」

 俺は僅かに動かせた左手で、足元にあった石を拾い、老婆の顔を狙って投げた。

そして鈍い音と共に、彼女は倒れ仰向けになった。俺が放った石が老婆に命中したのだ。

 それから雷鳴が聞こえ、公園にあった一本の樹木が根元から折れ、彼女に直撃した。俺の背後には、樹木が倒れた弾みで吹っ飛んだ小枝があった。そして、微動だにしない老婆の手には財布が握られていた。よく見てみると、それは俺の物だった。

「このババア、いつの間に俺の財布を盗み取ったんだ!」

 俺は相手からそれを奪い返し中身を確かめたのだ。財布からは小銭と札も全て抜き取られていた。そして、そこには小判が3枚入っていたのだ。

「俺の金を返せよ」

 俺が彼女に迫ると、その姿は無くなっていて樹木も消えてしまった。ただ破損した、懐中電灯だけが寂しく取り残されている。

「一体何が起こったんだ!」  

 俺は呆然として、本物かどうか不明の小判を所持したまま、ホテルへ戻った。

だが、歩き疲れその地へ行っても、ホテルは跡形も残っていなかったのだ。そしてただ、穴の開いた屋根のある屋台が一つあった。

 しばらくして、みすぼらしい格好をした白髪頭の男が、中から出て来た。彼は物珍しそうに、俺を見てからせわしなく頭を掻いた。

「こんな時間に、この辺をうろついていると、老婆に財布をすられてしまうよ」

 その屋台の男が俺に忠告した。

「あのババア、どこへ行ったんだ。ねえ、この近くにホテルがあったのを知らないか?」

 俺は男に質問した。

「さあ知らないねえ、昔ここに大工の住まいがあったそうだけど、ホテルのことは聞いたことがないよ」

「それは、どのくらい前のことなんだ?」

「ずっと昔だよ。平安時代の頃のことさ」

 それを聞いた俺は、自分の財布から小判を取り出した。そして、その1枚を男に見せようとしたが、相手の姿は無く一匹のコオロギが飛び跳ねていた。やがて背後から灯りが広がり、老婆のケラケラと笑う奇声が聞こえてきたのだ。

 俺は恐る恐る振り返ったが、体が次第に黒ずんでいって、身動きすらできなくなってしまった。

「お前の住み家をここにしてやる」

 彼女は屋台の椅子に置いた虫かごを指差した。

 俺は脂汗を流し、うまく呼吸もできなくなった。そして意識を失いかけると、老婆の背後から犬が勢いよく走って近付くのが見えたのだ。その体は、白と黒の毛色をしていて、赤い首輪を付けられている。

 犬が唸るように吠え、老婆に跳びかかると彼女の姿は、かもに変わり舞い上がって行った。それからすぐに、俺の体が自由に動かせるようになり、これまで通りの感覚が戻ったのだ。

 住宅街へ飛んでいるかもが、即座に遠ざかっていくと、

「パーン」

 という銃声が、夜の街を切り裂くように響いた。

 その直後に俺の近くにいた犬は、再び吠えてからかもが移動した方へ走り出したのだ。犬の姿が、見えなくなってしまうと、老婆のいた場所にかもの羽が落ちているのが分かった。

 やがて正面からさっきの犬が戻って来たのだ。そして犬が口に何かを、くわえているのが見えた。それは、老婆から変身して飛んだ鴨だった。俺は犬が自分の脇を通り過ぎると、一人の男が後方に立っているのに気付いた。男は猟師姿でつば付きの帽子を被っている。

「危ないところでしたね。あのままだったら、あなたはコウロギにされていましたよ」

 細身の男は、犬のくわえていたかもを手に取り微笑した。彼は猟銃を背負っていて、その長い銃身の先が上を向いている。

「あなたが、バアサンから変身したかもを撃ち落としたんですか?」

「ええ、あのお婆さんの正体は魔界の鳥です。この世界で息の根を止めないと、とんでもないことが起こってしまう」

「どんなことになるんです?」

「人をコオロギに変える、お婆さんが次々とK県に送り込まれてしまう」

 猟師姿の男は、死んだかもの首を掴んで掲げた。

「じゃあ、あなたがその鳥を撃ち殺したから、もう安心ですね」

「それが・・・・・・」

「まさか、まだ鳥は死んでいないんですか?」

 俺は生気を失っているかもを見た。

「いいえ。もう死んでいますが、適切な処理が必要です」

「どうするんです?」

「鳥を剝製はくせいにする必要があるんですよ」

 男が犬の頭をなでると、犬は何かを理解したように一度だけ吠えた。

「なぜですか?もう生きてはいないのに」

「そうしないと、魔界から鳥を蘇らせる魔物が転移してくるんですよ」

「そいつが来て、かもがまた生き返るなんて・・・・・・」

 俺は驚愕きょうがくした。

「こうはしていられない。私について来て下さい」

「どこへ行くんですか?」

剥製はくせいの作業をする建物です」

 男が犬を連れて歩き出した。

 久しぶりに見た、星のある上空を点滅しながら飛行機が離れている。そして俺は、K県の街が日本には存在しない場所のように感じた。犬が道案内をするように、尾を振って前に進んで行くと俺は、急ぎ足で後に従った。

 犬と男の順番が時折変わりながら、竹に覆われた一帯に来ると右側に砂利道が続いている。両脇に灯された、低い電燈が10メートル間隔でその細い道を照らしていた。

「あそこが、さっき説明した建物です」

「あの車の横にあるガラス張りの家ですか?」

「はい。ガラスのように見えますが、新素材のビニールで作られています」

 皆がその家の手前まで来たところで、男がズボンのポケットからリモコンを取り出した。男がそのスイッチを押すと室内に電気がつき家の中は丸見えとなった。

 犬が家の敷地にある、犬小屋に入ってから俺は、男と一緒に家具一つ無いその家の中へ入ったのだ。重そうな登山靴が並んだ、玄関の上に尾の長いきじ剥製はくせいがあった。

「あのきじはあなたが剥製はくせいにしたんですか?」

「はい。その鳥みたいにこのかもも製作します」

 男は靴箱の上に、置いてあった紙袋の中へ手に所持していた鴨を入れた。

「今夜はこの家で休んで下さい。あなたの体には、老婆に付けられた危険物質が残っている」

「そんな物が私の体に付着しているんですか?」

「はい。でもここには、それを取り除くための風呂があります」

 俺は男の教えてくれた、風呂場に行った。そして自分に着いた危険物質を洗い流すため、説明された通りに茶色いゼリーを全身に塗った。それから、硬水のシャワーを浴びるとゼリーはコンクリートのようになり、体から床へ落ちたのだ。

 俺が用意されていた着替えを身に着け、風呂から出ると男は、俺の体をレントゲンに映した。

「成功だ。すっかり、危険物質は取り除かれています」

「レントゲンでそれが分かるんですか?」

「はい。もし、その物質が取れてなかったら、胃の周囲にカプセル状の形がいくつも映ります」

 ノートパソコンの近くに小型スクリーンがあった。だがそこに映した、俺の上半身のレントゲンには、どこにもカプセル状の物は現れていない。

「私もかも剥製はくせいにすることに協力しましょうか?」

「いえ、それは慣れた人間にしかできない作業なのです」

「そうでしたか・・・・・・」

 男に勧められて、俺は部屋の隅にあった蒲団でひと眠りすることにした。眠りに近付くにつれ、犬の遠吠えが小さく聞こえていった。

 次に目を覚ました時には暗闇の中だった。室内の電気をつけるのに手間取り、やっと周囲が明るくなると外にいたはずの犬がいる。俺は中央の壁で仕切られた、二部屋しかない家で男を捜したが、その姿は見つからなかった。

 やがて犬が騒ぎ出し、俺を導くように外へ出ようとした。俺は玄関のドアを開け、時々振り返りながら進む犬の後について行った。家から持ち出した懐中電灯で、地面を照らすとコオロギの死骸が散乱している。

 俺は前方に明かりを向け、犬が向かっている場所が犬小屋であることを知った。芝生の中にある、デッキチェアまで行くと犬は何かを伝えるように荒々しく吠え出したのだ。

 犬の近くで人影が見え、何者かが犬小屋の中から何かを、取り出しているのが分かった。俺が懐中電灯を前に向け、そこにいたのがフードコートを身に着けた、男だと判明したのだ。

 俺が相手に声を掛けると、そいつは噛みつきそうになっていた犬を、振り払い走り出したのだ。家の敷地から外へ、逃げて行く男の後を追ったが相手との距離は、なかなか縮まらなかった。

 やがてビニールハウスの並ぶ畑へ入り、男が何かにつまづくのが見えた。そして俺は相手が手間取っているうちに、走り続け追いついたのだった。動きの鈍くなっている男を、突き飛ばすようにして、そいつを倒したのだ。

「お前犬小屋から、どうしてそれを盗んだんだ!」

 男はその場に及んでも、かも剥製はくせいを手に掴んだまま仰向けになっている。そして俺が、相手の答えを待っていると、素早く反転した男が寝そべりながら攻撃してきた。相手は俺の膝を蹴り上げ、俺は骨にひびが入るような膝の痛みを感じて転んだのだ。

「今度はこっちの番だぜ」

 フードコートが脱げてしまっていた男は、立ち上がっていて狡猾そうな細い目で、俺を見下ろしている。俺はのたうち回りながら、相手がかもを手放しナイフを取り出すところを見たが、起きることはできなかった。

 男が両手に小型ナイフを握りしめ、俺の頭上で大きく振りかぶると「パパ―ン・パパ―ン」と連射される銃声が聞こえた。次の瞬間、男は後ろへ倒れ額から血を流したまま、絶命していたのだ。

 やがて行方の分からなくなっていた、猟師姿の男が俺の傍までやって来て、手を差し伸べ上体を起こしてくれた。彼がナイフを持った男を、老婆の時と同じように射撃で仕留め、再び俺を救ってくれたのだ。

「そいつも魔界から来た悪党です」

「犬小屋から剥製はくせいを盗んで逃げましたよ」

「それを魔界へ持ち帰るつもりだったのです」

 男は道に放り出されたかも剥製はくせいを拾い上げた。

剥製はくせいを魔界へ持って行かれるとどうなるんですか?」

「私のしたことが無駄になり、巨大化してかもは蘇ってしまうのです」

「せっかく剥製はくせいにした効果が無くなるなんて・・・・・・」

 俺は足の痛みを堪えながら立っていた。

「それよりも、あなたはさっきの格闘で怪我をしたのでしょう」

「はい。膝を蹴られてひびが入ったようです」

「では、この薬を塗って下さい」

 男は小さな丸い容器に入った、軟膏薬なんこうやくのような物を俺に手渡した。俺は右足のズボンの裾を上げて、容器の中の透明な薬を痛む膝に塗ったのだった。すると膝に血液が集中していく感触がして、骨の軋むギシィーという音が鳴り出した。

「すごい何の薬ですか!膝の痛みが消えてしまった」

成分の物質です」

「じゃあ、魔界のような所に存在する物ですか?」

 男は小さく頷くと今後の俺の日常について話した。

「あなたは元の暮らしに戻る必要がある。このままでは、

「すぐにK県から帰った方がいいということですか?」

「いえそうしなくても、私が時間を戻すので、あなたはまたK駅に着いた時点から旅をすればいいんですよ」

 男は背負っていた猟銃を、胸の前に突き出してから銃口を空に向け、引き金を引いたのだ。

「ウォーオー」

 聞こえてきたのは銃声ではなく犬の遠吠えだった。

 俺が目覚めると、新幹線の客席の中で、K県に入る直前だったのだ。時間が戻っていたことを知り、K駅に着くと自動改札機を出たが、前回と違って人の数はまばらだった。

 それから俺は、駅の構内を進みレストラン街へ向かい見覚えのある、中華料理店へ入ったのだ。だが店内には店員の姿は無く、厨房にこの前も見たガタイのいいオヤジが一人いるだけだった。

 俺はそのオヤジに水をもらえるか確認しようとしたが、

「どうしてまたこの世界へ帰って来たんですか?

 と言われ体が震えるのを抑えきれなくなった。そして店の壁にある、かも剥製はくせいを持って逃げるように勧められたが、固まっていたかもは羽ばたき始めやがて、反対側の壁に吸い込まれてしまった。


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