日常譚
@monmondamon
ものを書くということについて
ものを書くのは得意じゃない。
自分の書いた文章はあまり好きじゃない。
いや、小学校の頃は得意だったかもしれない。
小学校の作文というのは、量産型なもので、ぶつかった困難とそれを乗り越えた経験を書けば、先生の赤ペンが自動的に花丸を描く。その仕組みさえ理解していれば、ささっと原稿用紙2枚は埋まり、授業時間の大半は読書か寝ていられる。そんな小学生時代だったと思う。
ただ、今でも覚えているのは、授業時間を目一杯使い、「本当」の話を書くある生徒を羨んでいた記憶である。彼は僕の隣の席に座っていて、僕が書き終わったころにやっと原稿用紙半分に到達するような生徒だった。
小学校高学年にもなれば、みんな自分の言葉に恥じらいというのが出てきて、お隣さん同士、覗き合わないというのが暗黙の了解としてあった。しかし、僕の場合は隣の彼が覗く暇もなく書き終えてしまうから、その了解というのが機能しなかった。というより僕が掟破りをし、彼の作文をチラチラと覗いていたのである。
彼を羨んでいたと書いたが、もう少し正確にいうと、その感情が羨望であったことに気づいたのはだいぶ経ってからで、その当時は読みたいけれど、読むとムカムカするから読みたくない、二律背反の変な感覚を抱いていた。
文集にまとめられた彼の「本当」の話を何度読み返しても決して綺麗じゃなかった。起承転結もなく、何かを乗り越えた話でもない。先生に特別気に入られている訳でもない。お話として綺麗でないだけではなく、書かれた字も丸まった癖字で、とても心地よく読めたものではなかった。
けれど、それが「本当」の話だったから僕は羨んだのだと思う。
綺麗じゃないところも含めて「本当」だった。
思えば、ものを書くのが得意ではなくなったのは、「本当」の話を書くようになったタイミングに重なる。
たしか中学に入ったころ。小学校の頃の僕とは別人かのように、僕の文章を編み出す速度は各段に落ちた。そしてそれと同時に文章で高い評価を得ることもなくなった。
だが、そんなことは僕にとってどうでもよく、僕はただひたすらに「本物」の話を書くことに拘っていた。
だからそのあと、僕はものを書くのが得意ではなくなったし、自分の書いた文章を好きになることもなくなったけど、
ものを書くのは好きになった。
(続く)
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