死に損ない
黒い魔法使いは生まれた時から世界の全てが嫌いだった。
親は最悪だったとだけ記憶に残っている。子供の頃の黒い魔法使いは両親に殴られたり、蹴られたり、××××されたり、× × × ×の相手をさせられたりしたものだった。
そして彼らは真夏の暑い日に2人揃って子供を置いて何処かに消えてしまったのだ。1人残された黒い魔法使いは暑く蒸した閉め切った部屋の中で、乾涸びて命を終えるはずだった。だというのに、何の因果か助かってしまった。
助けられたのは彼のためではなかった。保身、義務感、自己満足の正義感。偽善者たちの都合で助けられた黒い魔法使いは今度は親戚中をたらい回しされることになる。死に損ないは厄介者にしかなり得ないのだ。
誰もが黒い魔法使いを助けたいわけではなかった。誰もが自分が1番大事だった。それは幼い彼にも分かっていた。だから、世界が嫌いだった。大嫌いで、憎んでいた。
養父はその中で1人だけ、ほんの少しだけマシな人間だった。
何度目かの親戚たちの口喧嘩を聞くに聞かねて外に飛び出し、蟻を潰して遊んでいた黒い魔法使いの前に突然現れたその若い男はすぐに彼の養父になった。親戚たちはどうぞどうぞと男に全てを押し付けた。助かったとでも言いたげだった。
彼はお世辞にも良い父親とは言いがたかった。そもそも、子供の扱いに全く慣れていなかった。最初の頃は言葉のひとつも交わさなかった。養父はただそこにいてぼんやりと煙草を吸っていた。偶に消えたと思うとお金と食べ物を持って帰ってきた。それを黒い魔法使いに分け与えた。初めはその繰り返し。
それがいつの間にか2人でたわいも無い話をするようになり、黒い魔法使いは養父のことを「親父」と呼ぶようになった。養父も黒い魔法使いのためにプレゼントを用意したり、日曜日には遊園地に遊びに行くなどと世間一般的な親の様なことをした。
それなりに楽しくて、その頃は世界が嫌いなままではあったけど、世界を終わらせようなんて思いもしなかった。養父は黒い魔法使いにとって、大切な存在だった。
そんな日々が終わりを告げたのは黒い魔法使いが15になった誕生日。
養父は何も言わず、ふらりと何処かに消えてしまった。まるで実の親と同じように。
残されたのは冷蔵庫の中のバースデーケーキと彼が吸っていたハイライトが1箱。それに安いライターがひとつだけ。
その後すぐに黒い魔法使いは世界を終わらせようと思いついたのだ。
ぱちり、目が覚める。
黒い魔法使いは思い出の微睡みから何とか戻ってきた。白い魔法使いと殺し合い、惨めに負けた現実に。
黒い魔法使いは満身創痍で、それでも辛うじて生きていた。白い魔法使いとの戦いに敗れた彼は這う這うの体でここまで逃げ延びたのだ。
そこは地獄の果てだった。そこは奈落の底だった。広がる果てのない闇と蠢き交わる毒虫しかない、暗くて寂しい場所。ここが彼の死に場所だった。
全身手の施しようのない傷だらけ。内蔵もいくつか損傷して潰れている。ズタズタの左手はもう使い物にならないだろう。目だって霞んでぼやけている。
「…反吐が出る。こんな、血なまぐさい殺し合いを未来の人間たちは美談として語るんだろう」
物語の中では自分も、あの右足を吹っ飛ばして限界までボコボコにしてやった白い魔法使いも欠落なく描かれる。白い魔法使いは五体満足で見事に勝利。黒い魔法使いは魔法で眠るようにその上で苦しんで死んだ。後世の人々は勝手にそのように脳内で補完するだろう。都合よく脚色するだろう。それが気持ち悪くて仕方がなかった。
そんな世界か嫌いだ。大嫌い。気持ち悪くて憎んでいる。だから滅ぼしてやりたかった。自分の見たいものしか見えないアイツらを。愛や正義を自分のもののように語り、都合の良い時だけ花を愛でる愚かな人間たちを。
傷口から血が滲む。全身から血液が失われていく。
「ああ、もったいない」
黒い魔法使いは残り少ない魔力を使って近くで蠢く毒虫達を呼び寄せた。我先にとやってきた虫たちに自分の血肉を啜らせる。自分の生命を啜らせる。流れる血は無為に地面に吸わせるより、こちらの方が余程役に立つ。
「ここで死ぬとしても、この虫どもを呪いの媒介にして世界に災いをばら蒔いてやる…」
毒虫達を魔力の塊である自分の体で改造し、それを呪いにする。それが黒い魔法使いが最期にすると決めたことだった。
遠慮も容赦も無い毒虫達はガリガリと黒い魔法使いの体を削っていく。手足に絡みつき、胴体に群がり、齧って齧って黒い魔法使いをどんどん小さくしていく。その様子をもう痛みも分からない肌で感じながら黒い魔法使いはにやにやと嘲笑った。
───ざまあみろ、人間ども。ざまあみろ、白い魔法使い…ざまあみろ、親父。お前たちにハッピーエンドなんて訪れさせない。最期まで水を指してやる。
命尽きるまで世界の幸せの邪魔をする。それが自分に残された最後の道だと黒い魔法使いは信じていた。
そして、とうとう限界を迎えた黒い魔法使いはゆっくり目を閉じる。もう、二度と開けないつもりで。
「黎明」
名前を呼ばれた。もう随分と誰にも呼ばれていない、呼ぶ者がいない呪いと災いに満ちた自分の名前。養父のつけてくれた、たったひとつの存在証明。
「黎明…馬鹿だな、こんなことしてもお前は幸せになれないよ」
懐かしい声だった。
何とか血が滲む目を開く。霞んだ視界の中でも何とか声の主の姿を捉えようと黒い魔法使い───黎明は顔を上げた。
声の主は1人の若い男だった。それはいなくなった時からひとつも変わらない養父。彼は当たり前のように黎明の傍にやって来た。その姿を見た瞬間、黎明は残る力の全てを使って魔法を練り上げる。大抵の人間を苦痛の末に殺すことの出来る闇魔法。魔法使いではない養父では一溜りもないだろう。
「ころす、ころす、ころしてやる!!」
轟と空気が震えた。全てを無に帰す暗き闇の奔流。魔法は確かに発動して、養父に直撃した。それなのに、養父には何の変わりもなかった。
「なにを今更おれの前に現れやがった!しね!しね!しんでしまえ!!」
何度も何度も魔法を重ねる。潰れかけの喉で罵声を浴びせる。
「この裏切り者!おれのことを捨てたくせに!あのクソ親と一緒であんたも俺を捨てたんだ!なのに、どうして、どうして!」
闇が駄目なら炎をそれでも駄目なら風をそれも効かないから特大の呪いを…どれもが無駄に終わった。養父にはなんの傷も与えられなかった。
「…なんで」
「無駄なことはやめろ。お前はもう、分かっているんだろう」
やれやれと首を振って養父は黎明の傍に膝つける。彼は黎明の体に蔓延る毒虫を一匹ずつ引き剥がして遠くに放った。それを何度も繰り返す。
「ああ、もう。こんなに小さくなって」
虫がいなくなった黎明の小さく削れたボロボロの体を養父は抱き抱える。一緒にいた頃と少しも変わらないあたたかな抱擁だった。
「あ、」
そこで黎明は気が付いた。ようやく気が付いた。
自分に養父なんていなかったことを。
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