居ても立っても居られない。何をやってもうわの空。胸がキュッと締めつけられる。そしてため息…。

 これが誰かを好きになるということか、 とか。これが恋か、とか。今の私にはそんな事はどうでもいい。ただただ苦しいだけ。でも、今は苦しいけど、早く明日になって、その誰かに会いたい。いや、会いたくない。どっちなんだろう。いや、どっちでもない。ただただ苦しいだけ。ああだけど、だけどやっぱり、その、あの誰かに、会いたい…。


 私はいつまでも寝付けずに、ずっとそんな調子だった。寝不足は毛艶に良くないし、おひげや肉球にも良くない。だけどいつまでも眠れない。私はせめて、入念に毛づくろいをした。


 いつもの鳩の鳴き声で、私は目覚めた。

 木箱にブランケットを敷き詰めた私のベッドは、このボロ空き家の軒下にある。ちなみにこの木箱のベッドを用意してくれたのは、そのあの誰か、オス猫のケンタだ。

 そしてケンタは、この家の二階の屋根裏に住んでいる。

 雑草が生い茂る小さな庭の真ん中にはキンモクセイの木がある。私が軒下を出ると、そのキンモクセイの木に住む鳩は私に気づき、そそくさと飛び立っていった。いつもの朝の光景だ。


「おはよう!」


 ケンタだ。

 私はビクッとしたのを気づかれない様に、あくびでもしながら、あえてめんどくさそうにゆっくりと振り向いた。

 

「どうだい? 今日こそ一緒に朝メシでも」


 二階のベランダで仁王立し、お腹に朝陽を当てながら、ケンタはそう言った。

 私は顔が赤くなるのを隠す様に、まためんどくさそうにあくびをした。


「ごめんごめん。朝は食わないんだよな。なんだっけ? ファス…ティン?」


 私はキンモクセイの香りを嗅ぎながら、三度めんどくさそうに頷いた。


「よっしゃ。オレ今日、魚勝の大将に呼ばれてるからさ、きっとブリのアラでもくれるんだろ。夜はそれ一緒に食おーぜ」


 私は心臓の鼓動が速くなるのを気づかれるのではないかと、咄嗟に背を向けて言った。


「夜はとくに、予定はないけど」


 ケンタはベランダから一階の屋根に飛び乗り、雨どいをつたって私の隣に飛び降りた。

 私の心臓は飛び出す寸前だった。


「そんじゃ決定な」

「えっ」


 私の返事も待たずに庭を出て行こうとしたケンタが、立ち止まって私に言った。


「あっ、そーだ。これ」


 ケンタは首に巻いた風呂敷をほどき、そこに包まれている一粒のビー玉を私に渡した。


「え?…」

「ほら、それ。あの花みたいだろ」


 ケンタはキンモクセイをあごで指すと、そのまま走って行ってしまった。


 私はしばらく立ち尽くしていたが、ふと、指でつまんだビー玉をキンモクセイの花と重ねて見てみた。

 確かに、ビー玉の中の色ガラスはオレンジ色で、あのキンモクセイの花びらみたいだった。

 それにしても、ビー玉なんて久しぶりに見た…。


 声にビクッとしてしまうのも、顔が赤くなってしまうのも、心臓が飛び出しそうになるのも、こんな事の積み重ねが原因だ。こんな事が毎朝、毎日、毎日。ああ、苦しい…。  

 だけど、毎日、毎朝、キンモクセイの枝葉や花びらは、このビー玉の様にキラキラと輝いていた。


 そしてその日の夜、ケンタは大きな風呂敷を背負って、約束どおり私の前に現れた。

 …あの娘と一緒に。



 夕陽が沈み、明かりが灯りはじめる街を、私は屋根の上で、なんとなくソワソワしながら、眺めていた。

 

「ただいま!」


 ケンタが帰ってきた。

 私はいつも通り遠くを眺めながら、しばらく気づかないふりをして、庭に目をやった。


「…えっ」


 思わずそんな言葉が出てしまった。

 

「どうだい、すごいだろ! けさ豊洲で仕入れたやつだ!」


 私に向かってそう言ったケンタの隣に、一匹の真っ白い猫がいた。


「ブリのアラでもくれるんかなって思ってたら、鯛の尾頭付きだよ!」


 軒先に広げた風呂敷の上には、立派な鯛が丸々一尾あった。


「いやー! めでてーなー!」


 そう言って照れながら頭をかくケンタと、その隣で恥ずかしそうに頬を赤らめる真っ白い猫を、私は屋根の上から見て、固まったままだった…。


 屋根裏のケンタの部屋には大漁旗が飾ってある。これもまた、魚勝の大将に貰ったものらしい。

 その大漁旗の前で、私とケンタ、そして魚勝の看板猫のミミさんは、鯛の御頭付きを囲んだ。


 ミミさんがまな板の鯛をさばき始める。

 前足と後ろ足、爪と牙を使って流れるように手際よく鯛を処理していくその様は、まるで、オーケストラの前に立つ指揮者のようだった。


「さすが老舗魚屋の看板猫」


 ミミさんに見惚れていたケンタがそう言うと、ミミさんはケンタと私に、皿に盛った鯛の刺身を差し出して言った。


「まずはお造りからどうぞ」


 それからしばらく、鯛のフルコースが続いた。

 ミミさんの完璧で隙のない、華麗なフルコースが続いた。


 本当は私がおもてなしをしなくちゃいけないのに、ちゃんとお祝いしてあげなければならないのに…。

 私は固まったまま、ひたすら目の前に出される料理を食べ続けた。

 正直まったく味を感じることができなかったが、ひたすら食べた。「うまいだろ」「すごいだろ、ミミ」「えんりょすんな」ケンタがそう言うたび、私は作り笑いで頷いた。

 …どうやら、魚勝の大将が勝手に、ケンタとミミさんの婚約を決めたらしい。

 私はミミさんの存在すら知らなかった…。

 バカみたい、私…。


「私がやります。すみません主役のミミさんにばかりやらせてしまって」


 ミミさんが使った皿を洗おうとしたので、私は咄嗟に立ちあがった。


「いえいえいいんですよ。いつも店でやってるので、なんだか動かないと気持ち悪くて」


 ミミさんは片付けの手際もよかった。きっと完璧主義者なのだろう。

 私は邪魔にならない様に、せめて、お皿だけでも洗わせてもらった。

 そんな私の横で、ミミさんが小声で言った。


「すみません。突然お邪魔して」

「…あ、いえ」

「妹さんがいたなんて知らなかった」

「…えっ」


 …しばらく黙ってしまった。

 なるほど、それはそうだ。同じ屋根の下に住むメス猫を婚約者に紹介するなら、それはそう言うだろう。

 私は、ケンタの妹か…。


「私ほんとうは、結婚なんてしたくなかったんです」

「…えっ」


 婚約者の妹にそんなことを言う理由を、私はすぐに知ることになった…。



 …あんな御馳走、久しぶりに食べた。 

 屋根の上でお月さまを眺めていると、先ほどの鯛の味がようやくしてきた。…様な気がした。


 ミミさんを送り届けたケンタが、屋根に上がってきた。


「ただいま」

「…おかえり」


 私の横で、ケンタもお月さまを見上げた。


「ごめんな」

「…何が?」

「妹なんかにしちゃって」

「べつに…」


 その前の段階で謝ることって、ないのだろうか…。

 いや、それは謝ることではないか。

 

「ミミはさ、飼い主に捨てられたんだ」

「…えっ」

 

 私は思わずケンタを見た。


「ある日の朝、大将が店の前に置かれた小さなダンボールの中でブルブル震えてるミミを見つけたんだ。真冬の凍える朝だったって…」


 そう言ってお月さまを見上げるケンタを見て、私は、あの日のことを思い出した…。



 …ちょうど二年くらい前だ。

 私は生後半年ほどで、ペットショップから飼い主に買われていった。飼い主はコロナ禍やリモートワークとかやらで家にいる時間が増えたそうで、その心の隙間を埋める様に私を溺愛した。毎日毎日ほおをすり寄せ、おいしいご飯を与え、一緒に寝てくれた。愛で満たされた日々だった…。

 そして半年後、そのコロナ禍が落ち着いた頃、私は飼い主に捨てられた。

 外で生きる術を持っていなかった私は食べ物にありつけず、路頭に迷った。そして、街猫に絡まれている私を、ケンタが救ってくれた。

 ケンタはすぐに暖かい寝床を用意してくれたが、私は、また何かを失いそうで、なぜか、かたくなにその好意を拒んだ。そして、しつこく干渉してくるケンタに負け、妥協の末、私は、この軒下で寝泊りすることとなった…。


 ふと、ケンタが立ち上がり、言った。


「魚勝の大将に拾われて、ミミは幸せだよ」


 そして、ケンタは俯いて、続けた。


「ミミはさ、いつも俺に言ってたんだ。『私はひとりで生きていく。魚勝の仕事もあるし、十分今のままで幸せだし、未来に不安なんてない。だから結婚とか興味ない』って…」


 …ちがう、きっとミミさんは恐いんだ。また裏切られて、捨てられるのが恐いんだ。だから強がるんだ。だから、結婚も恐いんだ。

 …私、ミミさんと一緒だ。


 ケンタが背伸びをして言った。


「あーあ、めんどくせー。もう、結婚なんかやめよーかなー」


 私の感情は真逆に真っ二つに割れた。

 そして、すぐにその片方の感情が勝った。


「なにいってんの」

「…えっ」

 

 私の突然の攻撃的な口調に、ケンタはきょとんとした。

 

「あなたがいるからだよ」

「…は?」

「ミミさんはね、あなたがいるから強がれるんだよ」

「…」


 一瞬固まったケンタに、私は続けた。


「今が幸せとか、未来に不安なんてないとか、そんな強がりを、あなたがいるからできるんだよ」


 まるで、私が私に言ってるみたいだった。


「私は大丈夫とか、ひとりで生きていくとか、あなたがいるから、ケンタだから言えるんだよ」


 涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、私は更に言葉を絞り出した。


「私を救ったように、ミミさんを救って」


 ケンタはしばらく茫然としていたが、大きく深呼吸をして、そして、笑顔で言った。


「初めてだな」

「…え?」

「そんなに話すの、初めて見たよ」

「あ…」


 ケンタは吹っ切れたように、私に向かって力強く頷いた。その瞬間、私は思わず下を向いてしまった。

 しばらくして、ケンタが再びお月さまを見上げると、私も、お月さまを見上げた。



 次の日の朝、大きく膨らんだ風呂敷を背負ったケンタは、仁王立ちで私に言った。


「ありがとな」


 私が笑顔で頷くと、ケンタは大漁旗をマントの様に羽織って言った。


「笑顔も見れたし、もう、大丈夫だな」


 たしかに、ケンタの前で笑顔になったのは初めてかも…。

  

 …そして、ケンタは何度も何度も振り返って私に手を振り、行ってしまった。

 ケンタが見えなくなると、昨日から我慢していた涙が、一気に溢れ出た。


 私はその場にしゃがみ込み、泣き続けた。

そして、ブランケットの中から、ケンタに貰ったビー玉を取り、投げ捨てようとした。が、それはできなかった。

 私はそのビー玉を、涙でにじんだ瞳で見た。するとビー玉は、その向こうのキンモクセイの花と朝陽で乱反射して、妙にきれいに、不思議なくらい美しく、キラキラと、輝いていた…。


 …その日私は、久しぶりにブランケットを洗った。

二階のベランダでブランケットを干し、空を見上げ、大きく深呼吸をして、そして、とりあえず、仁王立ちをしてみた。

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