ブルーオンブルー
「———でさ、そうやって、くぐり抜けようとしてるみたいでさ…」
浩然は“天の網”事件について、熱っぽく語っていた。夢中になって話していたところ、岡の顔つきが少し曇っていることにようやく浩然は気が付いた。
「あれ…、どうした?」
「それが面白い話なの?」
「…え?」
と言ったところで、岡がはっとして、またいつもの調子で浩然が笑いかけた。
「いや、なんか人が親の期待の為にカンニングする話なんて、面白くないなって思っただけ。でも興味深い話だと思ったよ、うん。彼女個人が特定されない様に書けば、いいネタなんじゃない?」
「…ごめん」
「なんで謝るの?」
笑っているけど、その疑問符には少しだけ棘があるように感じた。
これ以上謝っても気まずくなるだけだからと、浩然は口をつぐんだ。その空気を岡も感じて、曖昧に微笑んだ。
「じゃあ、おれ次の民俗学の授業だから」
「おう、またな」
岡がラーメンを食べながら小さく手を振った。
民俗学の授業後。浩然は図書館は向かう道すがら、後ろから、
「ハン!」
と呼び止められた。苗字『
鬼の本の時に、鬼の本のPDFが欲しくて、ライン交換したのだが、それから宿題の期日の確認や授業ノートを見せてほしいなど、ちょこちょこ都合のいいことばかり頼んでくるようになった。
浩然もめんどくさいとは思うのだが、柏木の、髪に似合わないほど目が細く、素朴な顔立ちで何かを頼まれると、いやだなあとか思いつつも、手助けしてしまう。昔は襟足が長い
「ノートなら貸さないよ」
一応やられっぱなしは
「つれないなあ〜、そればっかりじゃないよ、たまたま見かけたから声かけただけだって」
「ほんとうに?」
「まじでまじでまじで」
柏木がまじで、を連呼するたびに『本当に』という意味が薄れていく気がする。
「あ、タカシじゃん、うい〜」
とすれ違いざまにタカシなる金髪の男子と膝ハイタッチはする。なんだろうな、異文化交流っていう言葉がぽっかりと浩然の目の前に浮かぶ。
「そういやさ、ハンって言語学も受けてるよね」
「ん、ああ」
そりゃこっちはその頭が最後方にいることぐらい気づいていたものの、あまりそっちでも頼られたくないので、知らんぷりをしていた。とはいえ、浩然も身長が高い、柏木とて気づくだろう。
「いやあ、言語学むずかしくない? おれぜんぜん理解できないわ。今日言ってた仮説? もそうなんだけど。なんだっけ、言葉によって認識的な奴」
「サピア=ウォーフの仮説だっけ」
「あ、それそれ」
「それぞれの言語によって、認識や思考が変わるっていう仮説ね」
ちなみにこの仮説はサピアとウォーフという二人の人物からなる仮説なので『=』がついている。
「ふつう逆じゃないの? 頭ン中で考えてることが言葉に影響するんじゃね?」
「どうなんだろうね」
言葉が思考を支配する、か。
———違いますよ、センセー。こいつは
ふいに岡が和崎に名前を訂正したあのやり取りを思い出した。岡は浩然の名前を中国語読みにすることによって、浩然を認識していたのかもしれない。でももしかしたら、“ハオラン”という存在を認識しているからそう言ったのかもしれない。
さっきのサピア=ウォーフの仮説は有名だが、今に至るまで“仮説”という領域をでていない。立証ができないからだ。だから本当に言葉が思考を支配しているのか、思考が言葉を支配しているのかわからない。卵が先か、鶏が先かの世界だ。
「柏木くん」
「ん?」
「おれの名前、ファンって読むの、ファン・ハオラン」
ごめんというのか、そっかというのか。柏木の反応を見つめる。柏木はいつもの笑顔で答える。
「どっちでもいいじゃん?」
浩然の胸の中で、柏木の髪の毛に似た、青い気持ちがさーっと広がっていった。
「だよね」
そうだ、最近まで忘れてた。浩然の周りの人はほとんど優しい。けれど、その優しさにも二種類あって、一つは本当に優しい人。もう一つはどうでもいいと感じる人。このどうでもいいと感じる人たちは攻撃もしないが、明確に境界線がある。
結局、柏木の中では浩然は友達ではないのだろう。それで傷つくかっていうと正直あまり感じない。だっておれだって柏木に対してぞんざいにはしないが、ぞんざいにはしない程度の付き合いしかしていないから。そう思うと、岡のことを思い浮かべた。でも自分にとって、岡は違うんだと思う。
岡に謝ろう、ちゃんと。どうしてあんな反応されたか理由はわからないが、このままは良くない。
「岡に言わないとな…」
浩然はぽつりと無意識につぶやいた。すると柏木が、
「岡? 岡ってあの岡優馬?」
「あ、うん。その岡優馬」
「へえ、優馬と仲がいいんだ」
「知り合い?」
まあ岡の活動領域が広いし、そもそも岡と柏木は一緒の学部だ。なら知り合いかもしれない。
「ああ、だってあいつ首席じゃん」
「え?」
「おれらの学部の首席。しかもあいつ、地元では有名な超進学校を出てる、エリートだよ」
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