魔女たちのレッスン、楽園のエチカ
久里 琳
プロローグ
第1話 北の王国、南の楽園
そとは嵐。
窓一枚へだてた部屋のなかではろうそくひとつの灯りをたよりに、魔女がしらべものをしていた。
こん、こん。ふるい木の扉に、ためらいがちなちいさな音。魔女は目をあげもせず、口もとにふっくら
こんこんこん。扉からまた音、夜の闇から遁れるような、たすけをもとめるような、親をさがすみどり
窓のそとは悪魔の絶叫でさえかき消してしまいそうな風と雨と海鳴りの大合唱なのに、この部屋のなかはしずまりかえって、くるぶしまでをおおった黒い衣がしゃらしゃら音をたてるのが聞こえた。そしてその音もすぐしじまのなかにとけ――あとにのこるのは
扉のそとにいたのは幼い女の子。やっぱり床までとどくながい衣がこちらは白で、上から下までしみひとつない。純白にたもつためにいったいどれだけの手間とお金がかけられているんだろうね。
「はいっていい?」
うしろにひかえるふたりの侍女がよわった顔を見せるのに負けずおとらず心ぼそげな表情でおさな
「お召しがあれば、こちらからまいりましたのに」
肩に手をそえ呪具や薬草や本やらがとっちらかった部屋に迎えいれると腰をかがめて、
「それにね」耳もとでやさしくささやいた。「いつも申しますけど、ここに来るのに遠慮なんていらないんですよ、だって――」
そとは嵐で樹々のこずえがおそろしいうなり声をあげていた。枝につかまりきれなくなった小鳥がときどき吹きとばされて、悲鳴もあげられないまま窓にからだをぶつけた。
おさな児はそとを見るのがおそろしくて、魔女の胸のなかに顔をかくした。したからこどものあまい匂いがたちのぼるのを、魔女はすうっと吸いこんだ。
「あなたはこのお城のご主人さま。この世のはんぶんを統べる女王さまなんですから」
ずいぶんながいあいだ迫害されてきた魔女が王室と和解したのはついさいきんのように思われているけど、そのじつもう世紀をふたつ越えた。
かつて聖堂騎士に狩られた魔女たち、かれらを代表する筆頭魔女がこうしてちいさな女王に慕われているなんてむかしはとても考えられなかった。あら、筆頭魔女じゃなくって筆頭代行だったっけ。それとも筆頭魔女補佐? いずれにしたってやたら肩書をいかめしくするのは若い見かけを甘く見られないためなんだろうか。いつまでも若さをうしなわない魔女の美貌にほおっと見とれて侍女は思った。
極北から世界のはんぶんを支配するブリトニケ連合王国のちいさな女王は、魔女の胸からとび出しお気にいりのベッドにもぐりこんだ。わらのつまったシーツをかぶって魔女を見あげる女王の瞳は真っ青だ。嵐のなかでも宝石のかがやきをうしなわない青、やみにひかる一対の青、まるでモルフォ蝶だと魔女は思った。夜の密林に鱗粉をきらきら散らすモルフォ蝶。
そうして女王は、鱗粉みたいにきらきらした声を唇から散らした。
「おはなしをきかせて」
「なんのお話を?」
「さむさなんかわすれてしまいそうなおはなし」
「ふふふ。南の島のお話をしてほしいんでしょ? お好きですこと」
「だって」
甘えた顔する女王の額をなでて、魔女はこほんと
「そこは太陽が世界でいちばんかがやくところ。石のうえに魚を置いてるだけで、おいしく焼けちゃうのです。魚をとるのもかんたん。太陽があがるとおおきな池があっという間に干上がっちゃうんですもの、それが夕方の大雨でまた池ができるんですのよ。鳥はとってもカラフルで、ちょうちょは女王さまのお顔よりおおきいかも」
「そんなくに、ほんとにあるの?」
「ありますよ、ぜんぶほんとう、だって私がこの目で見てきたんですもの」
ちいさな女王はやたらおおきいだけでかざりっけのない木のベッドに横になって、期待にかがやいた目で魔女を見あげた。鳥の巣のひなどりのように。
あたたかな鳥の巣、それとも残酷な鳥籠? 連合王国を統べるものは、この北のはての都から出てはいけない。それが教会のさだめた聖なる義務だから。
嵐はひとばんつづくだろう。つめたい雨がたくさん木の葉を散らすだろう。そしたら真冬がやってくる、女王さまのきらいな冬が。ながいながいトンネルのなかみたいにさきの見とおせない、
魔女はもういちどやさしく女王さまの額をなでて、目を伏せた。冬を知らない南の島の魔女たちのすがたがまぶたのうらにうかんだ。
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