葉月さんのノートパソコン
加藤 汐朗
第1話 痛いノートパソコン
アパートのすぐ近くに一級河川がある。
朝は散歩やジョギング、夕方は近くの高校や中学校の運動部員がランニングで堤防を行き交う。
両腕を上げて大きく息を吸い、腕を振り下ろして息を吐く。そんな彰人の目に、川面を跳ねる魚が映った。
あれは食べられる魚なのだろうかと、しょうもない事を思い浮かべる。堤防の上を辻工ファイトー! と、バレーボールで有名な高校の一団が通り過ぎて行った。
県立辻浦工業高等学校、それは彰人の母校だったりする。青春真っ只中であろう彼らの背中を、彰人は眩しそうに見送った。
はて、自分は高校時代にやり尽くしたと思えるほど、青春を燃やした何かがあっただろうかと振り返ってみる。
いや無いなと、彰人は自嘲気味に笑い首を横に振った。電気電子工作部に所属し、人と話すのが苦手な彼にとっては電子部品が友達だった。当然のことながら現在まで恋愛の経験は無い。
そこへ一台の車が通り過ぎ、同時に彰人の頭へ衝撃が走った。目の前に星が瞬くほどの物理攻撃を与えた張本人はノートパソコン。どこからどう見てもノートパソコンで、通り過ぎた車が窓から放り投げたのは間違いない。
「痛ぅ……、でもあの車ってもしかして」
草むらに落ちたノートパソコンを拾い上げ、彰人の視線は走り去る赤い車を戸惑いながら追いかけていた。
痛む後頭部を押さえつつ、アパートに戻りパソコンを開いてみる。あの衝撃でよく液晶パネルが割れなかったもんだと感心しながら、合いそうなACアダプターを探す。
彰人は電子工学科を卒業しており、動かないパソコンを修理して転売する特技があった。薄給の平社員にとっては割りの良い小遣い稼ぎ。
オークションでタダ同然で仕入れたジャンクパソコンの山から、プラグの形状が合うACアダプターを見つけて接続する。
「電源ボタン押してもウンともスンとも言わないか、こりゃ電源回路だな」
早速分解しマザーボードに通電させた状態で、電源回路の電圧をテスターで当たって行く。案の定+12Vを供給するダイオードスタックから出力が無く、部品そのものに焦げた痕があった。
半田ごてでジャンクパソコンからダイオードスタックを移植し、電源を入れてみる。画面にメーカーロゴが表示され、Windowsの起動プロセスに移行した。修復は無事成功である。
「おいおい、ローカルアカウントでサインインパスワードは無しかよ」
痛いパソコンはパスワードの入力画面をスキップし、スタート画面に辿り着いてしまったのだ。パスワードの入力をメンドクサイと嫌うユーザーも多いが、セキュリティ意識なさすぎだろうと彰人は顔をしかめた。
彼はパソコンの周辺機器を製造販売する会社で、品質管理部門に所属していた。ユーザーから依頼された製品の修理や個人データの復旧が、それを得意とする彼に与えられた日々の業務。
個人情報保護法に基づき、知り得た情報は持ち出さないし口外もしない。会社でそんな書類にサインをしているけれど、日々何台も修理していればエッチな画像やヤバそうなメールのやり取りなんかを目にするのは日常茶飯事。
けれど衝撃的な画像やテキスト文章はトコロテンのように押し流され、次の修理にとりかかるのが彼の毎日。
そんなわけで、職業病から痛いパソコンにデータ破損が無いかを確認する彰人。ユーザーフォルダのフォルダ名が『Hazuki』となっており、彰人は持ち主の顔が通り過ぎた赤い車と重なっていた。
「いやいやそんなはずは、偶然だろう」
けれどピクチャフォルダを開いた彼は愕然となった。無修正のエッチ画像を目の当たりにしても動じない彰人の、マウスホイールを回す人差し指が震えている。
それは総務部人事課の
「もしかして不倫?」
さらにドキュメントフォルダにある日記というフォルダを開いてみる。そこには日付順で、大量のテキスト文章に岡崎との逢瀬が赤裸々に綴られていた。不倫確定である。
だが日付が一番新しい日記のテキストファイルを開いた彰人は、そのたった一行を読んでどうしようと頭を抱えた。
“あの人は嘘つき、死んでやる”
新入社員研修で周囲が見知らぬ人ばかり。そんな中で緊張感から彰人は気分が悪くなり、洗面で吐いてしまった。それを大丈夫と、吐いたものが手に付くのもいとわず口を拭って介抱してくれたのが葉月先輩だった。
女性としてではなく、人として尊敬できる人物に出会った瞬間であり、本来なら自主退職していたであろう彰人を会社に引き留めてくれた恩人でもある。
物理的に痛かったノートパソコンは、精神的にも痛いノートパソコンだった。これどうしようと、彰人は暗澹たる気持ちに落ちていった。
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