ステップ

ふさふさしっぽ

ステップ

 それは、駅前の大きな本屋へ行った帰りだった。

 時刻は六時半。辺りはまだ明るい。

 つい最近夏が始まったばかりだというのに、すでに、振り払おうにも振り払えない蒸し暑さが、全ての空間に充満している。


 鬱陶しい。何かを新しく始めるには鬱陶しく、億劫になる季節だ。


 生ぬるい風が、たまにお情け程度に顔を撫でてゆくだけである。

 真知子まちこは、駅から掃きだされて、散り散りになってゆく人たちに紛れて、自宅へと向かっていた。


 と、突然、横道から自転車が現れ、真知子は反射的に身を引いた。


 自転車は、真知子を横切り、あろうことか道の真ん中で倒れた。がっしゃーん、という金属の音が響きわたる。

 乗っていた人物は、自転車と倒れたまま、動かない。

 真知子はとっさに辺りを見回した。細い路地だからなのか、こんなときに限って、誰もいない。周辺の建物から住民が顔を出すこともなかった。


 信じられないことだが、以前の真知子なら、急いでこの場から立ち去っていた。今自分は何も見てはいなかったんだと、自分で自分に言い聞かせるように、何事もなかったかのように、立ち去っていただろう。真知子はこの十八年間、そういう生き方をしてきた女だった。まわりに関心を持たない生き方。自発的に、何もしない、生き方。


「だいじょうぶですか」


 「今」の真知子は声をかけていた。かなり弱々しく、おそるおそるだけれど、自分から確かに声をかけた。けれども。

 自転車の乗り主に、反応はない。

 真知子は自転車に駆け寄り、

「だ、だいじょうぶですかっ」

 そう呼びかけながら、倒れている人物に触れた。真知子には、その人物が年配の男性に見えた。六十代か、七十代くらいの男性。顔は地面に伏せられているので分からないが、白髪混じりの髪と、半そでの白いポロシャツから覗く皮だらけの腕が、真知子にそう感じさせた。


 と、突然その初老の男性が体を起こした。呆然とする真知子の前で、まずは四つん這いになり、それから実にゆっくりした動作で立ち上がろうとする。

 真知子ははっとして、男性の前にまわると、男性が立ち上がるのを助けた。ついでに自転車も起こしてあげた。

「ありがとよ」

 そう礼を述べながら男性は顔を上げる。真知子が思った通りの年齢に見えた。自分の祖父より少し若いくらい。不思議と、どこかで見たような顔をしていた。

「ブレーキがきかんでね、お嬢ちゃん、怪我はないかい」

「は、はい。あの、そ、そちらはお怪我は……」

「ああ、ないよないよ。うまく転んだもんだ」

 男性はにこにこ愛想よくするわけでもなく、かといって無愛想というわけでもなく、ゆっくりと淡々とそう述べた。

「お嬢ちゃん、今家に帰るとこかい」

「は、はい」

「私もだよ。しかし、こう暑いとかなわんなあ。なあ? まだ夏が始まったばかりだっていうのに」

「は、はあ」

 気の利いた受け答えができない。真知子は会話が苦手だった。何か聞かれても、同意を求められても、困ってしまう。

 というか、わたし、なんでこんな会話してるんだろう。早く家に帰らないと、お母さんが夕飯の支度してるのに。

 そんな真知子の思いをよそに、男性は話し続ける。

「お嬢ちゃん学生さん?」

「い、いえ……、一応、社会人です」

 明日から。

「へえ、若いのにもう働いてるのかね、偉いね」

「いえ、そんな……」


 偉くなんかないです。今までずっと、自分の部屋に引きこもって、学校にも行かないで、家族に迷惑かけてきました。明日からはじめて働くんです、やっと採用されたんです、情けないけど逃げ出したい気分です、明日なんて、来なけりゃいいと思ってます。

「頑張りすぎちゃ、だめだよ」

 男性はそこではじめてふっと笑った。ふっと笑ったきり、見つめている。

 真知子はなんだか居た堪らない気持ちになって、「それじゃ」と小さく挨拶すると、逃げるようにその場を後にした。


 真知子は男性の方を、一度も振り向かなかったから、気がつかなかった。

 その初老の男性が、いつのまにか真知子自身に変わっていたことに。


「頑張りすぎないで、わたし。きっと、大丈夫。今のわたしなら」


 その真知子の瞳は立ち去っていく「真知子」を暖かく、だけどどこか心配を隠せない様子で見つめている。


 明日、一歩、踏み出すわたしへ。


 生ぬるい風がどこからともなく吹いて、夏の木々の葉を揺らした。

 その後には、自転車もなく、誰もそこにはいなかった。


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