K-3:: エウロパと猫

 エウロパの表面は、何キロもある分厚い氷に覆われている。その下には広大な海が広がっている。

 氷の層の中に身を潜めるようにして、ハイヴと呼ばれる違法建造物がいくつも埋まっている。そのほとんどは、いびつな球体のような形をしており、大きなものは半径が一キロもあると言われる。無計画な増築を繰り返した結果、内部は無数の小さな部屋と入り組んだ通路からなる迷宮だ。そこに何万ものはぐれ者たちが密集して住んでいる。その中心には古い核融合炉があり、陽の当たることのない蜂の巣ハイヴに灯りをともしている。

 エウロパの小さな社会は、大きな力の狭間を縫うようにして生き延びてきた。だからピサロの影響力もここでは不完全だ。つまり俺はエウロパでは余所者に近いから、しっかりと注意を払わなければ生きて帰れない。エウロパの連中の手にかかると、俺の死体はただちにドロドロの液体にされ、ハイヴを循環する養分にされてしまうだろう。

 俺はピサロの影響下にある港――そういう港はエウロパに一つだけある――に宇宙船ふねをとめた。そして、目立たないように気をつけながら歩いて駅に行き、ハイヴに向かう鉄道に乗る。ドロイドはみな船に残して、俺一人だった。武器は一丁の銃だけだ。ハイヴの入り口にセキュリティチェックのような装置があるので、過重な武装をしていたら中に入れないんだ。

 その鉄道は、車輪があって線路の上を走るような原始的な代物だった。氷原の上にへばりつくように一本の線路がある。地平線まで続くその細くて黒い線を眺めていると、ひどく心細く感じた。

 窓際の席を陣取った。外は暗く、窓ガラスに自分の顔が反射している。ぼんやりと透けて見えるその向こう側には、白い氷の平原がどこまでも続いていた。

 目線をあげると、頭上に巨大な木星が覆いかぶさり、白と赤の縞模様がぐねぐねと波打っているのが見える。大赤斑はまるで世界の終わりの日に現れる怪物の目のようだった。それは淡々と進む鉄道の上から、いつまでもじっと俺を見下ろしていた。

 しばらくすると、地平線近くの氷原の下にうっすらと黒い影が見え始めた。何か巨大な構造体が氷の中に埋まっているのだ。鉄道が近づいていくと、その黒の中にいくつかの小さな光が見える。

 ハイヴだ。

 それは比較的大きなハイヴで、俺の目的地はその表層付近にある。大きなハイヴほど、またその中心から遠い場所ほど、余所者は目立ちにくい。

 鉄道を降りると、どこからか来たのか、数十人の有象無象が集まっていた。人間も、機械もいる。何体かの〈技術者エンジニア〉らしき連中も混じっているようだ。なんでこんなところに――ヤバいな。関わっちゃいけない。俺はそいつらと距離を取り、目を合わさないように努めた。

 そして、巨大なエレベータに乗り、数分かけてゆっくりと氷の中へと下ってゆく。小刻みな振動が不愉快だった。やがてガクンという大きな振動とともにエレベータが止まり、ドアが開いた。エレベータの外に出ると、そこはもうハイヴの中だ。

 エレベータから降りる人々の群れを、武装した私兵のような連中が舐めるように睨みつけてくる。俺たちはセキュリティゲートのようなものをくぐり、一人ずつボディチェックを受ける。〈技術者エンジニア〉だけはフリーパスのようだった。一方で、何人かの汚い男どもが私兵に連行されていった。おおかた武器を持ち過ぎていたのだろう。連行された奴らがどうなるのかはよく分からない。

 次にベルトコンベアのようなもの――エスカレーターと動く歩道が組み合わさり、空間のあらゆる方向に動き続けるような感じだ――に乗せられて、ハイヴの中を移動した。鬱蒼と茂るジャングルのように様々な構造物が入り組んでいるハイヴの中で、そのベルトコンベアはいわば大通りの役割を果たしている。たくさんいた人々は、途中でてんでにベルトコンベアを降り、それぞれの目的地に向かって散って行った。

 五分ほどして俺もベルトコンベアを降りた。そして徒歩で狭く曲がりくねった無数の路地へと分け入り、目的地にたどり着く。


「あれー、どうした! 久しぶり! 音沙汰ないから死んだんだと思ってたよ。絶対死んだんだろうって!」

 無機質な金属のドアを開けてそのバーに入るや、リリアが満面の笑みで飛びついてきた。

「あー? 死んでた方が良かったか?」

「死んだら嫌だよ! 会えないと寂しいからねぇ」

 黒い髪と黒い瞳。猫の遺伝子を埋め込まれていて、ショートカットの髪の間からちょこんと覗く耳と、スカートの下でふわふわと揺れる尻尾をもつ。動作もどことなく猫のようだ。

「ちょっと待っててね。すぐ来てあげる」

 彼女はいつもくだけた調子で話すが、その標準語マンダリンの発音はとても美しい。

 このバーは金属の壁に囲まれた小さく平凡な空間だ。でもいつも旅人で賑わっていた。この辺りの狭い地区は一応ピサロの縄張りだ。そういう場所はエウロパでは多くないから、ピサロのハーブを持った連中が集まってくる。他にも何軒かのバーやレストラン、簡易宿泊施設などがある。ここなら俺も死ぬような目に合うことはないはずだ。

 しばらくしてから、リリアとカウンターで並んでビールを飲んだ。それはとても濃厚なビールで、かつて存在したベルジャムという国(ちょっと違うかもしれないが、まあそんな感じだ)の飲み物を真似て合成したものらしかった。

 一通りの近況報告に花を咲かせたあと、ふと、ババのこと覚えてるか、と切り出した。

「最近、あの港から姿を消したんだ」

「ババさんが?」

「実際のところはよく分からない。なんでも、内衛ポリに捕まったって噂だ」

内衛ないえに? どうして捕まったの?」

 リリアは猫のように身を乗り出してきた。

「お前いつも楽しそうだなぁ。まあ、よく分からないんだ。そもそも、あんなただの婆さんを、帝国の連中がわざわざ逮捕したいなんて思うか?」

「そうだねぇ。そういえばわたしも、あの港には何回か行ったなぁ。おにぎりももらった。いつも、君と一緒だったよね」

 話を聞いてるのか、いないのか、よく分からないが、リリアは他人事ひとごとのように言った。

「お前はあそこの重力が弱くて不安定だって、いつも文句言ってたよな」

「そうだよ。ふらふらして、あんなとこに住んでたらおかしくなっちゃう」

「俺に言わせりゃ、ここも重力は弱いぜ」

「ここはいいのよ、エウロパだから」

「なんだよそりゃ」

 彼女はビールを飲んで、文字通り猫のような笑顔で俺を見て言った。

「懐かしいね。いろんなところに行った、君と。木星軌道の向こうにも行ったね」

「ヤバかったな。あれはヤバかった。それにしても、あれがそんなに前のことだなんて信じられないな。昨日のことみたいだ」

「うーん?」

 リリアはふいに無機質な天井を見上げ、そしてまたこちらを見た。

「寂しいねぇ」

「え?」

「……よく覚えてるよ。ババさんのこと。ずっと怒ってたね」

「そうだな。いつも怒った顔してた」

「怒られなくなるのは寂しいねぇ」

 ほどなくしてリリアが他の客に呼ばれて行ってしまうと、俺は一人でビールを飲んだ。そうしているうちに、いろいろな疑問が頭をよぎった。ババが逮捕されて地球に連行されたという話には、色々と辻褄が合わない点があるような気がした。

 ババが港の薄汚い一角に居住していたのが違法だったのは、間違いない。しかし、それ以外に直接違法なことに関わっているようには見えなかった。密輸商人とは違って、ババはただおにぎりを握っていただけなんだ。無害な老婆に過ぎなかったんだ。逮捕すべき奴なんて他にごまんといるだろう――俺も含めて。

 それに、あの辺境から地球にまで連行されるというのは、何か余程重大な罪状がない限り、ありえないことに思われた。間抜けな密輸商人なんかが捕まっても、近くの簡易裁判所に引っ張られていくだけだ。あるいは、現場で射殺されて終わりだ。そんな連中に比べて、ババは重大な犯罪を犯したのか? ――そんなこと、あるはずがなかった。

 ふいに、頬に氷のように冷たい何かが触れた。俺は驚いて小さな椅子から落ちそうになった。

「だっさいねぇ。ビクっとしちゃって! やっぱり死んどいた方が良かったよね!」

 満面の笑みのリリアが、キンキンに冷えたビールのグラスを持って立っていた。


 その夜――といってもエウロパでは昼夜の区別なんていい加減なものだが――俺はリリアの部屋で彼女を抱いた。

「これは懐かしい?」

 仰向けになった俺の顔を覗き込んで、彼女が訊いた。俺は答えず彼女の頭をなでた。セックスが終わると、彼女は俺に裸の背中を向けたまま、どこか不満げな声で言った。

「やっぱりおかしいよ君は、時間を感じるのがね。あれからずっと長い時間が経ったんだから」


 リリアの部屋は、バーから歩いて五分ほどの位置にあった。その小さな部屋には必要最小限のものしか置いておらず、壁紙はくすんでいて、天井に至っては金属と配管がむき出しだ。控えめに言って飾り気がなかった。そういえば俺たちが出会ってすぐの頃、火星のマリネリス峡谷の片隅にあった彼女の部屋も、同じように殺風景だった。でも彼女はいつでも、そんな部屋で楽しそうに暮らしているのだ。

 次の日から俺はバーの警備を手伝うことになった。俺の身体能力は普通の人間よりはるかに高かったから、たとえチンピラどもが十人がかりで襲撃してきても、相手が素手ならこちらも素手で撃退できる。しかし今はドロイドを船に置いてきたし、武器も銃一丁しか持ってこなかったので、相手が武装していたらどうにもならないのも事実だ。また、この辺りは一応はピサロの縄張りだとは言っても、やはり不安があった。そういう事情を分かっているのかいないのか、バーのオーナー(冴えない中年男といった風貌だ)は「頼りにしてますよ」と言って呑気に笑った。

 幸運にもこれといった事件のないまま数日が過ぎた。俺は彼女の部屋に泊まり、彼女と一緒に曲がりくねった通路を抜けてバーへと通った。

 リリアは暇さえあれば自分の端末で本を読んでいた。昔から変わらない。彼女が読書家であることを初めて知ったときは、少し意外に思ったものだ。俺も文字が読めるけれど、彼女の読んでいるような本は開こうとも思わない。どうやら、とても古い時代の本らしかった。

 昔一緒に旅をしていたころ、彼女は時たま、読んでいる本の話を俺にしてくれた。でも俺にはいつも、その話がよく分からなかった。

 リリアは帝国の自由市民権を持っている。まだ彼女に物心がつく前、どこかの金持ち偽善野郎が彼女を買い取ってすぐに解放し、市民権を買い与えたらしい。そいつに教育も受けさせてもらったのだろう。だから彼女は働く場所を自由に――つまり――選べるし、それに本も読めるのだから、その気になれば地球でも真っ当な働き口が見つかるだろう。それなのにどうしてこんな薄汚いハイヴで働いているのか、俺にはよく分からない。

 七日目の午後になって、突如として妙な男が現れた。

 そいつは乱暴にドアを開けるとズカズカと店に乗り込み、唾をまき散らしながら何やら意味不明なことをつぶやいて、カウンターの席にドカンと腰をおろした。伸び放題の髪とヒゲ。ボロボロになった服から筋骨隆々の上半身がほとんど露出している。身長は優に二メートルを超えていた。そしてまた意味不明なことをつぶやき始めた。

 店内はにわかにとなり、客たちは互いに顔を見合わせている。ちょうどテーブル席に酒を運んでいたところだったリリアも立ち止まり、きょとんとしている。

 その瞬間、ブザーのようなものが大音量で店内に鳴り響き、電子音声が非常脱出を指示し始めた。客たちは飛び上がり、我先にと一つしかない出口へと向かっていく。俺も何が何だか分からないまま、右往左往するリリアの手をつかんで外に出ようとした。しかし、誰かにぐいと肩をつかまれ、そこで立ち止まる。振り返るとオーナーだった。彼がこの非常ブザーを鳴らしたのだ。

「なんだ、何がどうなってる⁉」

 俺は叫んだが、ブザーの音にかき消されてしまった。リリアは困ったような顔をしたまま立ちすくんでいる。オーナーはジェスチャーで俺に外に出るなと言っているようだった。

 そしてすぐに、ブザーが鳴りやむ。

 店内に残っているのは、俺とリリアとオーナーと、それから例の大男だけだった。そいつは我関せずと言った感じで、カウンターから微動だにせず、こちらを見もせずに、相変わらず一人で宙を見つめたまま何かをつぶやいている。

 オーナーは男から距離を取るように俺たちを誘導し、顔を突き合わせ、きわめて深刻そうな顔をして低い声で言った。

「バベル病患者です。ついにこのハイヴにも出てしまった。ぜったいに、近づいてはダメだ」

「バベル病?」

 そういえば、聞いたことがある。ババが消えた日に、あの宇宙港みなとでサイジョウに聞いたんだ。でも、それがどんな病気かは聞いていない気がする。リリアの方を見ると、彼女はもう落ち着きを取り戻し、いつにもまして訝しげな顔をしていた。

「ないよ、バベル病なんて。くだらない噂話だ」

 リリアのその言葉を聞いて、オーナーが少し気色ばんだ。

「何を言うんです、リリア。これは大変なことなんですよ。もし感染が広がったら、下手したらこのハイヴごと滅んでしまう」

「ねえ、落ち着いて、落ち着いて。あの人をよく見てよ。たぶん、麻薬ケミカルのやりすぎで、脳をやられちゃったんだ。それだけだよ。よくあることだ。前に火星にいたとき、何人も同じようなひとを見たことがある。でも、誰にも感染なんてしなかったし、そのころにはバベル病なんて言葉さえ無かったんだ」

「おい、ちょっと待てよ! 何の話をしてるんだ、バベル病って――」

 俺が割り込もうとすると、リリアがふふんと笑って、

「まったく、君は相変わらず何も知らないなあ。噂話だよ。この辺だとみんな知ってて――」

「いや、噂話じゃありません! 本当のことです、これは真面目な話なんです」

 と、オーナー。何だよ、どっちなんだ。そもそもバベル病って何なんだ。

「簡単に言うとね、みんなの言葉を話せなくなって、急に誰にも理解できない言葉を話し始めちゃう病気なんだって。バベル病のひとと「会話」すると感染うつっちゃうって。でも、嘘だよ。そんな細菌もウイルスも存在するわけないし、脳をハックするコンピュータ・ウイルスの一種ならとっくにスキャンにかかってる。そもそも脳へのアクセスじゃなくて「会話」で感染するって時点でおかしい。帝国もピサロもみんな否定してる。騒いでるのはこの辺のひとたちだけだ。麻薬ケミカルにやられたひとを怖がって誰かがでっち上げた、根も葉もない噂話なんだ」

「馬鹿な。もちろん多少は不正確な情報も混ざっているかもしれないが、それは大した問題じゃない。とにかくあまりに恐ろしい病気だから、ピサロさんも帝国も大っぴらに認められないんです。だから私達は自衛しないといけない」

 オーナーが吐き捨てるように言う。カウンターの方を見ると、大男は相変わらず一人でぶつぶつと言っている。意味はまったく分からない。しかし完全な狂人ではなく、何か本人だけに分かる意味が存在しているようにも思えるのだった。とにかく俺たちが話す標準語マンダリンでないのは確実だ。

 俺は一呼吸ついて、自分の銃に手をかけてから言った。

「どっちでもいいさ。俺には関係ない。要は、あいつと会話せずに殺せばいいんだろ?」

「さすが、用心棒をお願いしただけのことはあります! 話が早――」

「だめだよ! 君はいっつもすぐにころすって、言うけどさ、ころす必要なんてない。ただの麻薬中毒ケミカル・ジャンキーだ。伝染病患者じゃない」

 俺はリリアの顔を見て、黙って頭にポンと手を置いた。猫の耳が少しピクンと動く。

「俺にはよく分からないが、読書家のお前が言うんなら間違いない――かな、リリア。それに、俺もそんな病気、少し前まで聞いたこともなかったしな」

「ちょっと、そんな――」

 オーナーが慌てふためく。

「大丈夫だ、会話はせずにこのバーから連れ出すさ。それでいいだろう?」

「ダメです、それじゃダメなんです。ちゃんと殺しておかないと、このハイヴ全体に感染が広がってしまいかねない」

「それは俺には関係のないことだ。俺が警備すると約束したのはこのバーだけだからな」

「めちゃくちゃだ」

 オーナーは露骨にため息をついた。

「リリア、麻薬中毒ケミカル・ジャンキーでも反応しそうなものは?」

 リリアは少し考えてから言った。

「お金かな。物理的なやつ、これ」

 そう言って彼女はポケットからしわくちゃの紙幣を二十枚くらい取り出した。地球ではとっくに滅びた原始的な代物だが、ここハイヴではまだ決済に使われている。

 俺はそれを受け取って、男の方に歩き始めた。オーナーはまだ俺を止めようとする。俺はいい加減イラついてきて、

「なんだよ、じゃあお前が自分で殺せばいいだろ⁉」

 と怒鳴った。するとオーナーは急に小さくなってしまって、

「いえ、私は人を殺したことがないので……」

 ふざけるな。本当にどうしようもない野郎だな。

 俺は男に背後から近づき、ポンと肩を叩く。男は焦点の定まらない目のまま振り返り、休むことなく何かをつぶやき続けている。俺は念のため口を開かないように注意しながら、紙幣をわしづかみにして大男の前につきだした。

 ふいに、男の目の色が変わった気がした。

 俺は犬をエサで誘導するようにして、男の目の前に紙幣を出したり引っ込めたりしながら、出口へと誘導していく。意外にも、本当にうまくいっている。なんてこった、これがカネの力か。

 そのまま俺はドアを開けてバーの外に出た。男はノソノソと後をついてきた。改めて観察してみると、たしかにリリアの言う通り、ただの麻薬中毒ケミカル・ジャンキーにしか見えなかった。麻薬ケミカルに言語中枢とやらを破壊されると、意味不明な言葉を話し始めることもあるようだ。思い出してみれば、俺もそういう連中を何人か見たことがある気がする。少なくともそいつらは、伝染病なんて何も関係なかった。

 二人で三分ほど歩いて、人気ひとけのない狭い通路を通り抜けようとしたところで、俺は振り向きざまにそいつの顔面にパンチを食らわせた。その巨体は一撃で通路の壁に叩きつけられ、金属がへこむと同時に骨が壊れるような派手な音を鳴らした。右手の拳が少しとした。男はそのまま床にへたりこんだ。意識は失っていないようだったが、ともかくこれでリリアの希望通り、この哀れな男を殺さずに済んだようだ。

(もう来るなよ、いいな)

 俺は心の中でそう言って、掴んでいた紙幣をそいつの頭に投げつけた。男は紙幣がヒラヒラと自分の体に降り注ぐのを呆然と眺めていた。

 しかし、ふいにそいつは腰の辺りに仕込んだに手をかけようとした。

 その瞬間、俺の銃が男の頭を撃ちぬいた。

 距離が近すぎたので、少し返り血を浴びた。

 この銃が発射するのは弾丸だ。もちろん原始的な拳銃の類よりはずっと高性能で、スマートかつ大規模に人体を破壊する。しかし帝国の内衛ポリが携帯しているYAGレーザー銃に比べればずっと古典的な代物だ。俺はYAGレーザーというやつが、どうしても好きになれなかった。

 男が腰の辺りに仕込んでいたものを確認した。それは銃ではなく、固い金属でできたスパナのようなものだった。

 なんだ、こいつは、こんなもので俺を殴るつもりだったのか。

 しかしもちろん、が仮に銃であっても、なくても、どちらの場合でも、相手が不審な動きをした瞬間に撃ち殺すのが正解だ。

 紙幣が血まみれになって散乱していた。

結局、殺してしまった。まあ、麻薬中毒ケミカル・ジャンキーの一人や二人を殺そうが、どうでもいいのだが、リリアには怒られそうだ。まいったな。

 死体は放置することにした。すぐに清掃ドロイドがやってきて、男はこのハイヴを循環する有機物の仲間入りをすることだろう。

 バーに戻って扉を開くと、リリアが駆けてきた。

「どうだった⁉」

 俺がそれに答える前に、リリアは俺に抱き着こうとして、しかし反射的に飛び退いた。

「わ! これ、血! 血の臭い!」

「そんなに臭うか?」

 俺は彼女をなだめるように言った。

「結局、ころしちゃったの?」

「ああ。そのつもりはなかったんだがな、攻撃されそうになって、つい」

「そっかぁ。でも、君が無事でよかったよ」

 リリアはそう言って笑い、改めて俺に抱きついた。それから、ふわふわの尻尾をゆらした。さっきまであんなに殺すことに反対していたのに、どういうわけか不機嫌にならなくて、俺は少しほっとした。

 気が付くと、オーナーが不審そうな目をこちらに向けていた。

「結局殺していただけた、ということでいいんですね?」

「ああ」

「ありがとうございます。これでとりあえず、このハイヴは救われました」

「そんなもんかね」

「謝礼は量子通貨でお支払いします。七日分の警備代に上乗せで五万でよろしいでしょうか」

「いいよ、そんな金。そもそも大したことはしてない。さっきの言い争いの方がよっぽど疲れた」

「そういうわけには参りません。そうだ、それから、改めて確認させていただきたいのですが、この部屋を出て行かれた後、あのバベル病患者と会話はしていませんよね?」

 俺はため息をつく。

「してないよ。俺はずっと口を結んでた。会話すると感染するなんて、信じちゃいないが、お前さんに後で文句を言われると嫌だからな」

「大変結構です。しかし、そこの通路には監視カメラがありませんから、今のところあなたの証言だけがすべてです。念には念を入れなければなりません。大変失礼な言い方になってしまいますが、あなたには嘘をつく、つまり感染を隠す動機も十分にある」

「ちょっと、何考えてるの⁉ オーナー、最低だよ!」

 俺は毛を逆立てるリリアをなだめて言った。とっくにオーナーの説得はあきらめていたからだ。

「いいよ、大丈夫。オーナーの言うことも正しい。バベル病が存在しないという証拠だってないんだから」

「むーーー。存在しないことの証明は、できないんだよ」

 また難しげな話をし始めたリリアを脇において、俺はオーナーに言った。

「バベル病とやらが、仮に存在するとして、潜伏期間は?」

「明らかになっていませんが、おそらく数日から数週間」

「そうか。じゃあ俺は明日ここを出る」

「え⁉ ちょっと、そんな勝手に決めないで!」

「ありがとうございます。どうかご理解ください。このハイヴのような閉鎖空間では、伝染病は存亡にかかわる事態なのです。もしその発信地がこのバーだと知れようものなら、私はきっと拷問されて殺されてしまうでしょう」

 そう言うオーナーの深刻そうな表情を見るとやはり怒る気にもなれず、俺はリリアの方に向き直って言った。

「ごめんな。でもこうするしかない。オーナーの顔を見てみろよ。下手したら、リリアまで拷問されて殺されてしまいかねないって感じだろ? そんなリスクはとれない。バベル病とやらの話はもうやめにしよう。それに俺は仕事があるから、元々このハイヴに長居することはできなかったんだよ」


 その夜、リリアは俺をシャワーに誘った。いつもは彼女が恥ずかしがるので、珍しいなと思った。リリアは俺の体を泡まみれにして、やけに念入りに洗ってくれた。



 夜更け過ぎに目が覚めた。キッチンに行ってコップに水を入れ、一気に飲み干した。錆びついた蛇口から出る水はぬるく、鼻をつく匂いがした。コップに水をもう一杯入れて持ち帰った。

 ベッドに戻るとリリアが目を覚ましていた。俺は彼女の隣にもぐりこみ、彼女は俺の頬にキスをした。

「ねえ、寂しい? ババさんが居なくなって」

 奇病騒ぎなんかすっかり忘れたようにして、リリアが訊ねた。

「分からないな。実感がないんだよ」

「ふーん、そんなもんかなぁ」

 俺はいつかまたあの港に帰るかもしれない。でも、きっとその頻度は減るだろう。他の常連たちもそうかもしれない。あの寂れた港の存在意義の大部分は、ババのおにぎりのげんにあったような気がする。

「……リリア、おにぎりをもらうときのババとの問答、覚えてるか?」

「トーテムポール、義足と義眼、十九歳、ってやつ?」

「おお、よく覚えてるな」

 俺は素直に感心した。何年も前に聞いただけの意味不明な問答を、よく瞬時に思い出せるもんだ。

「あれ、何なの?」

「よく分からんが、合言葉みたいなものかな」

「まるでスフィンクスみたいだよね」

「スフィンクス?」

「昔のひとが考えた、人面の怪物だよ。旅人に謎かけをして、答えられないと食べちゃうんだって」

「お前、相変わらずそういう話に詳しいなぁ」

「うん、古代の地球にはね、そいつの巨大な石像があったんだ」

「ババは俺たちを食べないぜ」

「あれって、答えを間違ったらどうなるの?」

「何もないよ。単に、ババがもっと不機嫌になるっていうだけ」

「ふーん、変なの」

「少なくとも、食べられるよりはマシだな」

「あの質問と答え、何か意味があるのかなぁ」

「ないよ、たぶん。単なる耄碌婆さんの思い付きだ」

「ババさんって趣味とかあるのかな?」

「趣味?」

「そう、趣味。あれだけ長く生きてるんだから、趣味はあるよ、きっと」

「……分からないな。ババが普段どんな風に暮らしてたのか、見当もつかない。人間らしい暮らしをしてたとは思えないな」

 リリアは枕元に置いたコップの水をごくごく飲んで、俺の方を見て言った。

「そういえば、十九歳のときじゃないんでしょ? 君が最初に人を殺したのは」

「ああ、違うよ。あれはそう答えるのがルールってだけ。実際に何歳だったかは関係ないんだ」

 俺はリリアの顔をぼんやりと見ながら言った。

「ババとあの茶番をすると、ああ帰って来たな、という気分になったのは確かだな」

 リリアからコップを受け取り、最後に残った一口を飲もうと口をつけた。するとリリアは急に身を乗り出してきて、悪戯っぽく笑って言った。

「ねえねえ! こんなの知ってる?」

「ん?」

 彼女はわざとらしく、すました調子になって、

「祖国が甘美であると思う人はいまだ脆弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である」

 俺は面食らって飲みかけた水を吹き出して、咳き込んだ。

 しかし、その文章を一息で読み上げた彼女の標準語マンダリンは、ことさらに美しかった。

「いやいや、お前大丈夫か?」

 俺はとりあえずそう言うことにした。

「大昔の偉い人の言葉なんだよ」

 リリアはしたり顔をした。

「お、おう……まず何を言ってるか分からん」

「故郷のことなんて忘れなさいってことだよ」

「なんだそりゃ。ほんとか?」

 俺は訝しんだ。

「わたしね、君と違ってインテリなんだ」

 リリアはふふんと笑った。

「お前まさか、そういうの色々暗記してるのか?」

「えー、今さら?」

 リリアはそう言ってベッドにもぐりこんだ。

 しばらくすると、彼女は毛布からちょこんと耳と目を出して、俺の目を覗き込んで訊いた。

「君は、いつか地球に帰るの?」

 俺はしばらく考えてから答えた。

「帰らないな」

「どうして。君は帰りたいんだと思ってた、いつか」

「あそこは、墓場みたいなもんだ」

「墓場?」

「かつて人類が誇った文明の、栄華のあと」

「お、君もインテリっぽくなってきたね」

「やめてくれ」

「君が地球を好きじゃないのは知ってるよ。でも、いつか帰りたいのかなと思ってた」

「そんなことないな。地球には何もない」

 リリアはしばらく黙っていたが、

「でも、すっごく綺麗なビルが並んでて、貴族やお金持ちがいっぱいいるよ」

 と言って、少し寂しそうに笑った。


 俺がはじめて人を殺したのは、実際には十九歳のときではない。十三歳だ。

 衝動的だった。殺したのは俺のだった女だ。そいつの部屋には大きな金属製の花瓶が置いてあった。俺はそれを両手で持ち上げ、ベッドの上で女の頭を殴りつけた。そいつの意識がなくなったあとも、何度も何度も殴った。やがて女の頭蓋骨は原形をとどめず粉砕され、脳みそと眼球が白いシーツの上に散乱した。俺は全身に返り血を浴びた。

 マリネリス峡谷の繁華街の外れの、猥雑なアパートの一角に女の部屋はあった。女がどんな仕事をしていたのかは知らない。

 俺は夜の街に逃げ出した。内衛ポリに見つからないように狭くて暗い道を選びながら、一人どこまでも走った。

 疲れ果てて足がもつれ、路地裏で背の高い男にぶつかった。見るからに堅気カタギではない男だった。そいつは鋭い眼差しで俺を睨みつけてきた。殺されると思った。

 しかし男は、血まみれになった俺の両手と胸、そして顔を見て、殺しは初めてか、と訊いた。初めてだと俺は答えた。俺を買った女を殺したんだ、と。

 そいつはしばらく俺の全身を舐めるように見ていた。そして、ついて来い、と言った。自分が抱くのはだから安心しろ、とも付け加えた。

 しかし、俺はきびすを返して逃げ出した。男は追ってこなかった。

 そのまま百メートルほど走って立ち止まり、振り返った。そいつはまだそこにいて、黙ってこちらを見ていた。

 遠い摩天楼の灯りが、男を背後からほのかに照らしていた。

 俺はゆっくりと歩いて男の方へ戻った。男はこちらを悠然と眺めていた。殺しはいいことだぜ、。そう言って男はすこし笑った。

 その日から、俺はそいつの弟分になった。

 男はピサロのハーブを持っていた。そいつはピサロの組織に話を通し、俺もハーブを手に入れた。あの港に俺を初めて連れて行き、ババとの問答の答えを教えてくれたのもそいつだ。

 でもしばらくして、男は商売相手とモメてあっけなく死んでしまった。そのとき初めて、人が死んで寂しいと思った。


 この話をリリアにしたことはない。


 彼女と俺は、しばらく二人でぼんやりと天井を眺めていた。錆びついた金属で覆われたその天井には、たくさんの配管が蛇の群れのように不規則に走っていた。よく見ると、その蛇の群れの間を、二匹の機械虫ワームが這いずりまわっていた。

 俺は何気ない口調で、彼女を自分の船に誘った。またあの頃のように宇宙を一緒に旅したい、と言った。それに、一緒にピサロの縄張りの中心まで戻れば、彼女もずっと安全だろうと思った。

 気が付くと、リリアの顔から、いつもの笑顔が消えていた。彼女は枕に顔をうずめた。

 彼女はぽつりと、わたしにはここで仕事をしなきゃ、と言った。あんなオーナーのところで働くのはやめとけよ、と俺は言った。しかし彼女は首をふって、ここには他にもいくつか仕事はあるから、とつぶやいた。

 沈黙がハイヴを包んでいた。

 しばらくして、リリアは静かに言った。

「君と旅してる間に、近くで人が何人死んだか覚えてる? 今日みたいに、だよ」

 俺はぎょっとした。

「五十七人。数えてたんだから」

 真っ黒な猫の目の瞳孔が、大きく開いた。

「そのうち二人は、わたしがころした」

 どう答えていいか分からなかった。

 リリアは仰向けの俺に覆いかぶさるようにして、俺の顔を覗き込んだ。

「今夜、一緒にシャワー浴びたよね、ちゃんと。でもさっき、君と間――」

 俺はごくりと唾を飲み込んだ。

「ずっと血の臭いがしてた」

 彼女は俺の腰にそっと右手をまわした。

「君が悪いんじゃない。君はわたしたちを助けてくれたんだから。でもね、わたしは君と旅をしてね、思ったの。この世界は大きくて、誰にも壊せないくらい、硬くて、つるつるしてて、冷たくて――それで君は、いつでも死んじゃいそうで」

 俺はその漆黒の瞳をじっと見つめ返すだけだった。

「わたしもその氷に叩きつけられて、粉々になっちゃいそうだった」

 リリアの顔がすっと近づいた。お互いの鼻先が触れそうだった。

「それからずっと、わたしはこの小さなハイヴにいた、君がいなくなってから、ずっと長い間」

 彼女の息遣いが感じられた。

 キッチンの方から、ぽたりと水のしずくが落ちる音が聞こえた気がした。

 耳をすますと、ここは完全な静寂ではなかった。遠くでベルトコンベアの動く音や、昼夜を気にせず生きる人々の喧騒がかすかに聞こえてきた。

「……大丈夫だ」

 俺は我に返って口を開いた。

「一緒にピサロの縄張りの中心まで戻ろう。そしたらもっと安心だ。お前は俺が守――」

 リリアはふいに微笑んで、俺の唇を塞いで人差し指を置いた。

「もうちょっとだけ、わたしはこの場所ハイヴにいる」

 俺はリリアの指の下で小さく唇を動かした。

「……そうか」

 リリアは人差し指を唇に、もっとぎゅっと押し付けて言った。

「わたし、自分のことは自分で守れるから、守れるようになるから」

 いつもの楽しそうな猫の目になっていた。

「分かってる。分かってるよ」

 俺は唇に力を込めて言った。

 すると彼女は、ふわふわの尻尾を俺の脚に絡み付かせて、額にそっとキスをして言った。

「わたしたちが別々にいて、でももう少しだけ近づいて、そしたらきっと、また会おうね」


 朝になると、天井にいた二匹の機械虫ワームはどこかに姿を消していた。

 俺は自分のささやかな荷物をまとめた。彼女はお湯をわかし、とびきりカフェインの効いたコーヒーを丁寧に淹れてくれた。

 ふと思い立って、俺は自分の船の固有識別番号I Dを手元にあった紙切れに書き、リリアに渡した。無味乾燥な128文字の列だ。密輸商人が船の情報を他人に教えることは、滅多にない。でもこれがあれば、太陽系のどこからでも連絡を取ることができる。彼女は何か言いたげにこちらを見てから、そっとそれを受け取った。リリアがその文字列を自分の端末に入力したら、すぐその紙を焼き捨てるように頼んだ。

 最後に部屋を出るとき、リリアはベッドの上にちょこんと座って、俺に背を向けたままだった。でも小さく尻尾を振って、死んじゃ嫌だよ、寂しいからね、と言った。


 俺は彼女の部屋を出て、ドアを閉めた。ガチャンと小さな音がして、すぐに迷宮のような金属のジャングルへと消えた。

 またベルトコンベアのようなもので移動し、私兵たちに睨みつけられながらエレベータに乗った。そして厚い氷の層を抜け出すと、気味の悪い木星が覆う空の下を鉄道で旅して、住み慣れた宇宙船ふねに戻った。


 厚い氷の層の中に、ハイヴは深く埋め込まれている。それが発する排気熱によって、ハイヴは徐々に周囲の氷を溶かし、エウロパの中心へ向けて沈み込んでいっているという噂だ。氷の層の下側にまでハイヴが落ち込んでしまえば、それは外の世界との接点を永久に失い、暗い液体の海を漂い続けることになるだろう。しかし、あるいは、エウロパの全球に点在するハイヴの熱は、いつかその氷の層を粉々に砕いてしまうのかもしれない。


 人工重力を起動すると、1Gの重みがずっしりと感じられた。それはいつもよりもしっかりと俺の足を床に押さえつけ、離さなかった。







引用) 上智大学中世思想研究所(編訳・監修)『中世思想原典集成 精選4 ラテン中世の興隆2』(平凡社ライブラリー、2019) 

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