パルプ・スペース・フィクション

月見素子

K-0:: プロローグ


しかし、嵐が楽園パラダイスのほうから吹きつけ、それが彼の翼にからまっている。そして、そのあまりの強さに、天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐は天使を、彼が背中を向けている未来のほうへと、とどめることができないままに押しやってしまう。そのあいだにも、天使の前の瓦礫の山は天に届くばかりに大きくなっている。われわれが進歩と呼んでいるものは、嵐なのである。

   ――ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』



これはすべて過去にも起きた。同じことがまた起きるだろう。

   ――J.M.バリー『ピーター・パン』

      あるいは、『バトルスター・ギャラクティカ』




◇◇◇



「ねえねえ、『ダ・ヴィンチの渦』って知ってる?」

 うしろで寝転んで端末をいじっていた彼女が、唐突に訊ねる。俺は宇宙船ふねの操舵パネルに目をやったまま、振り返ることなく投げやりに答える。

「ダ・ヴィンチって何」

 すると彼女はふにゃりと起き上って背後からこちらに近づき、自分の端末をバッと俺の目の前にかざした。

「これだよ」

 そこに表示されていたのは、簡単な線描のようなものだった。無数の渦のようなものがゴチャゴチャと密集しており、全体として何が描いてあるのかよく分からない。画像データとして保存された時点で既によほど古いものだったのか、薄汚く茶色にくすんでいる。

「千五百年くらい前の絵なんだけど」

 彼女は俺にぐっと顔を近づけて言った。

「すごくよく描けてると思わない?」

「そうなのか、俺にはよく分からない」

 俺は改めて、そのを見た。排水口のようなところから流れ出た水が、少し下にある水面に衝突し、奇妙で複雑な水の渦を作り出しているようだった。子供の落書きのように見えるが、言われて見ると、精密な観察眼をもった画家が描いたものに見えなくもない。

 不思議な絵だ。

「ダ・ヴィンチは、何を思ってこれを描いたんだろうね」

「だからダ・ヴィンチってだよ」

「昔のひと。世界がどんなふうだったのか、想像もできないくらい、とってもとっても昔のひと」

「うーん、俺の目には、何というかな、ちょっと雑な絵に見えるかな。色もとくについてないし。描かれているのはその辺の平凡な排水口か何かだろう? 昔のひとはこんな絵が好きだったのか?」

 俺がそう言うと、彼女は少しだけ唇をとがらせて言った。

「わかってないなぁ。この絵はね、すごいんだよ。自分の目で見て自分の手で描いた絵なんだ。ひとつひとつの、水が作り出した渦とか、乱流とかをね、それはもう、すごく精確に」

 まあ、そうなのかもしれない、と俺は思った。お構いなしに彼女は続ける。

「ダ・ヴィンチは、何のためにこんな絵を描いたのかなぁ。写真がなかった時代に、自分が見た光景を保存しておくため? あ、この渦すごくいいなとか、あの渦は少し微妙だなとか、そういう渦への愛着みたいなので、それを描きとめずにはいられなかったとか?」

 いや、これ、ただの渦巻いてる水じゃないか。渦が大好きってどんな奴だよ。ダ・ヴィンチ。

「それとも、いっぱいある渦をこうやって描いてみて、そこに何か、規則性みたいなのを見つけようとしたのかな? 小さな渦も、大きな渦も、たくさんあってそれぞれに違うけれど、そこには全体として、何か規則とか法則みたいなものがあるのかもしれない、と思って。その規則とか法則を見つけるために、こうやって渦の絵を描いて、その絵を眺めながら思索にふけったりとか?」

 相変わらずこいつは小難しいことを言うな、と俺は思う。妙な古い本の読み過ぎじゃないのか。

 でもそうやって、よく分からない話をしながら瞳を輝かせている彼女は、どうしても魅力的だった。

「ほらそれに、やっぱり、水の渦はすぐに消えちゃうから」

 自分の端末に表示されたその渦の絵をまじまじと見つめながら、彼女は言った。

「描いておかなきゃすぐに消えちゃう、きっとダ・ヴィンチはそう思ったんだよ」


――俺たちが一緒に旅をしていた、もう何年も前のことだ。 

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