第2話 光届いて
朝起きて、カーテンを開けると空は薄い鈍色が広がっていた。雨が降る気配はないけれど、晴れ間も覗きそうにない。
今日から七月になったと言っても、急に梅雨がどこかに去るわけでもなく、相変わらずじめじめとした天気が続いている。
窓を開けると、湿り気を帯びたぬるい風がカーテンを揺らし始めた。
時計を見るとすでに十時を過ぎている。休日は目覚ましをかけないせいか、ついつい起きるのが遅くなった。
寮の食堂はもう終わっている時間だ。
私は顔を洗うと、部屋の片隅にある小さな冷蔵庫から、卵ハムサンドと紙パックに入った牛乳を取り出した。
寝坊しても朝食を食いっぱぐれないように、あらかじめ買って忍ばせておいた。
私はベッドの上に座り壁にもたれて、遅い朝食に取り掛かる。
隣りの部屋の寮生たちは随分と仲が良く、楽しそうな声を耳にするのは日常茶飯事だった。
私の目の前のベッドは七月になっても相変わらず空いたままで、新しくルームメイトが来る様子はない。
部屋の半分は未だに不自然に生活感がなかった。
『⋯⋯先輩⋯⋯⋯てもいいですよね?』
『ちょっ⋯⋯⋯⋯ちゃん、まだ、朝⋯⋯』
壁際にいるせいか隣室からの音がよく聞こえた。
私は黙って牛乳に口をつける。
壁に何かが当たる音。
『先輩、キスしたいです』
あまりにストレートな言葉が飛び込んで来て、私は背後を振り返る。
うっかり手に力を込めてしまったせいで、パックのストローを登って来た牛乳が、パジャマのズボンにこぼれ落ちた。
慌ててタオルで拭いて、私はベッドから離れる。
何か聞いてはいけないような、知ってはいけないことを知ってしまった気がする。
(女の子同士で付き合ってる人、本当にいるんだ)
うちの学園は女子校だから、そういうこともあるらしいと聞いたことはあった。
でも現実に目の当たりにするのは初めてだ。変に胸がどきどきしている。
("彼女"ってどんな感じなんだろう)
私も恋をするなら男の子より女の子の方がいいなと、漠然と思う。
女の子の方が優しくて、大切にしてくれそうな気がするから。
男の人は恋よりも趣味を大事にしそうなイメージがあって、あまり恋をしたいって気にならない。それは多分私のお兄ちゃんのせいだ。
お兄ちゃんは山登りが大好きで、何かと山の話しかしない。小学生だった私に道の駅で買った苦い山菜をお土産にするような男だ。北海道で暮す今も「北の山を制覇する」とか何とか言って、色恋とは遠そうな生活をしている。
多分お兄ちゃんにとっての彼女は山だ。
だからたまにメールをくれても山の話しかしてこない。
もし彼氏がお兄ちゃんみたいだったら、正直悲しくなる。
私の異性観は残念ながらお兄ちゃんによって形成されてしまっていた。
(やっぱり恋をするなら女の子がいい)
改めて思ったところで、友だちすらいない私に恋なんて訪れそうにもないけれど。
せっかくの休日なので、私は外に出かけることにした。
赤い髪が目立たないように大きめの黒いキャップを被って行く。
今日は昨日テレビのローカル番組で紹介されていた、パンケーキ専門のカフェに行く。パンケーキは私が一番好きな食べ物。見た瞬間に行くことを決めた。
テレビに映し出されたふかふかのパンケーキ。見ているだけでお腹が空くような、美味しそうなパンケーキ。思い出すだけで、顔がとろけてしまう。
私は寮を出て、門から外に出る。
バス停に行くと、ちょうど駅に向かうバスが到着したところだった。私はそれに乗り、目的地のお店に向かう。
駅から歩いて五分ほどの所にカフェはあり、近くにはスポーツジムや大型書店などが並んでいた。
カフェは南欧風の白い建物で、入口脇にパンケーキの絵が描かれた黒板製のメニューが設置されている。私は屈んでメニューを吟味する。
(トッピングにチョコレートがある!)
メニューはオーソドックスなパンケーキもあれば、レモンソースやミックスベリーなど十種類近くも書かれていた。どれも美味しそうで迷ってしまう。値段も意外と高くないのが財布に優しい。
もしかしたら昨日の今日でカフェには行列ができているかもしれないと思ったけれど、表から見た感じでは混雑はしてなさそうだ。
私はベルのついたドアを開いた。
中は半分ほど埋まっていて、空席もある。並んだり待ったりせずに注文できそうだ。
店員さんに案内されて私はお店の奥のテーブル席に腰を下ろした。目の前に置かれたメニューをめくる。
一目で美味しいと分かるパンケーキの写真が載っていて、さっき入る前に決めたのに気持ちが揺らぐ。
しばらく悩んでから、初回は一番食べてみたいと思ったチョコレートソースのパンケーキにする。ミルクティーと共に注文した。
おしぼりで手を拭きながら、店内を見回す。あちこちにおしゃれな雑貨が飾られていて、パンケーキの甘くていい香りが漂っている。
お客さんは若い女性が多いけれど、男性もいる。でも私みたいな中学生はいない。
少し場違いな気がしてきた。なるべくおとなしくしていよう。
帽子を被ったままなことに気づいて、私はそっと取った。
変な目で見られたりしないかと気が気でないけど、みんなパンケーキに夢中で、お店の隅にいる私なんかには目もくれない。ほっとして私はお冷を口に運んだ。
パンケーキが来るまでは何かで時間をつぶそうと、私はテーブルに置かれたフリーペーパーをぱらぱらとめくる。
何となく視線を感じで顔を上げれば、ちょうどお店に入って来た人と目が合った。
180センチに届きそうなすらりとしたスレンダーな体に、金色の柔らかな髪をポニーテールにした女性がそこにいた。
透き通ったタンザナイトを思わせる青い瞳が私を見ている。
(エレナ先生!?)
学校外で思わぬ人物と遭遇して、私は驚いて思わず立ち上がってしまった。
「
先生は私に軽く手を振って、こちらにやって来た。
まるでモデルのような美人に見下ろされ、緊張が走る。
「⋯⋯お、おはようございます。じゃなくて、グッモーニング、ミ、ミ、Ms.カワシマ!」
私は英語の授業を思い返しながら何とか挨拶した。
「今は授業中じゃないから、日本語で大丈夫だよ、夏奈」
穏やかな笑みを向けられて、安堵する。英語なんてさっぱり喋れないから、助かった。
「相席なさいますか?」
所在なさげに立っていた店員さんが私と先生の顔を交互に確認する。
「夏奈、相席してもいい?」
「は、はい、どうぞ」
私は向いの席を指した。
「というわけで、この子と相席でお願いします」
「かしこまりました」
店員さんがメニューやお冷を置いて去って行く。
先生が座ったので私も椅子に座り直した。
「こんな所で夏奈と会うと思わなかったよ。奇遇だね」
「そ、そうですね」
緊張して上手く言葉が出てこない。
今、目の前にいるのはエレナ・カワシマ先生。うちの学校でALTをしている、イギリス人と日本人のハーフの先生だ。
去年に引き続き今年も英語を教わっていた。
颯爽としてかっこよくて、面倒見がよくて、校内でも生徒たちからとても人気がある先生だ。
そのせいか私は気後れしてしまって、何だかそわそわしてしまう。
二人の前を沈黙が横切る。
何か話さないと間が持たない。けれど、一体何を話していいのか分からない。
確か去年、先生は自己紹介で二十七歳だと言っていた気がするから、今は二十八歳のはず。それくらいの年齢の女の人が好きそうな話題を考えてみるけれど、全く思いつかない。
でも無言のままやり過ごすのも変な感じがする。
「あの、先生」
「何だ?」
「何食べますか?」
やっとひねり出した言葉がそれだった。
「どれにしようか迷っているところ。夏奈は何にしたんだ?」
「私はチョコレートのやつを」
「チョコレートか。それも美味しそうだね」
先生はメニューを眺めながら思案している。しばらく悩んだ後で、先生は苺のパンケーキを頼んだ。
これからまたパンケーキが来るまで、会話を何とかしなければならない。
ひとまずお冷を飲んで深呼吸。
何となく近くの席の女性と目が合った。こっちを見ていたようだ。すぐに目を逸らされる。
(外だと目立つかな)
校内だと他にも鮮やかな髪色にしている人がいるから、あまり気にならないけれど、表に出れば私の真っ赤な髪はどうしても浮いてしまう。
(それとも先生が目立ってるのかな)
ファッション誌からそのまま飛び出して来たかのような、モデルにも引けを取らない美女がいたら誰だって見てしまうに違いない。
私は落ち着かなくて何度も手で髪に触ってしまう。
「それにしても、夏奈はまた随分と大胆な髪色にしたんだな」
先生が私の髪を指した。
「⋯⋯変、ですか?」
私なりに可愛いさを狙って選んだ色だけど、他の人から見たら変なんだと思う。
だからみんな誰も可愛いなんて言わないし、友だちだってできない。
「夏奈は変だと思っているのか?」
「そ、そんなことはないですけど⋯⋯」
「なかなか可愛くていいと、私は思うけどな」
全く予想外の返答に、私はまじまじと先生の顔を見てしまった。
「か、可愛いですか?」
「so cute! とても夏奈に似合っている」
「失礼します」
そこで店員さんがやって来て、私たちの前にチョコレートのパンケーキと苺のパンケーキを並べた。
食欲をそそる甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「ちょうど、この苺と同じ色だな、夏奈の髪は」
そう言って先生はパンケーキの上に乗せられた苺をフォークですくい取った。
「⋯⋯苺、色」
「そう。確かに夏奈の髪は苺色だな」
先生は何でもないことのように話す。
だけど私は、やっと自分がしたいと思って、可愛いと思って染めた髪のことを分かってくれた人がいて。
(これでもいいんだ、私)
四ヶ月もたって、ようやく私は自分を認めてもらえたようで、ずっとずっと暗がりだった場所に光が届いた。
「夏奈、どうした? どこか具合が悪いのか?」
急に心配げに私を見る先生の顔がにじんで見える。知らないうちに泣いていたらしい。
「何でも、ないです。ちょっとパンケーキがあんまりに美味しそうだから、感動したんです」
「そうか。それならいいんだが⋯⋯」
まだ戸惑っている先生に、私は心の中で呟いた。
(ありがとう、先生)
窓の向こうを見れば、灰色の空の隙間から太陽が覗いていた。
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