第29話 楽隊カフェ その1

 その後俺は、桜咲のプロレストークの相手をして過ごした。


 ふと時計を見ると、夕方が近づいていた。

 そろそろ夕食の準備をするために帰るべきだろう。


 結愛のバイトは、たいていは午前中から夕方までのシフトで、夕食の準備には十分間に合うのだが、いくらなんでも労働で疲れている身に負担を掛けるわけにもいかない。


 だから結愛にバイトがある日は、紡希にも手伝ってもらいながら、俺が料理当番をしていた。

 

 紡希は自分なりのオリジナリティさえ出さず、レシピ通りにやれば、ちゃんとした料理をつくれるからな。俺がサポートに付けば、大事な料理要員になってくれる。スキルよりもメンタリティの問題であり、善意が根底にあるから、注意したくてもできないんだよなぁ。


「結愛、そろそろ帰るわ」


 給仕の最中に、ちょうど近くを通りがかった結愛に声をかける。


「あ、そっか。慎治が夕食当番やってくれてるんだもんね」


 結愛も名雲家のタイムテーブルは把握しているから、余計な説明をする必要はなかった。


「でも、もうちょっと待ってくれない? そろそろ時間だから」

「あれ? バイトが終わるのはもう少し先だろ?」

「いいからいいから、そんな時間かからないし」


 などと結愛が俺を引き留めようとしているのか、俺の額に人差し指を突き立ててくる。肩を押さえれば俺の怪我に差し支えるかもしれないと気を遣った結果なのだろうが……これ、本当に立てなくなるんだよな。


 結愛に額を押さえつけられていると、ロコ店長が行動に出た。


 それまで、お客に一切迷惑をかけることなく気ままに店内を散歩していたロコ店長は、定位置らしいバーのカウンターに飛び乗ると、ぴんとヒゲを立てて、にゃあと鳴いた。


「おっ、きたきた、時間だ」

「いったい何が始まるんだ?」


 店の奥へ向かっていく結愛の背中を見て、俺は首をひねるしかない。


「名雲くん、知らなかったの?」


 優雅に特製スムージーをすすっていた桜咲が、得意気にする。


「この店、オーナーがアート志向の強い人で、いつも決まった時間になると、アマチュアでも学生でも音楽の心得がある人をあそこのステージに上げてちょっとした演奏会するんだってさ」

「えっ、そうなのか……?」


 てっきり俺は、単に給仕の仕事をしているだけと思っていたのだが……。


「じゃあ結愛も?」

「そうそう。結愛っちってピアノ弾けるから」

「そういえば……」


 結愛がピアノを弾けるらしいことは、結愛のマンションへ行った時、大量のトロフィーが飾られていたのを見て知っていた。あの時は、ギャルの結愛と、お淑やかなイメージがあるピアノが結びつかなくて混乱したものだ。ひょっとして結愛はギャルではないのでは? と思ったくらいだから。


 ステージの隅にあるピアノの前に腰掛けた結愛の他にも、腕の覚えがありそうな演奏者たちが集まってきた。


 みんなそれぞれ楽器を持っている。音楽素人の俺でもわかる楽器だ。結愛のピアノを除けば、アコースティックギターにベースに、ささやかなドラムセットといったところ。みんな店の制服のまま演奏するらしい。ちょっとした学校祭のノリがあった。


 結愛が演奏するとなれば、勝手に帰るわけにはいかない。


 いざ演奏が始まると、ボーカルを取らない形態とわかった。


 骨太で頼もしい音色が心地よいベースに、鼓動を落ち着かせるようなペースで正確に刻まれるドラムに、憂鬱な気分を少しずつ削り取っていく軽やかな音粒のアコースティックギター、それに加えて、打鍵するたびに店の中がより明るくきらびやかになる結愛のピアノという組み合わせは、違和感なく混ざり合い、店内に癒やしの空間をつくりだした。


 帰ろうと立ち上がりかけたお客を席へ引き戻すほどの力があったようだ。ステージに上がっていないウェイトレスの動きが活発になっているから、演奏を聴きながらもう一杯だけ何かを飲もうと注文する客が増えたのだろう。


 俺もつい追加で注文しそうになったけれど、あいにく夕食の支度がある。紡希も待っていることだし、演奏はまだ続いているので心惜しくなるのだが、このあたりで帰らなければいけない。


 結愛は、バイトの面接を複数受け、合格し、最終的にこの『エルパソ』で働くと決めた。第一希望が、ここだと言っていた。おそらく、こんな素敵な演奏の場を持つことができるから、結愛は気に入ったのだろう。俺からはピアノと向かい合う結愛の背中しか見えないけれど、きっと楽しんで弾いているのだと思う。音が弾んで聞こえるもんな。


「……結愛っち、あれだけピアノ弾けるんだからさ」


 結愛の背中を見つめながら、桜咲がぽつりと言った。


「やっぱり、ちゃんとしたところで続けたかったんだろうね。コンクールとか、なんかそういうのにいっぱい出続けたかったんでしょ」

「やめる理由があったのか?」


 ピアノを弾ける、ということ以外、俺は知らないのだ。


「あっ、名雲くん聞いてないんだ……」


 眉間にシワを寄せる桜咲が、自らの口を塞ぐ。自分の失敗を責めるかのようだった。


「たぶん、聞いていないと思うんだが……」


 そんな桜咲の態度が気になった。


「ううん、いいや。瑠海が言っていいことじゃないから」

「えぇ……そこで秘密にするの?」


 勿体ぶらず教えてほしかったのだが、どうも追及してはいけない深刻な雰囲気があった。穏やかで感じのいい店内に相応しくない空気感になりかけたのだが、結愛たちの演奏が、剣呑な雰囲気をすぐに取り除いてくれた。


「そうだよ。結愛っちが言いたくなったら、その時言えばいいことだから」


 演奏の影響を受けているらしい桜咲も、知らない俺を責めることはなかった。

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