私が僕であるために

白キツネ

1.プロローグ

 そこは何もないただ暗い空間だった。ただそこに一人だけが立っていた。


「ここは…」


 周りを見回しても何もない。ただ真っ暗な空間で、右も左もわからない。けれども、自分が立っていることだけは何故だかわかる。


「とりあえず、歩いてみるか」


 いつまで歩いただろうか、ただこの場所では疲れることはないらしい。

 だけど、ずっと真っ暗なため、自分がどこにいるのか、どこに向かっているのかは全然わからない。

 そう考えた瞬間、前から眩い光が差し込む。思わず、目を瞑り、しばらくしてから目を開けると、あの真っ黒な空間はよく見る街並みのよく見る交差点にいた。

 目の前の信号が青に変わり、多くの人の流れが目に入る。

 けれど、どの人も影のように全身が黒くなっており、他の人との判別がつかない。


 戸惑っていると、横から誰かが手を繋ぎ、自分と一緒に進もうとする。


「どうしたの?」


 その人物、女性だと思われる人から声をかけられ、その人物をよく見てみる。

 その人物も他の人と同様に真っ黒で、判別がつかないけれども、自分の手を握っている手は人の手の色をしており、女性のように細い手をしている。

 もう一度、その人物を観察すると、自分よりも少し背が高く、高校生ぐらいに見える。

 自分はその女性に対し声を掛ける。


「お姉ちゃんは誰なの?」


 顔を見ることはできないので、感情はわからないが、少しの沈黙の後、笑い声が聞こえる。


「〇〇ちゃんは面白いことを言うね。実のお姉ちゃんにそんなことを言うなんて」


 自分のことを言っていると思うが、うまく聞き取れない。それに、女の子の言葉に気になることがあった。

 自分に姉はいただろうか。それに、自分の名前すらも出てこない。自分の名前は……

 その時、横からすごいスピードでトラックが来るのが見えた。

 運転手の顔は見えない。他人事のように、そんなことを考えていると、急に背中を押され、前に倒れる。

 振り返り、押された場所を見ると、押した女性の顔がしっかりと見える。


「ごめんね」


 そう言って彼女が笑った瞬間、僕は彼女に向かい手を伸ばす。


「紗夜お姉ちゃん!」


 その手が届くわけもなく、トラックが彼女に衝突した瞬間、パリンと音がし、今の光景がガラスのように砕け、また暗い空間に戻ってきた。


 今のは光景は一体、それに彼女が最後に言ったごめんねとはどういう意味だろうか?

 謝るのは助けてもらった自分の方なのに。


 最後に彼女の名前は思い出すことができた。


 紗夜おねえちゃん。


 じゃあ、僕の名前は…


 僕という言葉に違和感が生まれる。自分のことを今まで何て呼んでいただろうか?


 俺?


「ううん、違う、私の名前は櫻井紗夜だ」


 その瞬間、ジリリリと音がなり、目が覚める。


「なんの夢を見ていたんだっけ」


 誰かと会っていたような気がする。


「まあ、いっか。覚えていないってことはそこまで重要ってことじゃないよね」


 ベッドを抜け出し、今日から始まる高校の制服に身を包み、姿鏡で自分の制服姿を見る。

 鏡に写っている少女は黒髪で背中まで伸ばしている。


「準備できた!」


 おかしなところは何もないので、朝食を食べ、玄関に向かう。


「忘れ物はないかい」


 ふと、後ろから声をかけられ、答えながら振り返る。


「うん、昨日ちゃんと準備したから大丈夫だよ。おばあちゃん」

「そうかい。それならいいんだ。気をつけて行ってくるんだよ」

「うん。じゃあ、行ってきます」

――――――――――――――――――――――――――

Side:おばあちゃん(櫻井八千代)


 少女が返事をし、家から出ていく後ろ姿を見ていると、夫である、大助が話しかけてきた。


「あの子。樹はやはり紗夜の姿で学校に行ったか」

「はい。ですがそれを私たちが止めることはできません」


 樹が紗夜の姿になるのは彼自身を守るためだと考えられる。

 彼にとって、私たちは彼を守れる対象ではないのだろう。

 彼をずっと守ってきたのは私たちではなく、亡くなったあの子の姉である紗夜だけなのだから。


「はぁ、私たちであの子の心の傷を癒すことができたらよかったのだが」


 小さくため息を吐きながら、大助は自分たちの無力さを痛感する。

 そのためにはもっと早く、彼女たちと関わるべきだった。

 それができなかった私たちには、あの子を癒すことができない。


「あの子の心の傷は相当深いところにあります。それでも誰かあの子自身を見てくれる人がいつか現れることを願うだけです」


 まだ見ぬ誰か。あの子、樹を紗夜という少女ではなく、一人の男の子として、彼自身を見つけて欲しい。

 それを願うことしかできないのが苦しく感じる。


「ああ、そうだな」


 私たちは紗夜の姿をした樹の姿が見えなくなるまで見送り続け、そして祈る。

 今の紗夜を樹として見てくれる人が現れますように。

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