夜
珠響夢色
夜、黒猫を見た。
黒猫だった。
黒猫が前を横切ることは不吉なことだという。確か、黒猫自体が不吉なんじゃなくて、幸運をもたらす猫が立ち去るのは不幸の前兆だという話だった気がする。実際のところは分からない。ただ、ここ最近は猫なんて見なかったから、珍しいなと思った。トラックの横にいる猫はよく見かけるのだけれど。
「にゃん」
一声、鳴いた。よく通る声だった。猫の声を聞くまで、あらゆる騒音が無いことに、気づいていなかったみたいだ。やけに静かな夜だった。きっと空はきれいだろう。地上の静けさはきっと、天体の魔力に息を飲んでいるからだ。
猫がこちらに近づいてきた。ゆっくりと、地面にある白い帯を横切ってくる。猫に足音はない。その猫は多分野良猫で、首輪がなかった。
私はその場に佇んで、じっとその猫を見ていた。その猫が、ただ道路を渡り終えどこへ向かうのか。ただその行く末を見ようとした。疲れているのか、熱帯夜で蒸しているのか、猫のせいなのか分からない。どうも今動くことが、ひどく億劫に感じた。ただ黙って立ち、見ていた。
「んにゃーん」
長く鳴いた。その視線の先にはなにがあるのだろうか。何を見ているのだろうか。私はその猫の瞬きの回数すら数えられるくらいに見ていた。今この場を猫が支配していた。いや、そんな面倒なことじゃない。この世界は猫だった。猫はこれといって何もせず、ただその存在感から、世界を構築していた。それほどまでに、私は夢中だった。人目など、その猫の視線の力にかき消された。
私は誰だったろうか。
ふとそんな疑問が頭をよぎる。口に出ていたかもしれない。静かなる夜、眩しく薄っぺらな街灯、そして黒猫。黒い。そして、あらゆる色を吸い込む色から発せられるプレッシャー。どんどんと世界を塗り替えていくような錯覚。
もう一つのリアルがそこにあった。
夜であった。
太陽なぞ。話にならなかった。
ここは偉大なる、個の時間であった。全体を取りまとめるものはいない。従うべき空気もない。ただ個々の大小なる輝きに満ちた、そんな場所であった。
そして、私は猫の世界に入り込んだ。孤独な時間が、いや、相変わらず孤独ではあったものの、すっかりと猫の空気に包まれていた。
この緊張も長くは続かない。不意に、日中の出来事、人生の昼、ジリジリチクチクと日の光につつかれていた記憶。具体的になにというわけでもない、漠然とした昼の感想というものがどっと胸に流れ、こぼれ落ちていく。地面に落ちた昼の残滓が跳ね返って、肌をベタつかせる。そんな感覚の中を、ただぼーっと。何もしないで漂っていた。
チリンチリン。
少しだけ自分が戻ってきた感覚とともに、私は知らない場所にいた。さっき見つめていた猫と一緒だった。
着いて来いと言わんばかりに、チラとこちらを見て、スッと闇の中へと溶け込んでいく。
足を踏み出すと、地面の柔らかさに驚く。地面がジメジメと刺してこないことに気づく。周りは黒一色で、なんとなくの濃淡を頼りに前へ向かった。
チリンチリン。
猫が出す音だと思う。鈴なんてなかったのに聞こえてくる。猫の魂が語りかけているような気がした。私はこの尋常ならざる世界に疑問などなにも持てなかった。このまま、どこかへ行ってしまいたい。日中ぼんやりと頭の中に浮かんでいた願望が、私の中の違和感たちを包んで覆い隠してしまった。ただ足を前へ進めた。ただ進むことをした。澄み切った穏やかな気持ちだた。
これほどまで、気持ちのいい逃避行はないと思っていた。逃げることは悪いことだったから。憎らしい視線が気持ち悪いから。でも、もう何も関係ない。この夜は私だけのもの。この先の夜は私だけのもの。
チリンチリン。チリンチリン。
鈴の音に導かれて夜を追いかける。
私の心を反映して、周りの風景が変化する。
ただ黒一色の風景の中に、様々なディテールが透けて見える。ここは全てを内包していた。進むたび、解像度が増していく。
ゆったりと歩く。何も考えなくていい。頭にぼんやりと思い浮かんだ言葉は、周りの闇に溶け出していく。悪い言葉がいくらでも出てきた。良い言葉はがんばって、引き止めた。黒いぐじゅぐじゅしたものが、脇の下をスルッと通って落ちていく。ズボンの裾からボトボト落ちていく。
心がじんわりと白んでいく気がした。
気持ちよくなって、どんどん黒いものを外へ出した。
だんだん足取りが軽く、スンと冷えたさわやかな空気を体に感じるようになった。大地が徐々に傾きだしてきたけど、足は速くなった。このままプカプカと浮かんで、自分も星になれるような気がした。
あの天井に所狭しと並んだ輝きの中へと、自分は向かっている。その証拠に前方の夜が少しずつ、白みを帯びてきた。ほんの少しずつ、一歩進むたび、息を吹きかければ破れてしまうような白色のベールが一枚、また一枚と重なり合う。
もうすぐだと、もうすぐだと、心にあった黒いものを出して出して、推進力に変えていく。もっと、このきれいな光の中へ飛び込んで、そしたらきっと、いい日がやってくる。
もうすでに両の足が同時につくことはなく、腕がだらんとしていることもなくなった。
空気の流れが、そっと頬をなでて、頭をなでて、こっちだよと歓迎してくれる。
だんだんと夜はフェードアウトして、さっきまであれだけ夜を愛していたのに、この先にある明るい希望へと手を伸ばしていた。
遠くの、遥か遠くから世界に色が溢れ出す。
地平が空が、明るい青を取り戻していく。
体は投げ出され、全力で両手と両足で風を抱いた。
地球の有無を言わさない手招きに乗って、あるべき日常へと落下していく。
ジリリリリリリリリリリリリリリリ。
心臓にドクンと喝を入れ、グシャグシャの布団をベッドの隅へとほうり投げた。
夜 珠響夢色 @tamayuramusyoku
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