第5話
紅姫はのんびりと主の暇潰しに付き合っていた。無言で碁を打ち、時折茶を啜る音が響く。それだけの穏やかな空間。
「……そろそろ、戻る頃か」
「若様ですか?」
「
「?」
買い物に行かせたとは聞いたが、それで煩くなるとは一体どういうことだろうか。紅姫が疑問に思っていると、急に門の方が騒がしくなった。
「若様、廊下を走ってはなりません」
「今は緊急時だ、許せ!」
侍女と彰比古の揉める会話がここまで聞こえてくる。本当に何かあったらしい。すると、スパンと音を立てて部屋の障子が開け放たれ、憤りを顔に丸出しにした彰比古が現れた。
「おじい様、俺にどんな無茶をさせるおつもりですか!」
「む? 式に無茶をさせるのは至極当然のことじゃろう。何を怒っておる」
「くっ……」
紅姫は主が心底愉しそうに笑っているのを見て悟る。またこの主は孫を揶揄って遊んでいるらしい。
「きっと、使い慣れた清水じゃなきゃ、おじい様は嫌がるんでしょうね……」
「儂は富士の清水を手に入れて来いと言うた。他の物を持ってくる道理はあるまい?」
「……おじい様、数日留守に致します。宜しいでしょうか」
怒りでぷるぷると震えながらも、彰比古は努めて慇懃に外泊許可を求める。
「良いぞ。勝手にせい」
「では、失礼致します」
踵を返して去っていく彰比古を湯呑を手にしたまま、ぼんやりと見ていた紅姫に政彦が声を掛けた。
「気になるか?」
「富士の清水……店で手に入らぬ上に若様が外泊を求められるとは、何か起こっているようですね」
「左様。あやつは式神である以前に儂の後継者じゃ。この機会に一層酷な試練を以て鍛えてやるのが祖父心というもの」
「……主様」
紅姫の言わんとするところを察して、政彦は穏やかな笑みを浮かべた。
「そうさな。あやつは式神としては新米じゃ。念のため、お前も付いて行ってやれ、紅姫。屋敷は儂一人いれば十分じゃろうて」
紅姫はそっと頷いた。
***
紅姫は式神であるため、旅支度は不要だ。強いて言うならば、小袖から戦闘に便利な丈の短い衣に着替えるくらいである。身一つで屋敷を出て木々の上を飛ぶように移動していると、街道を歩く彰比古の姿を捕捉した。
「……今の若様は私と同じ式神。隠れて見守る必要はあるのだろうか」
低く呟いても、答えは出ない。木の上で悶々と悩んでいると、肩の上に白い雀が乗って来た。生物の気配がないことから、式であることがわかる。
肩に乗って来た雀は彰比古の声を発した。
「紅姫。一緒に歩こう。一人旅は結構悲しいんだ」
「若様」
ハッと彰比古の方を見ると、彰比古はいつの間にか足を止めて、此方の方を見上げていた。そして、紅姫と目が合うと、荷物を持っていない方の手を振って来た。
紅姫は雀の式を肩に乗せたまま、彰比古の傍に着地する。
すると、雀は式符に戻り、彰比古の手の中へひらひらと戻っていく。
「下りてきてくれて、ありがとう。紅姫」
「いえ。若様のお望みでしたから」
「じゃ、一先ずこれに着替えてくれ」
「え」
小振りな風呂敷包みを押し付けられて、紅姫は瞬きした。少し結びを解いて中身を見れば、普段紅姫が屋敷で着ている小袖一式だった。
「忍者みたいな恰好の娘を連れていると色々と問題がある」
確かに、道を行く他の旅人が二人のことを不思議そうに見ながら通り過ぎていく。
「なら、私が気配を絶ちます。そうすれば、問題ないでしょう」
精霊を基に造られた紅姫は隠形ができる。気配を断絶し、姿を消すことが可能だが、彰比古は嫌がった。
「いやいや、俺は一人旅が寂しいと言っただろう。隠形されたら困る」
彰比古は紅姫の手を引いて街道から外れ、人目がない茂みに入っていく。
「この辺でいいか」
立ち止まった彰比古は草履の先で地面に線を描いていく。大きく線で紅姫を囲うと、片手で印を結んだ。
「
地面に描かれた線に沿って不可視の結界が築かれる。そして、霊力を溜めた指先で、彰比古は結界をツンと
「其の身を隠せ、光の
中にいた紅姫ごと結界が周囲の風景に溶け込んだ。言霊で結界に周囲と同化する効果を追加し、彰比古は紅姫のために簡易的な着替えの場を作ったのだ。
「若様、わざわざこのような……」
「ほら、早く着替えないと日の入りまでに俺が宿場町に着けないぞ」
「それに、何故私の小袖をお持ちなのですか……」
「今は村の方が落ち着いているからな。何か起こっても、おじい様一人で事足りる。なら、紅姫を俺の手伝いに付ける可能性が高いと読んだ」
彰比古は何だかんだで頭が切れる。
折れるしかないことを悟った紅姫は諦めて小袖に着替えるのだった。
***
「明日には水源がある集落に着けそうだな」
目的地手前の宿場町に泊まることにした二人は、こじんまりとした部屋で休んでいた。夕餉は屋台で済ませ、この宿に素泊まりだ。しかも、安宿を選んだためか、押し入れから寝具すら出ていない状態で部屋に通された。
「清水の件。若様はどう見ますか」
彰比古が億劫そうに床の支度をする様を見ていた紅姫が問うと、彰比古は布団を敷きながら答えた。
「現場を見てみない限り何とも言えないな。災害か何かで水自体が枯れてしまっているのか、それとも何らかの原因で清水としての効能が失われてしまったのか……」
「若様は現状どちらだと思っているのですか」
「そうだな……」
寝間着に着替えるのも面倒になったのか、そのまま横になった彰比古は深く溜息を吐いた。
「勘弁して欲しいところだが……恐らく、後者だな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます