43. “大切”なあなたを

 走る車の中から街を眺めていたが、深夜1時を過ぎているというのに、ワンドゥの街から活気が消えることはない。

 ぎらぎらしたネオンの群れと、その妖しい光に我先にと群がり飛び込んでいく人々の姿が、この大地に集積された“欲望”の色濃さを物語っているようだった。


 だが一方で、主要部を離れれば離れるほど光量は少なくなり、それに比例して人影もまた見えなくなっていく。

 見覚えのある大通りの脇に車は停まり、ナデシコら三人は外に出た。

 深夜の冷やされた空気が、きしむ肉体になんとも響く。


 車を降りる寸前、最後尾にいたアイリスが運転手――狐面の男に頭を下げ、礼を述べた。


「あの……ありがとうございます、わざわざ」

「いいえ。この程度、お安い御用ですよ」


 相変わらずの掴めない笑顔だったが、男はシートにもたれかかったまま、軽く手を振る。

 ギャングでありながら、その気安さは幾分か親しみやすい部分があった。


 伸びをするナデシコの横で、ミハルが大きなため息をつく。


「いやぁ。今日一日で、色んな事がありすぎましたねぇ。まさかあんなギャングの本拠点から、こうして戻ってこれるなんてぇ……」

「ああ、まったくだよ。思い返しただけで、肝が冷えるね」


 絆創膏まみれで笑うナデシコに、ミハルも困ったように頷く。

 満身創痍な彼女が、それでも痛快な笑顔を浮かべていられることに、アイリスとミハルも胸をなでおろしていた。


 道路脇に停められた黒塗りの車からもう一人、真っ赤なスーツを着込んだ男が降りてくる。

 彼は三人の隣に並んで立ち、路地の奥を見つめた。


「こんなところに住んでるのか、お前ら」

「うん。まぁ、私の事務所が奥にあるんだ。ミハルはともかく、私とアイリスはそこで寝泊まりしてるのさ」


 ナデシコの返しに、ギャングの幹部・ジンは「そうか」と呟いた。

 彼は鋭く、しかしどこか優しい瞳を三人に向ける。


「本当に、病院に連れて行かなくていいのか? その怪我――」

「ああ、平気平気! それに、医者なら知り合いがいるから、そいつに見てもらうさ。あれこれ詮索されると、面倒だしね」


 満身創痍な理由を聞かれ、まさか「マフィアと殴り合いをした」などと答えられるわけもない。

 ナデシコらはひとまず、体勢を立て直すためにマフィア「ベスティア・ファミリー」のアジトから、まっすぐ探偵事務所まで帰還することにしたのだ。


「そうか。その……重ね重ね、悪かったな」

「だからいいって、そんなの。私が吹っ掛けた喧嘩――ああ、いや“決闘”だったんだから、恨みっこなしだよ」

「ああ、いや。それもそうだが……まさか、あんなことになるとは」


 言いよどむジンに、誰しもが彼の真意を悟る。

 思わず一同の表情が曇ってしまった。


 殺人事件の被害者・シヴヤと関わりを持っていたギャング・ブランカを銃殺した謎の人物は、未だに捕まっていない。

 即座にギャングらによる捜査網が敷かれたものの、どういうわけかそれを搔い潜り、犯人はあの場から忽然こつぜんと姿を消してしまった。

 ナデシコらだけでなく、「ベスティア・ファミリー」達までもをあざむき、あの黒いフードはまんまと逃げおおせたのである。


 警察に通報することはできなかった。

 これはマフィア達の縄張りで起こった問題であり、そこに白組織が介入することはない。

 なにより、マフィア達も警察に頼るということを良しとはしていないのだ。


 なぜ、あの場所にいたのか。

 そもそもあれは、何者なのか。

 そして、どうして――ブランカを殺す必要があったのか。


 考えることは山積みだが、ナデシコは一旦、それらの思考を脳の隅に追いやる。

 伸びをし、ため息で感情のスイッチを切り替えた。


「まぁ、確かに予想外だったね。でも、今は考えたってしかたがないよ。焦ったところで、余計に消耗するだけだからね」

「そうか。お前ら……思ったよりも、したたかなんだな」

「どうも。こうでなきゃ、“名探偵”は務まらないからね」


 にんまりと笑うナデシコに、ジンはどんな表情を浮かべるかを迷っているようだった。

 そのやり取りを見ていたアイリス、ミハルも、自然と肩の力が抜ける。


 不安はもちろんある。

 だがナデシコの言う通り、ひとまずはこうして全員が生還できたことを喜び、腰を落ち着かせることが先決なのだろう。


 全てを理解できたわけではない。

 それでも着実に、三人は世界の裏に隠された“なにか”の片鱗に触れている。


 シヴヤという男は、間違いなくマフィアと繋がりがあった。

 そして彼は一週間前――死んでいながらもマフィアに連絡を取り、街で活動している。


 死者が大都会の闇の中でうごめき、黒衣の襲撃者が二度もナデシコらの道を阻もうと姿を現した。

 これらは偶然か、あるいは――考えなければいけないことは山積みだが、ナデシコは反射的に推理に走ろうとする思考の足を掴み、ひきずり倒す。

 

「それに、うちは“残業”はしないホワイト企業だからさ。休むときはしっかり休んで、またじっくり考えるさ」

「そうか……こういっちゃなんだが、やめといたほうがいいんじゃあねえか? あいつは、恐らく――“こっち”の世界の人間とは、また別のなにかだぜ」


 思いがけない一言に、顔を見合わせるナデシコ達。

 ミハルが顎をさすりながら、問いかける。


「どういうことですかぁ? 別のなにか――って。まさか、お化けやモンスターじゃあるまいし」

「あの黒フードは銃を持っていた。それに、マフィアの包囲網にかからず逃げ出せるなんて、並の人間じゃあ不可能だ。きっとありゃ、こっち側――“黒い世界”を渡り歩いてきた人間だ」

 

 長らくその“黒”の中に身を置くジンだからこそ、肌で感じるところがあったのだろう。

 ほんの一瞬、月光の中に見えたあの黒フードの姿に、きっと彼は似た臭いを感じ取ったのだ。

 

 殺人事件の容疑者であるアイリスも、視線を落として考えてしまう。


「そんな人が、一体どうして……やっぱりあの事件は……あのシヴヤって人は、殺されなきゃいけない“特別な理由”があったのかな……」

「分からねえ。だがこのまま進めば、またあいつが現れる可能性もある。躊躇ちゅうちょなく人間を殺すようなやからだ。お前らだけじゃあ、危険すぎる」


 それは至極、真っ当な忠告だった。

 あの黒フードが持っていたのは、まごうことなく実弾を発射できる本物の拳銃だ。

 そしてそれを迷わず発砲し、あの距離で男の眉間を打ち抜く腕前を持っている。


 真っ当な生き方をしている人間は、少なくとも身に着けていない“殺人術”だ。

 それを行使する存在が今もなお、この街のどこかにいてナデシコらを見張っている。

 そう考えると、思わずアイリスとミハルの背筋を、薄ら寒い感覚が撫で上げた。


 だがそんな不安や恐怖が、探偵の手を叩く音で消え去ってしまう。


「はいはい、よしたよした。言ったように“残業”は禁止なんだ。大体、こんなさっむい路地の上で、立ち話での会議なんざごめんだよ」


 ナデシコのおかげで我に返り、アイリスとミハルは互いの顔を見合わせてしまう。

 なおもきょとんとしているジンに、ナデシコはどこかきつく告げた。


「ご忠告どうも。けど、こっちも“仕事”なんだ。行き過ぎた親切心で妨害されたんじゃあ、商売あがったりだよ」

「す、すまん……」


 無論、冗談を交えた忠告だったのだが、思った以上にジンは真正面からとらえ、真剣に謝ってしまう。

 その姿がおかしく、アイリス、ミハルだけでなく、車内で様子をうかがっている部下の男も笑っていた。

 

「大体、ますます止まってるわけにはいかないだろう? なにせアイリスに冤罪えんざいを吹っ掛けた奴は、また新しい殺人を繰り返してるかもしれないんだ。これは、ただの殺人事件じゃあない。きっと裏には、もっと大きな“なにか”――誰にも見えてない“真実”が潜んでいるんだ」


 真実――その一言で、一同は改めて考えてしまう。


 やはりこれは、ただの殺人事件の延長などではないのだ。

 確実にこのワンドゥには、人々の知らぬ“巨悪”がいる。

 目的も理由も分からないが、少なくともそれは人間の命を奪い、暗躍している。


 きっとそれで、十分なのだろう。

 探偵という生き物が前を向き歩いていくためには、それが立派な“理由”になるのだ。


 ジンはため息をつき、ようやく微かだが口の端に笑みを浮かべる。


「すまない、無粋ぶすいだったな。最近の探偵ってのは本当――強ぇんだな」

「本当、わざわざ送ってもらっちゃって、ごめんね。あの大ボスさんにも、よろしく伝えておいてよ。色々、お騒がせしました、って」


 三人の脳裏に、あの不敵に笑う男・ギヴルの顔が浮かぶ。

 最後の最後まで、彼だけはまだまだ掴みどころが見えない。


 ふっと笑い、ジンが頷く、


「分かった。しかし――まさかお前ら、この辺りに住んでるとはな」


 おもむろに視線を路地の方に向けるジン。

 一方、ナデシコらはその不可解な一言に首をかしげてしまう。

 

 その些細な一言に、アイリスが無垢な瞳のまま問いかけた。

 当初に比べ、随分と彼に対しての警戒心は薄らいでしまっている。


「どうしたの。この場所に、なにか?」

「あ――いや、その……ずいぶん、俺のうちから近い場所に住んでいるんだなと、思ってな」


 ジンの回答に、目を丸くするナデシコ達。

 アイリスはなおも、ジンに問いかけていく。


「あのリゾートエリアに住んでいるんじゃないの?」

「あんな場所に住めるほど、稼いでるわけじゃあねえからな。この近くの安アパートが我が家だよ」


 思いがけない事実に、ミハルが目をキラキラさせながら声を上げた。


「へええ、意外っ! マフィアって、もっとこう、札束風呂とかクラブのVIPルームでバーボン片手に贅沢三昧……ってイメージでしたけど、違うんですねぇ」


 どんなイメージだ――思わずナデシコらまでも心の中でつっこむが、ミハルはお構いなしに手帳を取り出し、メモを取っている。

 恐らくこの事実も、今後の執筆活動に生きてくるのだろう。


 意外な“ご近所さん”という事実に、肩の力が抜けてしまうナデシコ達。

 そんな一同に、若い女性の声が投げかけられる。


「あれ、お兄ちゃん。どうしたの、こんなところで?」


 一斉に振り返ると、そこには少し古めのコートを着込んだ、金髪の女性が立っていた。

 短く切り揃えた髪を揺らしながら、彼女はビニール袋を片手に近寄ってくる。


 その姿に声を上げたのは、ジンだった。


「リサ。お前、なんで――」

「明日休みだからって張り切ってたら、筆が乗っちゃってさ。で、甘いもの欲しくなってコンビニ行ってきたの」


 大きく丸い目をくしゃりと歪ませ、リサが笑う。

 掲げたビニール袋の中には大きなプリンが二つ、覗いていた。


 彼女の透き通った栗色の瞳が、そばに立つナデシコらを不思議そうに眺める。


「お兄ちゃんの知り合いの方ですか? でも、随分と若い人達ばっかり」

「あ、いや……知り合いってほど――いや、一応、知り合い……か?」


 なんだか彼女が登場してから、ジンの態度がより一層、しどろもどろになってしまった。

 だが深く詮索などせずとも、一同にはその理由がすぐに分かってしまう。

 偶然にも登場した妹・リサの存在が、彼女をマフィアの幹部からただの“兄”へと変えたのだろう。


 誰よりも素早く切り返したのは、ミハルだった。


「ジンさんの妹さんですかぁ? はじめまして。私達、本日ジンさんにお世話になったものですぅ」

「ああ、そうなんですか? はじめまして! お兄ちゃんが女の人達とお近付きになるなんて、珍しいね」


 笑顔で振り向かれても、ジンは「おぉ」と視線を反らしながら言いよどんでいる。

 その姿を横目に見ながらも、ミハル、そしてナデシコまでもどこかニヤニヤしていた。

 一方で、アイリスは純粋に“歳の近い女同士”という立場から、笑顔で語りかけた。


「私達も、この辺りに住んでるんです。ご近所さんだって聞いて、驚いていたところです」

「へえ、そうなんですね! ねえ、お兄ちゃん。一体皆さんと、どういう関係なの?」


 リサはなおもぐいぐいと踏み込んでくるが、ジンはあくまでポケットに手を入れたまましぶっている。

 運転手の男がやり取りを眺めながら「長くなりそうだ」と観念し、シートに大きくもたれてしまった。


 どこかかわいそうになり、ナデシコはようやく真っ当に切り返す。


「私ら“探偵”やってるもんでね。おたくのお兄さんには、随分と手助けされたんですよ」

「探偵さん!? 凄い凄い! 私、初めて見――」


 リサは目をキラキラと輝かせたが、すぐに我に返る。

 ナデシコとジンの顔が傷だらけであることに気付いたらしい。

 二人の顔を交互に見ながら、最後にジンに問いかけた。


「その怪我、どうしたの。お兄ちゃん?」

「あ……いや……ちょっと、色々と……こいつらと、もめてな――」


 適当にあしらえば良いものを、つくづくこのジンという男は“馬鹿”が付くほどの正直者らしい。

 ばつが悪そうに親指でナデシコらを指差し、目を反らす。


 リサの顔色が、みるみる変わっていく。


「もめた? もめたって……まさかお兄ちゃん――」

「いや、その……すまん、俺――」


 ジンが答えきる前に、妹が打って出る。

 リサは躊躇ちゅうちょすることなく、真っすぐジンの股間を蹴り上げてしまった。


「――ッ!?」


 息をのむナデシコら三人。

 凄まじい音に、慌てて振り返る運転手の男。

 そして何より、激痛に目を見開き、両手で股間を抑えて悶絶するジン。


 誰もが混乱に包まれる中、ついにリサが激昂する。


「信――じられない!! お兄ちゃん、ついに女の人とまで喧嘩したの!? 最低ッ!!」


 言い訳をしたいのだろうが、悶絶してしまい声が出ないらしい。

 口をパクパクしながら、汗だくでジンは耐えている。


 突然の事態に言葉を失う一同の前で、なおもリサは手を振り回し、えた。


「私、言ったよね!? 女の人に手を上げる男は、最低だって!! 信じられない、こんな若くて華奢きゃしゃな女の人に!!」


 ナデシコを指差し、顔を真っ赤にして起こるリサ。

 だが一方で、彼女が事の背景をどこか勘違いしていることに気付いてしまう。

 なにせリサが思っている程、ナデシコは“華奢”でもなければ、か弱くもないからだ。


 これはまずい――慌てて、ナデシコやミハルが妹をなだめる。


「あ、あの、妹さん、落ち着いて。これにはわけがあってだね――」

「そ、そうそうっ! 大丈夫ですよ、ナデシコさんはちゃんと鍛えてるから、多少のことじゃあ、びくとも――」


 ミハルの言葉にアイリスが続くが、この一言が完全に藪蛇やぶへびとなってしまう。


「う、うん! 大丈夫だよ、ナデシコは強いんだよ。だからちょっと殴られたくらい、どうってことないよ!」


 ナデシコが目を丸くし「馬鹿!!」と合図するが、時すでに遅し。

 リサがその言葉を聞き、わなわなと震えだす。


「殴った――ですって?」

「あ……違う、そうじゃなくって!」

「最――低ッ!!」


 振り上げられたビニール袋――その中で自由に暴れる二つのプリンが、ジンの顔面にクリーンヒットし、吹き飛ばす。

 男は股間を押さえたまま「ぐえ!」と声を上げ、目を丸くしてのけぞる。

 

 夜の路地に響き渡るリサの怒号と、それをなだめるナデシコらの声。

 静かな深夜の路地を乱暴に揺らす喧噪に、運転手の男は大きなため息をついた。




 ***




 リサが冷静になるまで、ジンは実に五発のプリンによる打撃を受けてしまっていた。

 事態を飲み込んだリサが一変、今度は両手を合わせ、深々と兄に頭を下げている。


「ごめん……本――当にごめん……」

「い、いや……いいんだ。俺なら、大丈……ッ!? ……夫……」


 ジンは平静を取り繕っているが、未だに股間への痛打が響いているらしい。

 なんとか体を揺らし、鈍痛を和らげようと必死だ。


 苦笑いしながら、ナデシコはリサに語り掛ける。


「分かってくれたようで、良かった良かった。本当、大丈夫なんで。こっちも随分と、お兄さんには無茶させてしまったからさ」

「い、いえ。でも、兄がナデシコさんを殴ったことは、事実ですから……」


 申し訳なさそうに、今度はナデシコらに頭を下げるリサ。

 彼女は不安げな表情で、ナデシコを見上げた。


「でも、本当にナデシコさんがお兄ちゃんと? いまだに信じられません。お兄ちゃんみたいな“脳味噌筋肉”なゴリラみたいなやつと、本当に対決なんてできるんですか?」

「ああ。まぁ、こう見えて鍛えてるんで」


 ひどい言われようだな、兄貴――三人は、未だに視線を反らして体を揺らしているジンを横目に、いたたまれなくなってしまった。


 何とか平静を取り戻したジンが、ようやく妹に告げる。


「俺ぁ、こいつらを送り届けてたとこだ。まさか偶然、お前に会うとはな」

「そうだったんだね。ごめんなさい、余計なところで引き止めてしまって」


 またも頭を深々と下げるリサ。

 なんだか申し訳なくなってしまい、ナデシコらは首を横に振る。


「お邪魔したみたいで……また今度、是非お詫びさせてください」

「ああ、いやいや、お気になさらず! 本当、大丈夫なんで!!」


 なんだか調子がくるってしまい、ナデシコは困ったように笑う。

 なんとも律儀で礼儀正しい女性である。


「お兄ちゃん、ちゃんと送り届けてあげてね。じゃあ、私はこの辺で。本当に、すみませんでした!!」


 ちくりと兄の脇腹を小突き、最後にまた深々と一礼するリサ。

 おそらく中身がぐしゃぐしゃになったプリンを手に、彼女はそそくさと走っていってしまった。


 深夜の嵐が去り、しばらく去っていく背中を見つめてしまう一同。

 ジンが後ろ頭をかき、ばつが悪そうに言う。


「その……すまねえ、うちのが……ちょっとばかし、口うるさくってな」


 視線を落とす彼に、ナデシコがようやく肩の力を抜き、純粋な笑顔で返した。


「いやぁ、全然。なるほどね。あの子が、あんたが戦う“理由”だったわけね」


 思いがけない一言に、目を丸くするジン。

 ナデシコらとしても、まさか話に聞いていた妹にこんな場所で会えるとは思えなかった。


「俺の、唯一の家族なんだ。俺がこういう稼業をやってるのは知ってる。だから、いつもあれこれ心配しててな。特に『暴力は駄目だ』って」

「なるほどねぇ。そりゃあ、マフィアやってる身としては、なかなか難しいよね」


 共感して笑うナデシコに、ジンは「まぁ、な」と頷く。

 ここで、リサが放ったある単語に気付いたミハルが問いかける。


「妹さん、『筆が乗った』って言ってましたねぇ。なにか、画家さんとかをやられてるんですかぁ?」

「そんな、たいそれたもんじゃあねえよ。ただ、あいつは――“漫画家”目指しててな。毎日、賞目指して、あれこれ描いてるんだ」


 この一言にミハルが「へえぇ!」と目を丸くし、ナデシコらも驚く。

 アイリスが嬉しそうに声を上げた。


「すごい、漫画が描けるの?」

「ま、まあ。つっても、それで飯が食えてるわけじゃねえが……」


 言いつつ、ジンは視線を路地の奥に送る。

 妹が消えていった闇の中を見つめる瞳には、静かな力が宿っていた。


「色々あって、家族は壊れちまった。だからあいつには――これ以上、辛ぇことは、もういらねえ。俺がどれだけ傷付こうが、あいつだけは純粋に“夢”を見て生きてほしいんだ」


 真剣な色を取り戻したジンの横顔に、ナデシコらは息をのむ。

 茶化すのをやめ、探偵はふっと笑った。


「なるほど、ねえ」

「なんだよ、その顔は」

「いや、別に。重ね重ね、あの場所であんたと出会えて良かった」


 意味を理解できず「ああ?」と首をかしげるジンに、ナデシコは絆創膏まみれの顔で、なおも笑う。


「あんた、底抜けの“良い人”だ――まぁ、ちょっくら馬鹿正直なところはあるけどね」

「なんだそりゃ。褒めてんのか、馬鹿にしてんのか、どっちだよ?」

「さあ? それこそ、妹さんに聞いたら分かるよ」


 意地悪に笑うナデシコに、ジンはなおも眉をひそめる。

 どこまでも“真っすぐすぎる”男に、アイリスやミハルまでも笑みを浮かべてしまった。


 しかし、アイリスがここで、どこか真剣な眼差しで彼に語り掛ける。


「あ、あの……」

「ん、なんだ。嬢ちゃん?」

「その……今さっき、『自分がどれだけ傷付いても』って言ってたけど……それは、良くないと思います……」


 少女の言葉に、息をのむジン。

 彼だけでなく、ナデシコとミハルも、アイリスを見つめた。


「なにがあったかは、分からない……だ、だけど……まだ“家族”は、壊れてなんかないと思います。あなたがいるから……妹さんにとって、あなたはお兄さんで……一緒にいる場所が“家族”の居場所だから。だから――」


 たどたどしくも、思いを告げるアイリス。

 少女が必死に伝えようとする思いを、男は黙して受け止める。


「妹さんが大切なら――妹さんが大切にしているあなたを、大切にしてください」


 きっとそれは、己の身をかえりみず前に進もうとするジンの危うさを見た、少女の純粋な優しさだったのだろう。

 そして同時に、“家族”というものに思いをせるアイリスだからこそ告げられた言葉だったのかもしれない。


 妹・リサがふらりと買いに行ったプリンは“二つ”あった。

 彼女は自分一人で食べるためでなく、“家族”で食べるためにあれを買ったのだ。


 アイリスの目の前にいる“虎”は、鋭い眼差しでこちらを見ている。

 だがそこに、当初のような敵意も狂暴さもない。


 ジンは少し考えた後、「ふぅ」とため息をつき、頷く。


「ありがとな、嬢ちゃん。参考にする。その……女心ってのは、てんで分からねえもんでな」


 なんとも不器用な礼を受け、少しだけ息をのむアイリス。

 二人のやり取りを横で見ていたナデシコとミハルも、互いの顔を見合わせ、笑う。


 何から何まで、人というのは見かけによらない――マフィアと対峙していながら、一同が抱いた思いは、数時間前までとは随分と色が違っている。


 アイリスは改めて、目の前の男を――そこに重なるヴィジョンを視る。

 燃え盛る炎を纏った“虎”が、真っすぐな眼差しをこちらに向けていた。

 その身を包む焔の熱が、今は少しだけ夜の冷たさを押し流してくれるように、錯覚してしまう。


 暖かい――男の本質から伝わったそれに、ようやくアイリスは彼に微笑み返すことができた。

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