37. ファイトクラブ
金属製の巨大な扉を開くと、まずは眼前を闇が覆っていた。
だが戸惑う暇もなく、むせ返るような熱気と、けたたましい怒号の群れが体を叩く。
屋敷から離れた位置に連なる、巨大な倉庫。
その中で行われているのは、積み荷の運搬でも日雇い外国人を使った労働でもない。
もっと異質で、そして野蛮な“興行”だ。
倉庫の真ん中に作られた、特設のステージにスポットライトが当てられている。
その白い四角形を取り囲むように、荒くれ者達が群がり、壇上の二人に声援を送っていた。
上半身裸の男が二人、ステージの上――否、即席の“リング”の上で、激しい殴り合いを繰り広げている。
リング脇の黒板に書きなぐられたオッズは“5 VS 3”。
その倍率から見ても、二人の実力は
ぶつかり合う肉の応酬を、観客達は自身の信じた“勝ち筋”に声援を送りつつ、見つめていた。
バンダナを巻いた男が、黒人の男を殴り飛ばす。
その一撃が決め手となり、勝敗は決した。
高らかに鳴り響くゴングの音色。
勝者への賞賛と、敗者への罵声。
その一連の“イベント”を、遠くからナデシコらは見ていた。
相も変わらず、周囲はマフィアの黒服達が包囲している。
言葉を失い、
「カッカッカッ! いいねいいねぇ、今日も大盛況じゃあないかぁ!」
無邪気に笑い、杖をつきながら進む。
ボスの登場に一人、また一人と気付き、荒くれ者達の顔が驚きの色に染まる。
リングの周囲を取り囲んでいた輪がざっと退き、割れた。
男達の視線は、先頭を行くギヴルからすぐ後ろにつくジンへと移り、そして最後はナデシコら三人へと注がれた。
あまりにもこの場に不釣り合いな女性の姿に、ぎらついた視線が次々と刺さり、絡みつく。
一同が身を
「実に良いファイトだったぞ、うん。粗削りだが、野性的な爆発力がある!」
ボス直々の言葉を受け、男はどこか言葉に困り、絞り出すように「ありがとうございます」と返す。
いまだに闘争の熱は冷めきっていないのか、じっとりと全身を汗が濡らし、筋肉の隆起を際立たせる。
かたや、昏倒した黒人男性はリングから引きずり降ろされ、担架で運ばれていく。
倉庫の中に渦巻く“獣気”を肌で感じ取りながら、ナデシコはすぐ目の前のジンに問いかけた。
「へえ、面白いね。いわゆる『ファイトクラブ』ってやつか。荒くれ者を使った“娯楽”としては、最適だね」
ジンは振り返り、ぎろりとこちらを睨んでくる。
しかし、たじろぐことなく、ナデシコは不敵に笑った。
「まぁ、そんなところだ。もっとも、全部あの
「ふうん。つくづく、良く分かんないおじさんだね。思いの外、子供っぽいところもあるっていうか」
「口に気ぃつけな。頭に聞こえたら、ただじゃあすまねえぞ」
不機嫌にたしなめるジンだったが、ナデシコは「へいへい」と軽く受け流す。
元より、すでに“ただですんでいない”から、こんなところに連れてこられているのである。
ポケットに手を突っ込んだまま、ナデシコは大声で壇上のギヴルに問いかけた。
「それで? その“決闘”とやらは、ここで何をするつもりなんだい?」
彼女の一言に動揺したのは、すぐ隣のアイリスやミハルだけではない。
屈強な男達がどよめき、困惑している。
ただ一人、提案した張本人の男がリング上で笑う。
「カッカッカッ、決まっているだろう! 決闘と言ったら決闘さ! ここはなにも、単に切った張ったの賭け試合をする遊び場だけじゃあない。組織内での対立を“円滑”に解決するため、白黒をつける場でもあるのだよ!」
ざわざわと揺れる男達の中で、壇上を睨みつけるナデシコ。
そのすぐ隣で、アイリスが怯えながら呟く。
「そんな……じゃ、じゃあ、私達……さっきの人達みたいに、あそこで……戦わなきゃ、いけないの?」
ごくり、とつばを飲み込み、ミハルが周囲を警戒する。
さすがにいつもの能天気な波長はなりを潜めていた。
「どうやら、そう言うことみたいですねぇ。あのおじさん、一体全体、どういうつもりなんでしょう」
動揺する仲間達に、ナデシコは視線を反らさないまま、静かに答える。
「本当に腹の内が読めないおっさんだよね。ただどうやら、もう私らに“戦う”っていう以外の道は用意されてないらしい。あの目――本気で私らに“決闘”とやらをさせるつもりなんだろうさ」
「け、決闘だなんて……無茶苦茶だよ。こんな人達と戦うなんて……」
周囲からぎらぎらと降り注ぐ視線の嵐が、なおも少女達の体を容赦なく突き刺す。
猛獣の檻の中に放り込まれた、“餌”のようなものだろう。
三人はいつしか、無意識に互いの身を寄せ合って立っていた。
ミハルはどこか“雷帝”の凶暴さを目に宿しながら、周囲を
「多勢に無勢、ですねぇ。そもそも、本当に正々堂々の“決闘”なんてやってくれるんでしょうか? 信用できないですよぉ」
マフィアらからすれば、ナデシコらの意向を聞き入れる義理など、どこにもありはしない。
そもそも、暴力をだしにした賭け事などを堂々と行っている時点で、まともな道理が通じる相手ではないのだろう。
数で言えば、彼らの方が圧倒的に有利なのだ。
いつ、壇上のボスの合図で、周囲の男達が襲いかかってくるか分からない。
刺々しい空気の中心で、なおも探偵は思考を巡らせる。
「いやぁ、それでもどうやら、向こうは本気で1対1でやるつもりみたいだね」
「ど、どうしてそんなこと分かるの?」
「まぁ、“そうであってほしい”って願望も大いに含んではいるけど――もし、私らを懲らしめるのが目的なら、わざわざこんなところに連れてこず、さっきの段階でやっちゃうでしょう? 組織内でこんな“賭博”をやってる場面を見せるメリットがないよ」
こんな状況下に置かれながらも、ナデシコは今置かれた状況を観察し、素早く分析する。
アイリスとミハルも、どこか彼女の推理に緊張が揺らぐ。
「思惑はいまいち掴み切れないけど、それでもあのおじさんは、本気で私らと組織の誰かを“決闘”させて、白黒つけるつもりなんだろうさ。逆に言えば、これは私らにとって“チャンス”でもある」
「チャンス、ですかぁ……と、とてもそんな状況に、見えませんけど」
「簡単なことだよ。向こうが暴力できてくれるって言うなら――それを叩き伏せちゃえばいい」
ナデシコの口をついて出た一言に、ぎょっとするアイリスとミハル。
だが、そんな彼女らに向けて、リング上からなおも組織のボス・ギヴルが吠えた。
「ルールはシンプルだ。“目付き”と“金的”――これ以外なら何をやっても、オールオッケイ! 寝技、パウンド(組み伏せての打撃)もアリだ。ようはこのリングに上がれば最後、相手が“再起不能”になるまで戦い抜けば良い!」
背中を無理矢理に後押しされ、身をすくませてしまう一同。
降り注ぐ無数の野太い視線の群れの中、ポケットに手を入れたまま、探偵が「ふぅん」と返す。
「驚いたなぁ。まさか本当に大の大人が、大真面目に“決闘”なんてやってるとは。まぁ、冴えない奴らの小銭稼ぎも兼ねてるみたいだけど」
「カッカッカッ! 上手い仕組みだろう? 組織のもめ事を解決しつつ、一攫千金も狙える。誰にとっても美味しい話ってやつさ」
無邪気に笑う男を見ていても、三人はいまいち純粋な笑顔を返せない。
誰一人、“歓迎”のムードを出さない倉庫の中で、ナデシコは平静を取り繕いながら、前を向く。
アイリスとミハルに告げたあの一言――この状況にわずかながらも、“チャンス”があると気付いていた。
「でも、いまいち信用できないなぁ。本当に私らが勝ったら、素直に協力してくれるの? この顔の怖いおっさん達が」
まさかの“挑発”に、隣に立つアイリスとミハルがぎょっとする。
案の定、周囲を取り囲む熱気の刺々しさが、鋭さを増したように感じた。
ボスの側近・ジンもまた、明らかな敵意を宿した眼差しをこちらに向けている。
ただ一方で、なおもリング上のギヴルは、どこか楽しそうに笑う。
「カカカッ、安心したまえ! “獣”の長であるが、それ以前に私は男だ。男に二言はない! “決闘”の掟は、組では絶対だ。より強き者に、弱き者は従う。私がきっちりと保障しよう」
その一言を聞き、ナデシコはにんまりと笑った。
しっかりと言質が取れたことに、ほくそ笑んでしまう。
彼女の微かな表情の揺らぎに、いち早く気付いたのはミハルだった。
鋭い観察眼のなせる
「ナデシコさん、もしかして……あの人に、全員の前で“宣言”させたかったんですか? それで、あえて――」
「あら、気付かれた? さすが、鋭いねえ。まぁ、そんなところさ」
いまいち理解が追い付いていないアイリスが、それでも困惑し、問いかけた。
「ね、ねえ、ナデシコ……本当に……戦うつもり?」
「ああ。あの親分さんも、ああ言ってるんだ。ここまで
もとより、ここまで来ておめおめと逃げ帰る気もない。
相手が条件を提示しているというのならば、それがどれだけ困難かつ危険な道でも、利用してしまう他ないのだ。
それが、探偵をやってきたナデシコ独自の“処世術”であった。
リング上のギヴルが、ナデシコら三人を見下ろしたまま問いかけてくる。
「さて、と。それじゃあ早速だが、そちらは誰が“決闘”を行うかね?」
身をすくませ、互いの顔を見つめるアイリスとミハル。
だが、二人に相談することもなく、「私が行く」とナデシコが手を上げる。
たまらず、ミハルが彼女を引き留めた。
「ちょ、ちょっとナデシコさん!? 良いんですか、本当に?」
「相手の挑発に乗ったのは私だからね。ちゃんと責任は取るさ」
「責任だなんて、そんな……」
あくまで、ナデシコの身を案じてくれているのだろう。
うろたえるミハルの隣で、アイリスは言葉を選んでいる。
二人の優しさに少し嬉しくなりつつ、それでもあくまで真剣なまなざしで、静かに告げた。
「いいかい。私だってみすみす、やられる気なんてないさ。二人はしっかりと、セコンドについて見守っててほしいんだ。もし私に万が一のことがあったら、後は頼んだ」
それは気休めの言葉でもなんでもなく、最悪の事態を見据えてのことだった。
中途半端な優しさなどはなく、あくまで現状をロジカルに捉えた、限りなくリアルな“先”を見た一言である。
不安も恐怖も、一同の体から消え去ったわけではない。
だがそれでも、アイリス、ミハルも意を決し、大きくうなずく。
三人がこの場から無事に帰る手段は、ただ一つ――マフィアとの“決闘”に真っ向から打ち勝つ必要があるのだ。
リングに上がるナデシコと、すぐ脇で彼女を見守るアイリスとミハル。
周囲の荒くれ者達も、壇上に登ったナデシコの姿を舐めるように観察していた。
なんとも居心地の悪い空気の中、壇上に残っていたバンダナの男がナデシコに告げる。
「おい、女。靴は脱ぎな。ここではそういうルールなんだ」
「おっと、こりゃ失敬! 悪いね、なにせこういうの初めてなもんで」
あえておどけて見せながら、ナデシコは脱いだスニーカーをアイリスに渡す。
不敵な姿を見てギヴルは笑っていたが、そんなボスに向かってバンダナの男が問いかけた。
「ボス、何かの冗談でしょう? こんなガキがここで戦う? 話にもなりませんよ。女子供を一方的に潰す趣味なんざありません」
不機嫌に言ってのける彼に、先に返したのはナデシコだった。
探偵は愛用のジャンパーを脱ぎ捨て、これまたセコンドの二人に渡す。
シャツとジーンズの裾をまくり上げた軽装で、目の前の筋骨隆々とした男に告げる。
「マフィアの中にも色々いるんだねえ。見る目があるやつと、まったくからっきしな奴」
「ああん? おい、どういう意味だ」
「そっちのおっさんと違って、あんた見た目通りの“筋肉だるま”みたいだな、ってこと。人を見かけで判断するのは良くないよ?」
つくづく、見ているアイリスとミハルのほうが、ひやひやしてしまうやり取りだった。
ナデシコのふてぶてしい一言に、バンダナの男が明らかに激昂する。
だがその横で、なおもボス・ギヴルは無邪気に笑っていた。
「そうだ、そのとおり! おい、レックス。お前は腕っぷしこそ強いが、もうちょっと世間勉強したほうがいいぞ? なんなら、このお嬢さんに教えてもらえばいいじゃあないか」
彼の注いだ“油”が、見事にバンダナの男・レックスの火を燃え上がらせる。
にやりと笑ってはいるが、内心、ナデシコは背筋に伝う冷汗を感じ取っていた。
やがて、レックスが「ふん」と鼻息を荒げながら告げた。
「ボス、俺にやらせてください。一瞬でケリをつけて見せますよ」
会場が「おお」と沸いた。
申し出を断ることなく、ボスはあくまで高らかに笑い、天高く告げる。
「カッカッ! いいじゃないか、いいじゃないか! 決まりだな。本日のスペシャルマッチ! 『解体屋・レックス』VS『名探偵・ナデシコ』! 5分後、開戦といこうじゃあないか!」
ギヴルの声に、マフィアの男達が歓声を上げた。
再び、倉庫の中を野蛮な熱が覆っていく。
アイリスとミハルだけは、リングのすぐ脇で、周囲から飛び交う怒号にも似た声の群れに身をすくませてしまう。
ナデシコらがそれぞれのコーナーで待機している間、マフィア達の間では組まれたカードに対する“賭け”が急いで行われていた。
瞬く間にオッズが決まるが、レックスが“2”に対し、ナデシコは“43”という数字を叩きつけられる。
壇上でそれを眺め、ナデシコがため息をつく。
「おーおー、随分と情けなく見られてるんだなぁ」
43倍という高オッズは、そのままナデシコという存在が“弱い”と判断された、という事実に直結する。
心配そうに、リングの脇からアイリスが声をかけた。
「ナデシコ……あんな大きな人と、どうやって戦うの?」
言われて、三人は一斉に逆側のコーナーを見る。
待機し、こちらをじっと睨みつけているレックスは、上半身裸にアーミーズボンといういで立ちだ。
あらわになった筋肉はまるで岩のように隆起しており、その表面にうっすらだが古傷が刻まれている。
身長も体重も、ナデシコのそれよりは遥かに階級が違っている。
それこそ、アイリスらの目から見ても、勝負になるのかと疑ってしまうほどの大差だ。
だがなおも、ナデシコはどこか気だるそうに、かすかに笑みすら浮かべていた。
「まぁ確かに、ちょっとばかし骨が折れそうだね。でも大丈夫。なんとかなるさ」
相変わらず、彼女の言葉の根拠は何一つ分からない。
だがそれでもアイリスとミハルは、壇上からこちらに向けられた彼女の視線を受け、悟ってしまう。
それは彼女が、“策”が大ありの時にする目だ。
「ちゃあんと、帰ってくるよ。特にアイリス、良く見てな」
「え……み、見るって、なにを……」
「悪い男のやっつけ方――ってやつかな」
アイリスが「ええ」と驚くのと、賭けの終了を告げる合図が
二人がナデシコに声をかける間もなく、ついに“決闘”の開始を鳴らすゴングが鳴ってしまう。
甲高い鐘の音を、観客達の野太い声援が追う。
それに背中を押されるよう、ナデシコとレックスは同時に歩みだし、リング中央へと近づいた。
だが瞬間――レックスが一気に加速した。
地面を蹴り、低い体勢になりながらも距離を詰める。
両手を大きく開き、その眼はナデシコの脚部を狙っていた。
息をのむアイリスとミハル。
だがこの場で、彼女以外の全員がその“お決まり”の流れに、内心でほくそ笑んでいた。
レックスが兼ねてから身に着けていた“レスリング”のタックルである。
距離を詰め、相手の脚部に組み付くことで、そのまま引き倒して寝技へと移行する。
時には馬乗りに持ち込み、頭部への乱打で流れるように試合を決してしまう。
そのいわば“初見殺し”とも言える必殺の一手が、ナデシコに通用――しない。
まるで来るのを分かっていたかのように、後方に飛びのきながら、ナデシコはレックスの顎を鋭く蹴り上げる。
アイリス、ミハルだけでなく、悪漢達全員が驚愕し息をのむ。
そしてなにより、技を仕掛けたレックス自身がその強烈な一撃に言葉を失っていた。
ナデシコの蹴りは、それだけでレックスを昏倒させることはできない。
ふらつきながらも男はナデシコに組み付き、流れるように覆いかぶさって倒れた。
ダァン、とリングが揺れる。
レックスは組み付いたナデシコの腕を取り、いつも通り関節技へと移行しようとした。
しかし、手元がもたつく。
無理もない。
先程のナデシコの蹴りで脳が揺れ、視界がぐわんぐわんと歪んだままなのだ。
手先に、思うように力が入らない。
脂汗を浮かべ、歯を食いしばるレックスの耳元で、探偵の軽やかな声が響く。
「惜しかったねえ、タイミングは完璧だったよ。でも残念。あいにく――“その程度”なら、どうにでもなる」
瞬間、ナデシコが素早く身をひねり、力を
絶妙のタイミングで腕を引き抜き、瞬く間にレックスの下から脱出してしまった。
また一つ、明らかに会場が揺れた。
観客達は予想外の事態にざわつき、リングの上を必死に見つめている。
鮮やかな手際で再び立ち上がるナデシコ。
対し、まだ足元がふらついたまま、ようやく上体を起こしたレックス。
男は歯を食いしばり、こめかみに青筋を立てながら、殴りかかってきた。
荒々しいナックルの連打を、ナデシコはひょいひょいと軽やかにかわしていく。
相手の拳を反らし、弾き、飛び交う岩のような拳骨のすれすれを避けている。
レックスという巨漢の攻撃が、線が細く、明らかに弱弱しい探偵に、あまりにも無残に
レックスの圧勝を予感していたマフィア達が青ざめ、目の前で起こっている不可思議”に追いついていけない。
リング脇で見つめていたアイリスも、思わず声を上げてしまった。
「すごい……ナデシコ、全部分かってるみたい。どうして、あんなことができるんだろう……?」
少女からすれば、ナデシコのその圧倒的な実力は、とにかく神がかって見えてしまう。
汗だくになり、狂犬のように襲い掛かってくる男を前にして、リングの上を軽やかに跳び、攻撃の数々を見事にかわし切って見せる。
彼女の鮮やかな攻防を見つめていたミハルが、ごくりと生唾を飲み込み、答えた。
「いやぁ、前々から思ってましたけど、やっぱりナデシコさん、半端ないっすねぇ。なるほど、だからあんなに自信満々だったんですねぇ」
「ねえ、どういうこと? ナデシコにはなんで、あんなことが……」
ミハルはアイリスをちらりと横目で見た後、すぐに視線をリング上に戻す。
ナデシコがまた一つ、今度はレックスのタックルの上を飛び越し、くるりと回転して着地していた。
まるで曲芸のようなその姿に、ボス・ギヴルまでも「おっほお」と歓声を上げる。
「あれはいわゆる“先の先”と“後の先”ってやつですねぇ。武術で言うところの“先読み”ってやつです」
「せんのせん……なんだか、難しい言葉だね」
「私もまぁ、聞きかじった程度ですけど、ナデシコさんは相手のやりたいことや、やってくることをあらかじめ“読み切って”いるんですよ。だから狙ったようにそれを迎撃したり、組み付かれても脱出できるんです」
ミハルの解説を聞き、「ええ」と驚くアイリス。
再び視線を戻すと、レックス渾身のフックを、くるりと横回転でかわすナデシコがいた。
「もちろん、簡単なことじゃあないですよぉ。相手の表情や体勢、ちょっとした機微を鋭く“観察”した上で、ようやくできる芸当です。ナデシコさん、小さい頃からずっと“武術”を学んでたって言ってましたけど、すごいハイレベルな技術ですよ、あれは」
ミハルの読みは、ほぼ正解だった。
彼女もまた母親から“武術”の
ナデシコはこのレックスという男を、リングに上がる前から入念に“観察”していた。
筋肉の付き方、傷の位置、耳の盛り上がり方や、「解体屋」というあの二つ名。
それらの要素を総合して、彼が“組技が得意なファイター”であることを、あらかじめ予測していたのである。
あとは男の細かな挙動から、彼の“癖”を読み取った。
歩いてくる瞬間の目線と、開いた腕、指の形。
それらが彼の“タックル”の発射タイミングを知らせ、狙ったようにそこを迎撃しただけだ。
そして組み付かれたとしても、相手の関節技の力の入れる箇所、波長を読み取り、そこをついて脱出する。
このレックスという男は、リングの上にいるのではない。
彼が踊っているのは、目の前の
もはや、リング上の“バランス”は逆転していた。
男達が予想していたような、舐めた口を利く小娘を巨漢があっさりと撃退するという“喜劇”は、もう二度と起こらない。
目の前に展開されるのは、汗だくで肉体を振り乱す男と、それを汗すらかかずいなし続ける女の“舞踏”だ。
それは“試合”ですらなく“闘牛”のように一方的で、どこかバランスの欠如した“ショー”でしかない。
ぜえぜえと息を上げ、また一つ拳を振り上げるレックス。
空振りこそが、最も体力を消耗する。
それも理解したうえで、ナデシコはあえて手を出さず、相手に打たせ続けた。
ぶぅん、と弧を描いた拳の内側に、ついにナデシコは踏み込む。
一撃をかわしながら、男の左胸目掛けて、絶妙のタイミングで掌打を叩き込んだ。
乾いた音と共に、男の皮膚と表面の汗が波打つ。
浸透した衝撃は男の心臓を一瞬停止させ、意識を体外へ弾き飛ばしてしまった。
ずうんとリングが揺れる。
気が付いた時にはレックスは白目をむいて地に伏せ、動かなくなっていた。
しばしの静寂の後、すぐに倉庫内の大気が割れんばかりに揺れる。
ナデシコの勝利という大番狂わせに、会場から怒号と悲鳴が飛び交った。
強い――周囲の男達以上に、改めてアイリスとミハルも、壇上の探偵の姿に
勝利を喜ぼうとした二人に対し、ナデシコはあくまで呼吸を整えながら、どこか緊張した眼差しで一点を見つめている。
彼女は手を上げてざわつく男達を制し、静寂を待って、高らかに言い放った。
「いやあ、全然だめだわ。こんなんじゃあ、“決闘”になんかなりゃしないよ!」
思いがけない一言に、会場がどよめく。
何を言い出すのかと、アイリス達も不安げな眼差しで彼女を見つめた。
ナデシコのその眼差しは、離れた位置で壇上を見つめている、あの“長”に向けられている。
「お頭さん。こんな“
そこら中の空気が揺れていた。
マフィア達はナデシコの一言に動揺していたが、彼女と共に歩んできたアイリス、ミハルだけは、その裏に隠されたある感情にいち早く気付く。
演技をしている――ナデシコはわざと、大きな態度で振る舞っている。
その狙いは分からない。
だが、レックスという男への“勝利”以上の何かを、この場で手に入れようとしているのだ。
腕を組み、あごに手を当てながら、ボス・ギヴルは唸る。
「ふむぅ! なんとも
「そういうこと。これじゃあ、汗一つかきゃしないよ。どうせならもっと危険で、もっとやばい奴とやらせて欲しかったなぁ。例えばそう――あんたみたいなね」
大げさな身振りで、ある一点を指差すナデシコ。
その先を追った一同が、一斉に息をのむ。
アイリスとミハルも、彼女が選んだ一人の“男”の姿に、声を上げそうになった。
離れた位置からリングを睨みつけている、赤いスーツの男。
尖った金髪が、彼が首を傾けることで少しだけ揺れた。
壇上のナデシコと、それを見上げるマフィア――ジンの鋭い視線が、宙でぶつかる。
彼は何も言わなかった。
アイリスとミハル、そしてマフィア達の無数の視線を受けてもなお、ただポケットに手を入れ、立っている。
だがその黙した姿の中に、確かに誰もが感じた。
静かで激しく燃える、怒りという感情を。
アイリスが改めて、息をのむ。
彼女の目にだけ映る“虎”の肉体で、燃え盛る紅蓮の炎が勢いを増し、ごおごおと音を立てていた。
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