37. ファイトクラブ

 金属製の巨大な扉を開くと、まずは眼前を闇が覆っていた。

 だが戸惑う暇もなく、むせ返るような熱気と、けたたましい怒号の群れが体を叩く。


 屋敷から離れた位置に連なる、巨大な倉庫。

 その中で行われているのは、積み荷の運搬でも日雇い外国人を使った労働でもない。

 もっと異質で、そして野蛮な“興行”だ。


 倉庫の真ん中に作られた、特設のステージにスポットライトが当てられている。

 その白い四角形を取り囲むように、荒くれ者達が群がり、壇上の二人に声援を送っていた。

 上半身裸の男が二人、ステージの上――否、即席の“リング”の上で、激しい殴り合いを繰り広げている。


 リング脇の黒板に書きなぐられたオッズは“5 VS 3”。

 その倍率から見ても、二人の実力は拮抗きっこうしているのだろう。


 ぶつかり合う肉の応酬を、観客達は自身の信じた“勝ち筋”に声援を送りつつ、見つめていた。


 バンダナを巻いた男が、黒人の男を殴り飛ばす。

 その一撃が決め手となり、勝敗は決した。


 高らかに鳴り響くゴングの音色。

 勝者への賞賛と、敗者への罵声。

 怒号どごう咆哮ほうこう悲嘆ひたん焦燥しょうそう――無数の色の違う“熱狂”が混ざり合い、室内の空気をかき回す。


 その一連の“イベント”を、遠くからナデシコらは見ていた。

 相も変わらず、周囲はマフィアの黒服達が包囲している。


 言葉を失い、唖然あぜんとする三人の前で杖を片手にボス・ギヴルが笑う。


「カッカッカッ! いいねいいねぇ、今日も大盛況じゃあないかぁ!」


 無邪気に笑い、杖をつきながら進む。

 ボスの登場に一人、また一人と気付き、荒くれ者達の顔が驚きの色に染まる。


 リングの周囲を取り囲んでいた輪がざっと退き、割れた。

 男達の視線は、先頭を行くギヴルからすぐ後ろにつくジンへと移り、そして最後はナデシコら三人へと注がれた。

 あまりにもこの場に不釣り合いな女性の姿に、ぎらついた視線が次々と刺さり、絡みつく。


 一同が身を強張こわばらさせている間に、ギヴルはリングに上がり、先程の勝者であるバンダナの男を賞賛し始めた。


「実に良いファイトだったぞ、うん。粗削りだが、野性的な爆発力がある!」


 ボス直々の言葉を受け、男はどこか言葉に困り、絞り出すように「ありがとうございます」と返す。

 いまだに闘争の熱は冷めきっていないのか、じっとりと全身を汗が濡らし、筋肉の隆起を際立たせる。

 かたや、昏倒した黒人男性はリングから引きずり降ろされ、担架で運ばれていく。


 倉庫の中に渦巻く“獣気”を肌で感じ取りながら、ナデシコはすぐ目の前のジンに問いかけた。


「へえ、面白いね。いわゆる『ファイトクラブ』ってやつか。荒くれ者を使った“娯楽”としては、最適だね」


 ジンは振り返り、ぎろりとこちらを睨んでくる。

 しかし、たじろぐことなく、ナデシコは不敵に笑った。


「まぁ、そんなところだ。もっとも、全部あのかしらの意向だがな」

「ふうん。つくづく、良く分かんないおじさんだね。思いの外、子供っぽいところもあるっていうか」

「口に気ぃつけな。頭に聞こえたら、ただじゃあすまねえぞ」


 不機嫌にたしなめるジンだったが、ナデシコは「へいへい」と軽く受け流す。

 元より、すでに“ただですんでいない”から、こんなところに連れてこられているのである。


 ポケットに手を突っ込んだまま、ナデシコは大声で壇上のギヴルに問いかけた。


「それで? その“決闘”とやらは、ここで何をするつもりなんだい?」


 彼女の一言に動揺したのは、すぐ隣のアイリスやミハルだけではない。

 屈強な男達がどよめき、困惑している。


 ただ一人、提案した張本人の男がリング上で笑う。


「カッカッカッ、決まっているだろう! 決闘と言ったら決闘さ! ここはなにも、単に切った張ったの賭け試合をする遊び場だけじゃあない。組織内での対立を“円滑”に解決するため、白黒をつける場でもあるのだよ!」


 ざわざわと揺れる男達の中で、壇上を睨みつけるナデシコ。

 そのすぐ隣で、アイリスが怯えながら呟く。


「そんな……じゃ、じゃあ、私達……さっきの人達みたいに、あそこで……戦わなきゃ、いけないの?」


 ごくり、とつばを飲み込み、ミハルが周囲を警戒する。

 さすがにいつもの能天気な波長はなりを潜めていた。


「どうやら、そう言うことみたいですねぇ。あのおじさん、一体全体、どういうつもりなんでしょう」


 動揺する仲間達に、ナデシコは視線を反らさないまま、静かに答える。


「本当に腹の内が読めないおっさんだよね。ただどうやら、もう私らに“戦う”っていう以外の道は用意されてないらしい。あの目――本気で私らに“決闘”とやらをさせるつもりなんだろうさ」

「け、決闘だなんて……無茶苦茶だよ。こんな人達と戦うなんて……」


 周囲からぎらぎらと降り注ぐ視線の嵐が、なおも少女達の体を容赦なく突き刺す。

 猛獣の檻の中に放り込まれた、“餌”のようなものだろう。

 三人はいつしか、無意識に互いの身を寄せ合って立っていた。


 ミハルはどこか“雷帝”の凶暴さを目に宿しながら、周囲を威嚇いかくする。


「多勢に無勢、ですねぇ。そもそも、本当に正々堂々の“決闘”なんてやってくれるんでしょうか? 信用できないですよぉ」


 マフィアらからすれば、ナデシコらの意向を聞き入れる義理など、どこにもありはしない。

 そもそも、暴力をだしにした賭け事などを堂々と行っている時点で、まともな道理が通じる相手ではないのだろう。


 数で言えば、彼らの方が圧倒的に有利なのだ。

 いつ、壇上のボスの合図で、周囲の男達が襲いかかってくるか分からない。


 刺々しい空気の中心で、なおも探偵は思考を巡らせる。


「いやぁ、それでもどうやら、向こうは本気で1対1でやるつもりみたいだね」

「ど、どうしてそんなこと分かるの?」

「まぁ、“そうであってほしい”って願望も大いに含んではいるけど――もし、私らを懲らしめるのが目的なら、わざわざこんなところに連れてこず、さっきの段階でやっちゃうでしょう? 組織内でこんな“賭博”をやってる場面を見せるメリットがないよ」


 こんな状況下に置かれながらも、ナデシコは今置かれた状況を観察し、素早く分析する。

 アイリスとミハルも、どこか彼女の推理に緊張が揺らぐ。


「思惑はいまいち掴み切れないけど、それでもあのおじさんは、本気で私らと組織の誰かを“決闘”させて、白黒つけるつもりなんだろうさ。逆に言えば、これは私らにとって“チャンス”でもある」

「チャンス、ですかぁ……と、とてもそんな状況に、見えませんけど」

「簡単なことだよ。向こうが暴力できてくれるって言うなら――それを叩き伏せちゃえばいい」


 ナデシコの口をついて出た一言に、ぎょっとするアイリスとミハル。

 だが、そんな彼女らに向けて、リング上からなおも組織のボス・ギヴルが吠えた。


「ルールはシンプルだ。“目付き”と“金的”――これ以外なら何をやっても、オールオッケイ! 寝技、パウンド(組み伏せての打撃)もアリだ。ようはこのリングに上がれば最後、相手が“再起不能”になるまで戦い抜けば良い!」


 背中を無理矢理に後押しされ、身をすくませてしまう一同。

 降り注ぐ無数の野太い視線の群れの中、ポケットに手を入れたまま、探偵が「ふぅん」と返す。


「驚いたなぁ。まさか本当に大の大人が、大真面目に“決闘”なんてやってるとは。まぁ、冴えない奴らの小銭稼ぎも兼ねてるみたいだけど」

「カッカッカッ! 上手い仕組みだろう? 組織のもめ事を解決しつつ、一攫千金も狙える。誰にとっても美味しい話ってやつさ」


 無邪気に笑う男を見ていても、三人はいまいち純粋な笑顔を返せない。

 誰一人、“歓迎”のムードを出さない倉庫の中で、ナデシコは平静を取り繕いながら、前を向く。


 アイリスとミハルに告げたあの一言――この状況にわずかながらも、“チャンス”があると気付いていた。


「でも、いまいち信用できないなぁ。本当に私らが勝ったら、素直に協力してくれるの? この顔の怖いおっさん達が」


 まさかの“挑発”に、隣に立つアイリスとミハルがぎょっとする。

 案の定、周囲を取り囲む熱気の刺々しさが、鋭さを増したように感じた。


 ボスの側近・ジンもまた、明らかな敵意を宿した眼差しをこちらに向けている。

 ただ一方で、なおもリング上のギヴルは、どこか楽しそうに笑う。


「カカカッ、安心したまえ! “獣”の長であるが、それ以前に私は男だ。男に二言はない! “決闘”の掟は、組では絶対だ。より強き者に、弱き者は従う。私がきっちりと保障しよう」


 その一言を聞き、ナデシコはにんまりと笑った。

 しっかりと言質が取れたことに、ほくそ笑んでしまう。


 彼女の微かな表情の揺らぎに、いち早く気付いたのはミハルだった。

 鋭い観察眼のなせるわざか、彼女はナデシコの思惑を読み取ってしまう。


「ナデシコさん、もしかして……あの人に、全員の前で“宣言”させたかったんですか? それで、あえて――」

「あら、気付かれた? さすが、鋭いねえ。まぁ、そんなところさ」


 いまいち理解が追い付いていないアイリスが、それでも困惑し、問いかけた。


「ね、ねえ、ナデシコ……本当に……戦うつもり?」

「ああ。あの親分さんも、ああ言ってるんだ。ここまで啖呵たんかを切った以上、嘘はつかないだろうさ。だったら後は、正々堂々相手を下して、こっちの意を通すだけだ」


 もとより、ここまで来ておめおめと逃げ帰る気もない。

 相手が条件を提示しているというのならば、それがどれだけ困難かつ危険な道でも、利用してしまう他ないのだ。

 それが、探偵をやってきたナデシコ独自の“処世術”であった。


 リング上のギヴルが、ナデシコら三人を見下ろしたまま問いかけてくる。


「さて、と。それじゃあ早速だが、そちらは誰が“決闘”を行うかね?」


 身をすくませ、互いの顔を見つめるアイリスとミハル。

 だが、二人に相談することもなく、「私が行く」とナデシコが手を上げる。


 たまらず、ミハルが彼女を引き留めた。


「ちょ、ちょっとナデシコさん!? 良いんですか、本当に?」

「相手の挑発に乗ったのは私だからね。ちゃんと責任は取るさ」

「責任だなんて、そんな……」


 あくまで、ナデシコの身を案じてくれているのだろう。

 うろたえるミハルの隣で、アイリスは言葉を選んでいる。


 二人の優しさに少し嬉しくなりつつ、それでもあくまで真剣なまなざしで、静かに告げた。


「いいかい。私だってみすみす、やられる気なんてないさ。二人はしっかりと、セコンドについて見守っててほしいんだ。もし私に万が一のことがあったら、後は頼んだ」


 それは気休めの言葉でもなんでもなく、最悪の事態を見据えてのことだった。

 中途半端な優しさなどはなく、あくまで現状をロジカルに捉えた、限りなくリアルな“先”を見た一言である。


 不安も恐怖も、一同の体から消え去ったわけではない。

 だがそれでも、アイリス、ミハルも意を決し、大きくうなずく。


 三人がこの場から無事に帰る手段は、ただ一つ――マフィアとの“決闘”に真っ向から打ち勝つ必要があるのだ。


 リングに上がるナデシコと、すぐ脇で彼女を見守るアイリスとミハル。

 周囲の荒くれ者達も、壇上に登ったナデシコの姿を舐めるように観察していた。


 なんとも居心地の悪い空気の中、壇上に残っていたバンダナの男がナデシコに告げる。


「おい、女。靴は脱ぎな。ここではそういうルールなんだ」

「おっと、こりゃ失敬! 悪いね、なにせこういうの初めてなもんで」


 あえておどけて見せながら、ナデシコは脱いだスニーカーをアイリスに渡す。

 不敵な姿を見てギヴルは笑っていたが、そんなボスに向かってバンダナの男が問いかけた。


「ボス、何かの冗談でしょう? こんなガキがここで戦う? 話にもなりませんよ。女子供を一方的に潰す趣味なんざありません」


 不機嫌に言ってのける彼に、先に返したのはナデシコだった。

 探偵は愛用のジャンパーを脱ぎ捨て、これまたセコンドの二人に渡す。


 シャツとジーンズの裾をまくり上げた軽装で、目の前の筋骨隆々とした男に告げる。


「マフィアの中にも色々いるんだねえ。見る目があるやつと、まったくからっきしな奴」

「ああん? おい、どういう意味だ」

「そっちのおっさんと違って、あんた見た目通りの“筋肉だるま”みたいだな、ってこと。人を見かけで判断するのは良くないよ?」


 つくづく、見ているアイリスとミハルのほうが、ひやひやしてしまうやり取りだった。

 ナデシコのふてぶてしい一言に、バンダナの男が明らかに激昂する。


 だがその横で、なおもボス・ギヴルは無邪気に笑っていた。


「そうだ、そのとおり! おい、レックス。お前は腕っぷしこそ強いが、もうちょっと世間勉強したほうがいいぞ? なんなら、このお嬢さんに教えてもらえばいいじゃあないか」


 彼の注いだ“油”が、見事にバンダナの男・レックスの火を燃え上がらせる。

 にやりと笑ってはいるが、内心、ナデシコは背筋に伝う冷汗を感じ取っていた。


 きつけてくれるね、この食わせもの――ボスの“黒い感情”をしっかり感じ取りつつ、悟られないように振る舞う。


 やがて、レックスが「ふん」と鼻息を荒げながら告げた。


「ボス、俺にやらせてください。一瞬でケリをつけて見せますよ」


 会場が「おお」と沸いた。

 申し出を断ることなく、ボスはあくまで高らかに笑い、天高く告げる。


「カッカッ! いいじゃないか、いいじゃないか! 決まりだな。本日のスペシャルマッチ! 『解体屋・レックス』VS『名探偵・ナデシコ』! 5分後、開戦といこうじゃあないか!」


 ギヴルの声に、マフィアの男達が歓声を上げた。

 再び、倉庫の中を野蛮な熱が覆っていく。

 アイリスとミハルだけは、リングのすぐ脇で、周囲から飛び交う怒号にも似た声の群れに身をすくませてしまう。


 ナデシコらがそれぞれのコーナーで待機している間、マフィア達の間では組まれたカードに対する“賭け”が急いで行われていた。

 瞬く間にオッズが決まるが、レックスが“2”に対し、ナデシコは“43”という数字を叩きつけられる。


 壇上でそれを眺め、ナデシコがため息をつく。


「おーおー、随分と情けなく見られてるんだなぁ」


 43倍という高オッズは、そのままナデシコという存在が“弱い”と判断された、という事実に直結する。

 心配そうに、リングの脇からアイリスが声をかけた。


「ナデシコ……あんな大きな人と、どうやって戦うの?」


 言われて、三人は一斉に逆側のコーナーを見る。

 待機し、こちらをじっと睨みつけているレックスは、上半身裸にアーミーズボンといういで立ちだ。

 あらわになった筋肉はまるで岩のように隆起しており、その表面にうっすらだが古傷が刻まれている。


 身長も体重も、ナデシコのそれよりは遥かに階級が違っている。

 それこそ、アイリスらの目から見ても、勝負になるのかと疑ってしまうほどの大差だ。


 だがなおも、ナデシコはどこか気だるそうに、かすかに笑みすら浮かべていた。


「まぁ確かに、ちょっとばかし骨が折れそうだね。でも大丈夫。なんとかなるさ」


 相変わらず、彼女の言葉の根拠は何一つ分からない。

 だがそれでもアイリスとミハルは、壇上からこちらに向けられた彼女の視線を受け、悟ってしまう。


 それは彼女が、“策”が大ありの時にする目だ。


「ちゃあんと、帰ってくるよ。特にアイリス、良く見てな」

「え……み、見るって、なにを……」

「悪い男のやっつけ方――ってやつかな」


 アイリスが「ええ」と驚くのと、賭けの終了を告げる合図がとどろくのは同時だった。

 二人がナデシコに声をかける間もなく、ついに“決闘”の開始を鳴らすゴングが鳴ってしまう。


 甲高い鐘の音を、観客達の野太い声援が追う。

 それに背中を押されるよう、ナデシコとレックスは同時に歩みだし、リング中央へと近づいた。


 だが瞬間――レックスが一気に加速した。


 地面を蹴り、低い体勢になりながらも距離を詰める。

 両手を大きく開き、その眼はナデシコの脚部を狙っていた。


 息をのむアイリスとミハル。

 だがこの場で、彼女以外の全員がその“お決まり”の流れに、内心でほくそ笑んでいた。


 レックスが兼ねてから身に着けていた“レスリング”のタックルである。

 距離を詰め、相手の脚部に組み付くことで、そのまま引き倒して寝技へと移行する。

 時には馬乗りに持ち込み、頭部への乱打で流れるように試合を決してしまう。


 そのいわば“初見殺し”とも言える必殺の一手が、ナデシコに通用――しない。


 まるで来るのを分かっていたかのように、後方に飛びのきながら、ナデシコはレックスの顎を鋭く蹴り上げる。

 アイリス、ミハルだけでなく、悪漢達全員が驚愕し息をのむ。

 そしてなにより、技を仕掛けたレックス自身がその強烈な一撃に言葉を失っていた。


 ナデシコの蹴りは、それだけでレックスを昏倒させることはできない。

 ふらつきながらも男はナデシコに組み付き、流れるように覆いかぶさって倒れた。


 ダァン、とリングが揺れる。

 レックスは組み付いたナデシコの腕を取り、いつも通り関節技へと移行しようとした。


 しかし、手元がもたつく。

 無理もない。

 先程のナデシコの蹴りで脳が揺れ、視界がぐわんぐわんと歪んだままなのだ。

 手先に、思うように力が入らない。


 脂汗を浮かべ、歯を食いしばるレックスの耳元で、探偵の軽やかな声が響く。


「惜しかったねえ、タイミングは完璧だったよ。でも残念。あいにく――“その程度”なら、どうにでもなる」


 瞬間、ナデシコが素早く身をひねり、力をめる。

 絶妙のタイミングで腕を引き抜き、瞬く間にレックスの下から脱出してしまった。


 また一つ、明らかに会場が揺れた。

 観客達は予想外の事態にざわつき、リングの上を必死に見つめている。


 鮮やかな手際で再び立ち上がるナデシコ。

 対し、まだ足元がふらついたまま、ようやく上体を起こしたレックス。

 男は歯を食いしばり、こめかみに青筋を立てながら、殴りかかってきた。


 荒々しいナックルの連打を、ナデシコはひょいひょいと軽やかにかわしていく。

 相手の拳を反らし、弾き、飛び交う岩のような拳骨のすれすれを避けている。


 レックスという巨漢の攻撃が、線が細く、明らかに弱弱しい探偵に、あまりにも無残にさばかれていく。

 レックスの圧勝を予感していたマフィア達が青ざめ、目の前で起こっている不可思議”に追いついていけない。


 リング脇で見つめていたアイリスも、思わず声を上げてしまった。


「すごい……ナデシコ、全部分かってるみたい。どうして、あんなことができるんだろう……?」


 少女からすれば、ナデシコのその圧倒的な実力は、とにかく神がかって見えてしまう。

 汗だくになり、狂犬のように襲い掛かってくる男を前にして、リングの上を軽やかに跳び、攻撃の数々を見事にかわし切って見せる。

 

 彼女の鮮やかな攻防を見つめていたミハルが、ごくりと生唾を飲み込み、答えた。


「いやぁ、前々から思ってましたけど、やっぱりナデシコさん、半端ないっすねぇ。なるほど、だからあんなに自信満々だったんですねぇ」

「ねえ、どういうこと? ナデシコにはなんで、あんなことが……」


 ミハルはアイリスをちらりと横目で見た後、すぐに視線をリング上に戻す。

 ナデシコがまた一つ、今度はレックスのタックルの上を飛び越し、くるりと回転して着地していた。

 まるで曲芸のようなその姿に、ボス・ギヴルまでも「おっほお」と歓声を上げる。


「あれはいわゆる“先の先”と“後の先”ってやつですねぇ。武術で言うところの“先読み”ってやつです」

「せんのせん……なんだか、難しい言葉だね」

「私もまぁ、聞きかじった程度ですけど、ナデシコさんは相手のやりたいことや、やってくることをあらかじめ“読み切って”いるんですよ。だから狙ったようにそれを迎撃したり、組み付かれても脱出できるんです」


 ミハルの解説を聞き、「ええ」と驚くアイリス。

 再び視線を戻すと、レックス渾身のフックを、くるりと横回転でかわすナデシコがいた。


「もちろん、簡単なことじゃあないですよぉ。相手の表情や体勢、ちょっとした機微を鋭く“観察”した上で、ようやくできる芸当です。ナデシコさん、小さい頃からずっと“武術”を学んでたって言ってましたけど、すごいハイレベルな技術ですよ、あれは」


 ミハルの読みは、ほぼ正解だった。

 彼女もまた母親から“武術”の手解てほどきを受けてきたからこそ、直感的に理解できたのだろう。


 ナデシコはこのレックスという男を、リングに上がる前から入念に“観察”していた。

 筋肉の付き方、傷の位置、耳の盛り上がり方や、「解体屋」というあの二つ名。

 それらの要素を総合して、彼が“組技が得意なファイター”であることを、あらかじめ予測していたのである。


 あとは男の細かな挙動から、彼の“癖”を読み取った。

 歩いてくる瞬間の目線と、開いた腕、指の形。

 それらが彼の“タックル”の発射タイミングを知らせ、狙ったようにそこを迎撃しただけだ。

 そして組み付かれたとしても、相手の関節技の力の入れる箇所、波長を読み取り、そこをついて脱出する。


 このレックスという男は、リングの上にいるのではない。

 彼が踊っているのは、目の前の華奢きゃしゃな女――ナデシコという探偵のてのひらの上だ。


 もはや、リング上の“バランス”は逆転していた。

 男達が予想していたような、舐めた口を利く小娘を巨漢があっさりと撃退するという“喜劇”は、もう二度と起こらない。

 目の前に展開されるのは、汗だくで肉体を振り乱す男と、それを汗すらかかずいなし続ける女の“舞踏”だ。


 それは“試合”ですらなく“闘牛”のように一方的で、どこかバランスの欠如した“ショー”でしかない。


 ぜえぜえと息を上げ、また一つ拳を振り上げるレックス。

 空振りこそが、最も体力を消耗する。

 それも理解したうえで、ナデシコはあえて手を出さず、相手に打たせ続けた。


 ぶぅん、と弧を描いた拳の内側に、ついにナデシコは踏み込む。

 一撃をかわしながら、男の左胸目掛けて、絶妙のタイミングで掌打を叩き込んだ。


 乾いた音と共に、男の皮膚と表面の汗が波打つ。

 浸透した衝撃は男の心臓を一瞬停止させ、意識を体外へ弾き飛ばしてしまった。


 ずうんとリングが揺れる。

 気が付いた時にはレックスは白目をむいて地に伏せ、動かなくなっていた。


 しばしの静寂の後、すぐに倉庫内の大気が割れんばかりに揺れる。

 ナデシコの勝利という大番狂わせに、会場から怒号と悲鳴が飛び交った。


 強い――周囲の男達以上に、改めてアイリスとミハルも、壇上の探偵の姿に見惚みとれてしまう。


 勝利を喜ぼうとした二人に対し、ナデシコはあくまで呼吸を整えながら、どこか緊張した眼差しで一点を見つめている。

 彼女は手を上げてざわつく男達を制し、静寂を待って、高らかに言い放った。


「いやあ、全然だめだわ。こんなんじゃあ、“決闘”になんかなりゃしないよ!」


 思いがけない一言に、会場がどよめく。

 何を言い出すのかと、アイリス達も不安げな眼差しで彼女を見つめた。


 ナデシコのその眼差しは、離れた位置で壇上を見つめている、あの“長”に向けられている。


「お頭さん。こんな“雑魚ざこ”じゃあ、手ぬるいんじゃあない? どうせならもっと、きちんとした“強敵”を用意してよ。わざわざ、こんなところに連れてきたんだからさあ」


 そこら中の空気が揺れていた。

 マフィア達はナデシコの一言に動揺していたが、彼女と共に歩んできたアイリス、ミハルだけは、その裏に隠されたある感情にいち早く気付く。


 演技をしている――ナデシコはわざと、大きな態度で振る舞っている。


 その狙いは分からない。

 だが、レックスという男への“勝利”以上の何かを、この場で手に入れようとしているのだ。


 腕を組み、あごに手を当てながら、ボス・ギヴルは唸る。


「ふむぅ! なんとも剛毅ごうきなことだな。レックス程度では、満足しないと?」

「そういうこと。これじゃあ、汗一つかきゃしないよ。どうせならもっと危険で、もっとやばい奴とやらせて欲しかったなぁ。例えばそう――あんたみたいなね」

 

 大げさな身振りで、ある一点を指差すナデシコ。

 その先を追った一同が、一斉に息をのむ。


 アイリスとミハルも、彼女が選んだ一人の“男”の姿に、声を上げそうになった。


 離れた位置からリングを睨みつけている、赤いスーツの男。

 尖った金髪が、彼が首を傾けることで少しだけ揺れた。


 壇上のナデシコと、それを見上げるマフィア――ジンの鋭い視線が、宙でぶつかる。


 彼は何も言わなかった。

 アイリスとミハル、そしてマフィア達の無数の視線を受けてもなお、ただポケットに手を入れ、立っている。


 だがその黙した姿の中に、確かに誰もが感じた。

 静かで激しく燃える、怒りという感情を。


 アイリスが改めて、息をのむ。

 彼女の目にだけ映る“虎”の肉体で、燃え盛る紅蓮の炎が勢いを増し、ごおごおと音を立てていた。

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