34. 獣の胃袋

 青空から差し込む日差しが、空のそれとは異なる海の“青”に反射し、輝いた。

 熱くも湿気を伴わない快活な風が、白波の打ち付けるビーチを駆け抜ける。

 

 砂浜には無数のパラソルが立ち、日陰でくつろぐ観光客達の姿が見えた。

 ある者は日差しの恩恵を受けて肌を焼き、ある者は打ち寄せる波の感触と冷たさを堪能している。

 

 沖合に見えるいくつものヨットと、サーファーの姿。

 照り付ける日差しを浴び、小麦色に焼けた肌で談笑する男女。


 どこから来たのか、どういった関係性なのか。

 まるで統一感こそないが、それでも彼らがいわゆる“上流階級”の人間である、ということは容易に想像できる。


 ビーチでバカンスを楽しむ面々を双眼鏡で覗きながら、セレブらの優雅な姿にナデシコはため息をついた。


「ふ~む、やっぱりどいつもこいつも“ザ・金持ち”ってつらだねぇ。うらやましいこって」

 

 バカンスの様子をうかがう探偵の姿を、バルコニーの椅子に座ったアイリスが眺めている。

 彼女はアイスティーを飲みながら、彼方の海へと視線を走らせた。

 

「綺麗なところだね。ワンドゥにこんなところがあるなんて、知らなかったよ」

「まぁ、なかなか一般市民は足を踏み入れないところだからね。マリンスポーツやるか、本当に金持ちが羽伸ばすために使うためのエリアってところさ」

 

 双眼鏡を下ろしながら、ため息をつくナデシコ。

 遥か下、道路を行き来する人々や、車の姿を見降ろしていた。


 二人が足を踏み入れたのは、ワンドゥの中でも南東部に位置する海岸地帯のエリアである。

 都心部から少し離れると、今度は高級ホテルやマンションが立ち並び、ヤシの木が並ぶ開放的な街並みが現れる

 ワンドゥの広大な海を利用した観光業の一環で、旅行客の利用を見越した土産物屋や、セレブらに向けたブランド店の通りなどが並んでいる。

 

 その中心に建つ小さな――といっても、ナデシコの探偵事務所があるビルに比べても、随分と巨大だが――旅行者向けのホテルの一室を、ナデシコらは急遽借りていた。

 やはり値段水準は高めに設定されており、初めて見た時はその額に躊躇ちゅうちょしてしまった程である。


 そんな快適なホテルに滞在しているのは、なにもここでバカンスに洒落しゃれこむためではない。

 例のマフィア――「ベスティア・ファミリー」の尻尾を掴むための、立派な潜入調査のためであった。


 ナデシコは「さてと」と呟き、ビーチとは別方向へと双眼鏡を向けた。

 野山が背景に広がる住宅街の中、一際大きな屋敷へと狙いを絞る。


 目も覚めるような白壁と、レンガを敷き詰めた赤い屋根が印象的だった。

 屋敷とプール付きの巨大な庭を取り囲むように、高い鉄柵が張り巡らされている。

 随分と警備は厳重で、門の前には監視カメラはもちろん、警備担当と思われる黒服の男が二人、立っていた。


 組織の規模故か、はたまたその知名度の高さからか。

 いずれにせよ、マフィア「ベスティア・ファミリー」の根城となっている屋敷は、聞き込みを続けることで驚くほどあっさりと発覚した。

 海際に展開されるリゾートエリア――その近くにそびえ立つ優雅な屋敷こそ、彼らが利用している“隠れ家”なのだ。


 その情報があまりにもあっさり手に入ったことに、ナデシコは少しだけ歯噛みしてしまった。

 それは、マフィアの情報操作や隠ぺいが稚拙ちせつということではない。

 むしろ、その逆だ。


 この街では、彼らは有名な存在なのである。

 そして分かっていてなお、住人達はその存在を理解した上で干渉しないように暮らしている、ということだ。


 それは「ベスティア・ファミリー」という組織がどれ程、このワンドゥという大都市の裏側に根付いているのか――という事実を、間接的に理解させてしまう。

 はっきりとした“力”を持ち、黒組織として存在し続けているということが、手に取るように分かった。


 ナデシコが双眼鏡越しに覗いていると、屋敷の門の前に黒塗りの高級外車が停まった。

 中に乗っている人物は見えないが、なにやら門番と軽くやり取りをし、入っていく。

 

 こうして遠方からしばらく観察していたが、なるほど確かに、といった感じだ。

 出入りする人物はどれもこれも、その出で立ちから到底“一般市民”という枠におさまるような面々ではない。

 誰も彼も、皆一様に言い知れぬ“凄み”を内包している。

 これだけ離れた場所からレンズ越しに覗き込んだだけでも、ナデシコにはそれが十分伝わってきた。


 ベスティア――異国の言葉で“獣”を意味するようだが、遥か彼方の根城に見える男達が纏う“獣気”に、妙に納得してしまう。


「どうやら、噂通りってことらしいね。あそこが『ベスティア・ファミリー』の根城だ」

「ど、どう? 怪しそうな人、いる?」

「まぁ、怪しそうって意味では、どいつもこいつもでキリがないよ。残念だけど、こうやって眺めてるだけじゃあ、製薬会社とやり取りしてたのが誰かなんて分かるわけもないか」

 

 諦めて双眼鏡を下ろすナデシコに、アイリスは少しだけ残念そうに「そう」とうつむく。

 

 だが、今までのようにただいたずらに落ち込みはしない。

 すぐに顔を上げなおし、少女は問いかける。


「じゃあ、次はどうするの? まさか本当に、直接聞きに行く?」

「いやぁ、冗談で言ってみたものの、実際はそうもいかないだろうさ。真正面からいったところで門前払いが関の山だろうし、相手にされないだろうからね」


 またも「そう」と残念そうに返すアイリスに、今度はナデシコの方から素早く切り返した。


「とはいえ、ターゲットは絞れたんだ。あとはいつも通り――“探偵”の流儀で、あれこれ詰めていくのがベターだろうさ」

「それってつまり……」

「もちろん、“足”で稼ぐってことだよ」

 

 やはりここからできることは、ナデシコらには限られている。

 革命的な一手などあるわけもなく、やるべきなのは地道な“聞き込み”という作業であった。


 なんともぱっとはしないが、それでもいかにもな回答に、アイリスは少しだけ明るさを取り戻す。

 ナデシコに続き、彼女もまたバルコニーから室内に入った。


 広々としたワンルームの中に、キングサイズのベッド、アンティークテーブルに高そうな絵画。

 これでもリゾートエリアのホテルの中では“中の下”だというのだから、やはりワンドゥという街の中でも地域ごとの圧倒的な格差があるのだろう。


 ナデシコらが部屋に戻ってきたのを確認し、部屋の隅――最新のマッサージチェアに全身をもみほぐされながら、“彼女”が問いかけた。


「あー、ナデシコさーん。どうですかぁー。噂は当たってそうでしたぁー?」


 間延びした声で、とろけた表情を浮かべたまま問いかけてくる小説家・ミハル。

 彼女は部屋につくなり、一風呂浴び終えたらしい。

 ガウンを羽織り、長い白髪を団子状にまとめ、機械に身を委ねている。


 なんとも緊張感のない姿に、ナデシコとアイリスまで肩の力が抜けてしまった。

 とはいえ、「しっかりしろ」などととがめられるわけもない。

 なにせこの部屋代を出してくれているのは、彼女なのだ。


「ああ。どうやらあの屋敷で、間違いないらしい。これから先は、この辺りで情報集めだね」

「あー、なるほどー。やっぱりあれなんですねぇー。探偵は地道な活動が大事――あばばばばばば」

 

 喋りながらも首を激しく揉みほぐされ、振動で声がぶれる。

 緩み切った姿を見るに、よほど気持ちが良いのだろう。

 ナデシコとアイリスも、なんだか興味が湧いてきてしまう。


 だが、だらけ切るのは“一仕事”を終えた後だ――なまけようとする体に鞭を入れ、一同は準備を始めた。


 ナデシコとアイリス、そしてミハルの二手に分かれ、ひとまずはホテルを中心として情報を集めていく。

 観光客に混じり、近隣の店舗・施設を片っ端から当たっていった。


 それはアイリスにとって、どこか懐かしい光景でもあった。

 かつて、ワンドゥの中心地でアイリスの記憶をたどり、その足取りを探っていたあの時――今と同様、ナデシコと共に街並みを歩き、そこに住まう人々から話を聞き続けた。


 結果的にあの時は悪漢の群れに阻まれ、思いがけない大乱戦へと発展してしまった。

 全てが楽しい思い出ばかりではないが、それでもアイリスにとっては忘れることのできない、貴重な1日の記憶となっている。


 お土産屋やココナッツジュースの屋台、高級時計店やマリンスポーツの体験ブースなど、様々な店を練り歩く。

 言葉通り“足で稼ぐ”というスタイルは、なんともアナログで時代遅れに感じる。

 だが一方で、その土地で生活する人々の生の声を聞き、所作や態度から生きた温度感を測る。

 テクノロジーが進化する中で、ナデシコが変わらず続けてきた熟練のスタイルであった。


 日が傾き、夕暮れがリゾートエリアを茜色に染め上げる。

 日差しの熱と、歩き疲れた肉体が生み出す熱が互いに混ざり合い、気が付いた時には二人の額に汗が滲んでいた。


 20件近い店舗、施設を巡るも、やはりめぼしい情報は得られない。

 だが住人達は“知らない”というよりも、どこか“触れたくない”という色が濃いように見えた。

 

 長らくこの土地で商売をしているのだから、その地に根付く黒組織を知らないわけもない。

 恐らく皆、その存在を理解した上で、適切な距離を保って生活を続けているのだ。

 そういった“不文律”のようなものが、彼らの口を固く閉ざし、情報を漏らさないように作用しているのだろう。


 ビーチが一望できるベンチに腰掛け、休憩するナデシコとアイリス。

 とっくの昔にココナッツジュースを飲み干し、氷水を音を立てて吸いながら、探偵はくたびれた言葉を吐いた。


「なかなか難しいもんだね。予想はしていたけど、ここまで皆、口が堅いとはね」

「知らないって言ってるけど、本当なのかな? あんな大きなお屋敷があるのに……」

「いやぁ。十中八九、知ったうえで黙ってるんだろうね。簡単に情報を漏らしちまえば、ここで商売ができなくなるだろうからさ」


 こうなると厄介で、この地域一帯がマフィア「ベスティア・ファミリー」の縄張りのようなものだ。

 獣の姿が間近に見えていてなお、そこに近付くことも、中を覗くこともできないのはなんとももどかしいものがある。


 両手でカップを持ったまま、アイリスはビーチの美しい情景を見つめていた。


「本当にいるんだね、マフィアなんて。私てっきり、本や映画のお話の中の存在だとばかり思ってた。そう思うと、平和ボケしてたのかも……」

「なんだって“表”がありゃ“裏”がある、ってことだよ。無理矢理に覗き込まない限りは、絶対に見えてこない。世間っていうのは、そういうもんなのさ」


 アイリスに比べ、僅かではあるがナデシコは達観した視線で、世界を捉えている。

 あっけらかんと言ってのける彼女の横顔を、少女は不思議そうに見つめていた。


 夕暮れのビーチは、ただ純粋に美しい。

 だがアイリスは、茜色に染まっていく海原の情景ではなく、反射した光に照らされたナデシコの顔をただじっと見つめてしまう。


 不意に肩の力を抜き、アイリスは目の前の横顔にその疑問を投げかけていた。


「ねえ、ナデシコ」

「ん、なんだい?」

「ナデシコはなんで、探偵になったの?」


 少女の一言がよほど意外だったのか、ナデシコは目を丸くし、こちらを見つめていた。

 一拍の間の中で、探偵はきっと葛藤していたのかもしれない。


 だがすぐに微笑み、またビーチを眺めながら答えてくれる。


「前に、私が元々“ワル”だったって言ったよね? 地元であれこれとやんちゃしてた、って」

「うん。身に着けた格闘技で、凄い強かった、って」


 大きく頷くナデシコ。

 アイリスがしっかりと覚えていてくれたことが、どこか嬉しくなる。

 

 思い返す限り、生まれ故郷の街でナデシコは負けなしの猛者もさだった。

 その身に宿した“武術”の力は偉大で、女でありながら暴漢を始め武器を持った相手や、同様に格闘技を習ってきたやからにすら、手こずることはほとんどなかった。

 それほどまでに、幼少期から体に叩き込まれてきた技術は優秀で、実践的だったのだろう。


「調子に乗っていた矢先、とにかく手痛い失敗をしちゃってね。まぁ、簡単な話――負けちまったのさ」

「そっか……ナデシコでも勝てない相手が、いるんだね」

「まぁね。それにその負け方が、なんとも悔しいもんでね」

 

 ベンチに深くもたれかかったまま、再びナデシコは黙る。

 波の音を聞きながら、茜色の中にかつてのあの記憶が、朧気に輪郭を取り戻していた。


 誰かに伝える必要など、ないと思っていた。

 だがナデシコはなぜか、すぐ隣にいるこの少女にならば、この痛々しい“記憶”を託しても良いような気がしたのだ。


 なんとも不思議な感覚に、後ろ頭をかく。

 ちらりとアイリスを見つめた後、ナデシコはため息をついた。


「強姦されそうになっていた友達を助けたんだ。だけど、相手が集団でさ。私も負けて――犯されそうになったんだ」


 アイリスの喉元から、「えっ」と声が漏れる。

 驚き、大きく開いた目の中に、夕日の輝きと探偵の顔が映りこんでいた。


 なおもナデシコは、微かに笑っている。

 だがその目は切なく、どこか寂しい。


「相手は三人。一人一人ならわけはなかったけど、不意打ちを喰らっちゃってね。組み伏せられて、何度も殴られて――初めて味わった強烈な痛みに、身がすくんじゃったんだ。身勝手な話だよね。あれだけ他人を投げ飛ばしておいて、自分がやられる覚悟は決めてなかったんだからさ」


 唐突な事実に、言葉を失うアイリス。

 自身が軽々しく、ナデシコのあまりにも痛烈な過去に触れてしまったことに、動揺していた。


「友達が服をはぎ取られるのを、私は震えながら見ているしかなかった。怖かったんだよ。これ以上抵抗して、また殴られたら、どうなるんだろうって。ぶるぶる震えていた私にも男の手が伸びて、それで――やっと目が覚めた」


 忘れようと思ったことは何度もあった。

 だが遠ざけようとすればするほどに、その記憶は鮮明に、嫌らしく、ねちっこく脳の中にしがみついてくる。


 人間の頭とは、つくづく出来が悪いと感じる。

 楽しい記憶をあっけらかんと忘れるくせに、痛烈な思い出だけはいつまでも未練たらしく覚えているのだから、そもそも矛盾だらけだ。


「あとは、無我夢中だった。自分でも信じられないほど暴れて、結局、その男三人をぼこぼこにしちゃったんだ。結果的に強姦されはしなかったけど、警察沙汰にもなったし、当時は随分と問題になった。もちろん、両親だってそりゃあこっぴどく、しかったさ」

「じゃあ、なんとか無事で済んだんだね……」

「ああ。でも貞操は守れても、“心”の方は駄目だった」

 

 ナデシコの言葉を理解できず、不安げな眼差しを向けるアイリス。

 彼女をちらりと見つめた後、探偵は続ける。


「人間、肉体に刻まれた恐怖ってのは、なかなか消えないもんでさ。襲われた時の記憶が、今でも時折フラッシュバックする時があるんだよ。前に比べたらましになったけど、学生の頃はひどいもんで、しばらくはまともに日常生活が送れなかった」


 アイリスは言葉が出ない。

 告げられた事実になにを返そうとも、それが気休めになってしまうと分かるからだ。


「“力”ってのは不思議なものでね。たった一回の勝ちが人を成長させることもあれば、たった一回の負けが人を廃人にする。今までむやみやたらに振りかざしていた自分の“暴力”を、違う形の“暴力”でねじ伏せられたのさ」


 今でこそ、その情景を思い出しても、手は震えない。

 嘔吐をすることもないし、眩暈めまいや胸の痛みも湧いてこない。

 だがどれだけ症状が出なくても、心の痛みはしっかりと残っている。


「そうやって廃人みたいに過ごしている中で、学生として“進路”をどうするかって話になったんだ。だけど私としては、もう何一つまともにできる状態じゃあなかったし、元々、なりたい職業があるわけでもなかった。だから、まるで将来のヴィジョンが浮かんでこなくてね」

 

 今までの痛烈な過去から一変、ナデシコの話が少しだけ色を変えたことをアイリスは察した。

 微かに笑みを浮かべたまま、ナデシコは自身の歩んできた“道”を振り返る。


「そんな私に母さんが言ってくれたんだ。『世間体なんて考えなくて良い。あなたは、あなたの一番好きなことをやりなさい』――ってね」


 それはナデシコの口を伝ってもなお、力強く、温かい言葉であった。

 思い出の中の“母”からの一言に、アイリスも息をのむ。


「私も最初、驚いちゃってさ。だけど最後の最後まで、母さんは私の一番の理解者だった。私がどうしたいかを一緒に考えてくれて、その道を探してくれた。だから私は母さんの言葉通り、自分を取り繕うのをやめたんだ。汚い過去に縛られず、生まれ変わった気持ちで、しっかりこれからを生きよう、って」

「じゃあ……それで、ナデシコは――」

「そっ。あれこれ考え、悩んで、右往左往して――最後の最後に、残ったんだよ。自分の本当に“好きな物”が」


 悲痛な過去だったはずなのに、いつしかアイリスはその理由に唖然あぜんとし、戸惑いよりも驚きに支配されてしまっていた。

 悲痛な過去を肉体に刻んだ結果、ナデシコという女性は選んだのである。


 探偵になる道を――“ついで”に、忍者の技術も使いながら。


 波乱万丈というべきか、奇妙奇天烈というべきか。

 だが何となく、アイリスにも隣に座る彼女が持つ“したたかさ”の源泉が分かった気がした。


 ナデシコは過去に、しっかりと体験していたのだ。

 未熟ゆえに刻まれた“勝利”と“敗北”の記憶を持っているからこそ、今もこうして世間の荒波のなかで、ぶれずに生きていけるのだろう。


 話の中に出た“母親”という言葉に、アイリスは手元を見つめてしまった。


「すごいな。“探偵”になることを応援してくれるって、理解のあるお母さんだったんだね」

「まぁ、もっとも、母さんも“まさか”とは思ったっぽいけどねぇ。娘がいきなり、私立探偵になるって言いだすんだから、気が気じゃなかっただろうさ。つくづく親不孝者だよ」


 けらけらと笑うナデシコを見て、アイリスは考えてしまう。

 彼女の過去や、家族との関係までは正確に理解できたわけではない。

 

 だがそれでも、なんとなく彼女の母親は、ナデシコのことを“親不孝”などとは思っていないのではないか。

 そんなおぼろげな予感に、アイリスはどこかうらやましくなってしまう。

 

 再び前を向き、夕焼けに染まるビーチに視線を預ける、ナデシコとアイリス。

 納得し、手元を見つめるアイリスの耳に、確かな“振動音”が届く。

 

 ナデシコも気付き、ポケットから携帯電話を取り出していた。

 見れば画面上には、ミハルの名が表示されている。


 急いで応対するナデシコと、それを見守るアイリス。

 しばしのやり取りの後、ナデシコは「分かった」と手早く通話を終えてしまった。


「どうしたの。ミハルさん、なにかあったの?」

「ああ。どうやら、有力な情報を持っているやつを見つけたっぽいよ」

 

 思わず「ええ」と驚くアイリス。

 やはり一足早く、ナデシコはすくと立ち上がった。


「さて、休憩はおしまいだね。そうと決まれば、善は急げだ。とにかく私らも、行ってみよう」

「う、うん!」


 しんみりした空気を振り払うように、二人はビーチを後にする。

 アイリスも探偵の過去をしっかりと胸の中に受け止めつつ、引っ張られようとする思考を無理矢理、前に向き直した。


 彼女の独白を捨てるつもりはない。

 だが今は感傷に浸っている場面でも、彼女の素性を深掘る場面でもない。


 過去ではなく“今”を見据えて動くべきなのだと、アイリスにも分かっている。

 だからこそ、探偵の軽快な歩みに遅れずついていくことができた。


 飲み干したジュースの空をゴミ箱に投げ入れ、ビーチを後にする。

 カップが跳ねる乾いた音と、二つの砂を蹴って進む足音が期せずして同調し、重なり合った。




 ***




 夜が近付き、徐々に街には闇の色が濃くなってくる。

 街灯がぼんやりと灯る中、ナデシコらはミハルと合流し、三人で町はずれの小さな公園に辿り着いていた。


 お目当ての人物をすぐに見つける。

 小さな公園の隅――イチョウの木の下にダンボールを敷き、その上に座っている男の姿を確認した。


 公園の入り口に立ったまま、少し小さな声でナデシコはミハルに確認する。


「ねえ、間違いないのかい? あの男で」

「はいっ。この辺りのマフィアの事情に詳しい方なんですって。素性までは分からないですけどねぇ」

 

 素直に「へえ」という感嘆の声を上げつつも、ナデシコは離れた位置に座っている男の姿を、素早く観察していた。


 汚れた衣服、伸び放題のひげ、染みまみれの肌――こと“清潔感”という概念を取り払ったその姿は、男が“浮浪者”であるということを、如実に物語っている。


 彼はダンボールの上に腰かけたままあぐらをかき、ぼぉっとしている。

 周囲にはどこからか拾ってきたであろう、漫画雑誌や週刊誌が並べられていた。

 恐らく、捨てられていたものを少しでも小銭に変えようと“露店”を開いているらしい。


 とはいえ、そんな彼に近付く人間はいない。

 小さな公園にはナデシコら三人と、男の影しか見受けられなかった。


 ミハルも男を眺めながら、唸る。


「私も最初は信じられませんでしたけどねぇ。でも、いくつもいくつもたらい回しにされて、ようやくたどり着いたんですよ」

「ほぉ。ならまぁ、脈ありってこった。あとは直接、問い詰めてみるのみだね」


 一瞬、ナデシコは左右に立つアイリス、ミハルに目配せをする。

 無言のまま二人も頷き、前を向いた。


 まっすぐ、気負うことなく近付き、すぐに三人は男の前に辿り着いた。


「どうもどうも、こんばんは。おじさん、何やってるの? 古本の露店?」


 ナデシコの笑顔に、男は少しだけ顔を持ち上げた。

 だが、すぐに視線を落とし、かすれるようなため息をつく。


 警戒されているのか――こういう時、無駄に取り繕ったところで、大した効果は出ないことを知っている。


 だからこそナデシコは、柔らかな波長のまま、しかし率直にこちらの意図をぶつけてみた。


「実はおじさんに、ちょっと聞きたいことがあるんだ。おじさん、ここらの人間の出入りに詳しいんだって? だから、ちょっと私らに協力してほしいんだよねぇ」


 返事はない。

 不穏な空気に、アイリスとミハルは互いの顔を一瞬、見つめ合ってしまう。


 すぐに望む答えが返ってくるとは、はなから思っていない。

 ナデシコは更に揺さぶりをかけるべく、とにかく笑顔で語り掛ける。


 苛立ちでも、怒りでも良い。

 まずは目の前の彼が、自分達に喰いついてくるのを、待った。


「もちろん、ただとは言わないよ! 協力してくれたら、ちゃんと報酬も出すからさ。だから――」

「悪いことは言わない。やめておいた方が良い」

 

 はっきりと言葉をさえぎられ、ナデシコすら目を見開き、驚いてしまう。

 ゆらりと、男は顔を上げた。

 濁った瞳が目の前に立つ三人を、しっかりと見据えている。


「これが最後。もしこれ以上、それでも行くというなら、それもまた止めはしない。俺からのたった一つの、おせっかいだ――やめておいた方が良い」


 やせ細った男の体の中から、明瞭で強い言葉がはっきりと放たれた。

 今までとは明らかに異なった雰囲気に、ナデシコらはたじろいでしまう。


 しかし思いの外、早く話がつく予感がしていた。

 隠すどころか、あまりにも率直に彼は姿を現してくれたのだ。


 ナデシコは「ふうん」と笑い、切って返す。


「私達の身を案じてくれてるってわけ? 優しいんだねぇ、おじさん」


 再び、返事はない。

 男はじっとこちらを見つめたまま、黙している。


 無言の威圧感に負けないよう、ナデシコは強いな眼差しを浮かべた。


「だけど、残念。私らだって、それなりの強い意志があってここに来てるんだ。観光や興味本位じゃあない。やぶをつついて蛇が出ようが、野獣に噛みつかれようが――その奥を覗かなきゃあいけないんだ」

 

 ナデシコの言葉を受けてもなお、しばし男は黙していた。

 その瞳はやがてナデシコだけではなく、その横に立つアイリス、そしてミハルの顔を順に眺める。


 しばしの沈黙の後、男はため息をつき、うつむいた。


 なにを知っているのか。

 そして、なにを語るのか。


 期待と不安に身を強張こわばらす三人に、男ははっきりと言い放った。


「そういうことみたいです。なにやら、本気のようですね。彼女達」


 一瞬、言葉の意味を理解しかね、首をかしげてしまう。

 それは明らかにナデシコらというより、別の誰かに向けて放たれた言葉だ。


 その“誰か”の正体を、すぐに三人は察した。

 背後から伝わってきた、無数の“気配”に、振り返る。


 いつの間にやら、公園の入り口には無数の男達が立っていた。

 車道を背にし、黒いスーツとサングラスで統一された、仰々しい集団。

 それが入り口を封鎖し、ナデシコらの退路を断っている。


 ぎょっとし、言葉を失う三人。

 何が起こったかをいち早く察したのは、やはり先頭に立つ探偵だった。

 

 してやられた、ということか――ナデシコに遅れ、アイリスとミハルも男達の正体に気付く。


 スーツ姿の彼らから伝わる、独特の“凄み”。

 一塊のサラリーマンやリゾート客には絶対に出すことのできない、洗練された“黒”の気配。


 いざ実物を目の前にすると、情けないことに言葉が出ない。

 それほどまでに彼らの放つ“気”は、濃厚で、底なしに深い。


 マフィア――どうやら、ナデシコらがこのエリアであれこれと嗅ぎまわていたのは、とっくの昔にばれていたらしい。


 ナデシコは素早く振り返り、浮浪者の男を見つめる。

 男は視線を落とし、あぐらをかいたまま黙っていた。


 それが彼の、真の役割だったのだ。

 マフィア「ベスティア・ファミリー」のことを嗅ぎまわる人間を、最後の最後に見極める。

 それが単なる興味本位の取るに足らない相手なのか、はたまた組織が警戒するべき相手なのか。


 いや、彼だけではない。

 ミハルは先程、言っていたのだ。


 いくつもいくつもたらい回しにされた――と。


 となれば、その中の誰がナデシコらに目を付けたのだろう。

 そのうちの何人が、はたしてマフィアと密接に繋がりを持っていたのだろう。


 いや、もしかしたら――誰も彼も皆、最初から“黒”の側だったのではないか。

 

 入口に並ぶ男達のその背後に、黒塗りの高級外車が見えた。

 困惑する三人を前に、マフィア達は道を開け、無言で促す。

 言葉は介さなくても“乗れ”という圧が、ただ純粋に、痛いまでに伝わってきた。


 戦慄し、なおも言葉を絞り出せない三人。

 いつしか公園の空気が痛みを纏い、ぴりぴりと肌を刺激している。


 藪をつついてなにかが出てきた、どころではない。

 もっとやばい状況に足を踏み入れたことを、ナデシコらは察する。


 このリゾートがすでに、彼らの体内なのだ――知らず知らずのうち、もっとも危険な領域に身を置いていた自分達の愚行に、歯噛みした。

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