5. 敵意の群れ
路地裏独特の湿った香りに、目の前の男の香水が混ざり込み、なんとも不快に鼻腔をくすぐる。
迫ってくるそれから逃れようにも、背後をコンクリートの冷たい感触が阻む。
左右にも一人ずつ男が立ち、退路を遮断していた。
黒いドレスにも似た装束を身に纏った「少女」は、必死に壁際に身を寄せ、視線をそらす。
震えるか細い身体を抑え込み、湧き上がる恐怖に耐えた。
そんな彼女に、更に無慈悲に、無遠慮に目の前の男は迫る。
「怖がらなくても大丈夫よぉ~。君みたいな女の子、俺ら、いっつも助けてあげてるわけ。君みたいに、行く先に困ってる子は一杯いるから。ほら、なんつーの。ボランティア? ってやつよぉ~」
間延びしたなれなれしい語り口に、少女は微かに男を見る。
少女の可憐さに比べ、男達の格好は実に奇抜だ。
金髪のモヒカンヘアーにアロハシャツとジーンズ。
シャツの裾から覗くタトゥーや、指、腕に身に着けた装飾品の類が、彼らの「質」を表している。
迫る男の顔は笑っていた。
しかし実に不純で、不快な下心にまみれた表情である。
彼はサングラスを取り、にたりと笑った。
「ほら、この目ぇ見てよ、目! 俺ら、やましい気持ちなんざないってわけ。うちにくれば、ご飯もお風呂も、寝るところも用意してあげられるのよぉ。君と同い年くらいの娘もたくさんいるから、安心安心」
男の言葉には真と虚が入り乱れる。
無論、下心など「大あり」だ。
こうして家出少女やわけありの女性に声をかけては、巧みに誘導し、弱みを握る。
時には強引な手法で「こっち側」に引き入れ、逃げれないようにしてしまう。
根っこの部分を掴みさえすれば、あとは煮るなり焼くなり好きなように、だ。
男達が求めているのは善意などではない。
女という「商品価値」そのものである。
なにより、多くの女を見てきた彼からしても、目の前の少女は逸材だった。
艶やかな長い黒髪。
幼さが残る大きな瞳、あどけない表情。
白く透き通った肌。
身に着ける黒いドレススタイルが、まるで嫌味にならない。
肉体の「白」と装束の「黒」が見事なコントラストとして映える。
逃がしてたまるか――美貌、愛くるしさは「金」を生む。
目の前の少女の姿は、男達にとって金塊にしか見えていない。
そして少女の目から見ても、男達は「異形」のそれだった。
微かに目を開き、瞼とまつ毛の隙間から男達を覗く。
醜い――ただただ、醜悪な塊が三つ、そこにいた。
比喩表現ではない。
少女には本当に、そう見えるのだ。
人間の姿のその上に、うっすらと浮かび上がる「ヴィジョン」。
その人間の本質を表す「イメージ」が、本能的に分かる。
幼い頃からずっと備わっていた能力だった。
知りたくなくても、その人間の持つ裏側が視える力。
そんな少女にとっては、目の前の男達の本意など透けて見えていた。
逃げなくては――だが、足がすくんでしまい、思うように動かない。
全速力で走ったとして、どうにかなるだろうか。
どちら逃げるかも分からない、あらゆることが未知のこの土地で、この悪漢三人から逃げ切れる自信はない。
もしもう一度捕まれば、何をされるのだろう。
どんな乱暴を働かれてしまうのだろう。
それらを想像するだけで、震えが止まらない。
男はさらに、無遠慮に迫ってくる。
少女の消耗など知ったことではない。
むしろ弱らせて弱らせて、衰弱させれば都合がいい。
「まあ、このまま立ち話もなんでしょう。ほら、近くに俺ら、車止めてるわけよ。とりあえずそこで、落ち着いて飲み物でも飲みながら――ね?」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ――何か言わなければ、何かしなければ。
だが、何もできない自分に、涙が溢れる。
一歩、また男がずいっと体を寄せた。
少女のか細い体の中に、感情が渦巻く。
なんでこんなことになってしまったんだろうか。
なぜ「あの日」、ここに来てしまったのだろうか。
なぜ「あの場所」に居合わせてしまったのだろうか。
そんな激しい後悔などが、状況を打破してくれるわけもない。
男のにやついた顔が、ずいと迫る。
そんな路地裏に、透き通った声が響いた。
「見つけたよシェリー。こんなところにいたの!」
目を見開き、顔を上げる少女。
そして不快をあらわにする男達。
路地の入り口に、ジャケットとジーンズ姿の「彼女」がいた。
「もお、勝手にふらふらしないでよねぇ、勘弁してよぉ。探しちゃったじゃーん!」
大袈裟な身振り手振りで、近付いてくるナデシコ。
無論、少女の名など知らない。
シェリーなどというのは、即興で思いついたただの適当な仮名だ。
一目で厄介事だと分かる。
この都市の住人ならば、こんな場面は見て見ぬふりをするのだろう。
だが、このナデシコという「探偵」の気質が、それを許さなかった。
「なになに、どうしたの。お知り合い? ごめんなさいねぇー、うちの友達が迷惑かけちゃったみたいで!」
ずかずかと近付き、へらへらと笑いかける。
そんなナデシコを睨みつける男達。
その後ろで、少女もまた突然のことに対応できず、目を丸くしていた。
だがやがて、少女の瞳により強い驚きの色があらわれる。
ナデシコのその姿にかぶるその「ヴィジョン」に、声が漏れた。
少女の「えっ」というか細い驚きを、モヒカンヘアーの声が押しつぶす。
「なんだ、お前? 何の用だよ」
「いやあ、だからさっき言った通りでさ。うちら、ワンドゥに一緒に旅行に来たばかり――」
「下らねえ嘘、並べてんじゃあねえぞ」
一喝する男の声に、今までのような薄っぺらい優しさはなかった。
明らかな敵意にも、ナデシコはひるまない。
「嘘だなんて、とんでもない! その子、いっつも好き勝手ふらついちゃうから、迷子になって困ってたんだよねぇ」
のらりくらりとかわそうとするが、男達も「ワル」としてそれなりの経歴がある。
ナデシコのその言葉、態度が、その場しのぎの脆いものだと一瞬で見抜いてしまった。
ちっ、と舌打ち混じりに、男が眉間にしわを寄せる。
「そういうのは良いって。俺らさ、今忙しいわけ。なあ、余計な正義感ひけらかすと、怪我するぜ?」
じりりと左右の男も近付いてくる。
少女を捕らえるよりも先に、ナデシコという邪魔者を排除するつもりらしい。
少女は壁に身を寄せたまま、ナデシコを視ていた。
自分のせいだ――自分だけならまだしも、赤の他人、どこの誰かも分からない――だがそれでいて親切な彼女が、男達の毒牙にかかってしまう。
その事実に、頭がうまく回らない。
恐怖と不安が、更に後悔の色を濃く、深くしていく。
三つの殺意と、一つの不安。
それらを前にしてナデシコは、ただ静かにため息をつき、笑った。
「正義感なんて、とんでもない。私はただ、かわいそうだなぁ、って思っただけだよ」
「そういう綺麗事が、身を滅ぼすわけよ、な? 分かったらとっとと――」
「あんたらのことだよ。かわいそうってのはさ」
その一言に、空気が張り詰めた。
少女までも一瞬、呼吸を止めてしまう。
笑みを浮かべるナデシコの目は――笑っていない。
「群れて、小さな女の子相手にしかいばれない。自分着飾って、やばい奴アピールするのが精いっぱい。そういう情けない男三人を見て、かわいそうだなぁって思ったんだよねぇ。ねえ――トサカ先輩?」
敵意が、明らかな殺意に代わる。
男達の全身が強張り、一気に路地裏の空気が熱を帯びたように錯覚した。
ああっ!? と威嚇する男達。
拳を握りしめ、一人が前に出る。
その様を、少女はただただ、震えながら見つめていた。
逃げ場もない、助けも呼べない。
そんな絶望的な空間でただ一人、ナデシコだけはあくまで、気だるそうな笑みを浮かべ、前を見ていた。
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