拳星 ― Knuckle Stars ―

創也 慎介

プロローグ

 狭く、暗い空間だった。


 周囲をビルに取り囲まれた、たまたま出来上がった路地裏の一画。


 排水、乾ききらない雨水、換気扇からあふれ出す空気、捨てられたごみ、野生動物の排泄物――ありとあらゆる臭気が、ビルの隙間を駆け抜ける風によって強引に混ぜ合わされ、渦巻いている。


 わずかに差し込む蛍光灯やネオンの明かりが、ぼんやりとその掃きだめのような空間を照らし出す。


 全身が震える。

 呼吸をすればするほど、周囲を包む悪臭が肉体をむしばみ、肉の、骨の、血の隅々を侵していく。


 だがそれでも、肉体でたぎる熱が消えない。

 しびれるような痛みが走っても、乾いた目を閉じることができない。


 手にした包丁が震える。

 刃をべっとりと濡らす血液に、夜の街の明かりがぎらぎらと反射した。


 目の前に倒れている“彼”は、もう動かない。

 ずたずたになったその肉体から、命の雫がとめどなくあふれ出し、地面を染めていく。


 “彼”の見開いたままの双眸そうぼうから、光を失った瞳がこちらを見つめている。

 その視線のおぞましさに、震えはさらに大きくなってしまう。


 自身の呼吸と、風の音。

 遠くから聞こえてくる繁華街の喧騒けんそう


 そのどれよりも大きい、怒号が響いた。


 振り返ると同時に、複数の光に目がくらみそうになる。

 男達は“彼女”の姿をしっかりと捉え、更に吠えた。


 びりびりと空気が揺れる。

 自身に叩きつけられた怒りの感情で、ようやく手から刃が滑り落ち、乾いた音を立てて跳ねた。


 違う――小さな声は、やはり男達のそれにかき消され、届かない。


 光の群れがこちらへと近づいていくる。


 たまらず背を向け、逃げ出した。

 小さな背にどれだけ声が叩きつけられても、もはや振り返ることはせず、複雑な路地へと飛び込む。


 私じゃない――涙が後ろへと流れていく。

 汚水を跳ね、ゴミ袋を蹴り飛ばし、スカートがどれだけ汚れてもまるで構わず、ただ走る。


 血の匂いと、訴えと、怒号。


 路地裏を駆け巡るそれらが、よどんだ街の闇の中で虚しくかすんでいった。

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