僕の彼女

沈黙は金?

第1話

 由樹という忘れたくても忘れられない女性が、僕にはいた。身長は160㎝くらいで、スタイルはかなり良く、シャギーにカットされた髪を胸のあたりまで伸ばし、赤黒く染めていた。肌の色は白く艶があり、顔は目許が涼しく、鼻筋が通っていて、申し分のない容姿だった。ファッションは、よく真っ赤なワンピースを着ていたように思い出される。とにかく、エレガントという言葉が似合う女性だった。

 こんな女性が、僕の彼女だった、いや僕自身、勝手にそう思い込んでいるだけかもしれないが、そんな女性と一緒に過ごした時間があったということは、僕にとって、とても大きなことなのである。


 僕は、今、由樹を思い出しながら、それを文章にしている。彼女は悩ましい、いや悩ましくて仕様が無い、僕は、彼女のその悩ましさに散々振り回された挙句、捨てられた訳だが、それまでの時間は、僕は、彼女に好ましい男になるのに一生懸命だった。そう、僕は、彼女に尽くして尽くして尽くしまくったのである。

 例えば、携帯電話で「今すぐ来て」と言われれば、物凄いスピードで、彼女の住むマンションに飛んで行った。そして、彼女の命令に従い、部屋の掃除をし、お風呂場の掃除をし、トイレの掃除をし、台所の食器を洗い、ゴミを纏め、食事を作った。

「由樹ちゃん、食事できたよ」

「ありがとう」

「大したもんじゃないけどね」

「助かるよー」

「そう言ってくれると張り合いがあるね」

「おいしいー。そうだ、DVDの映画で『愛の新世界』っていう邦画があるの知ってる? 鈴木砂羽が初主演のやつ。よかったら一緒に見ない?」

「なんだかわかんないけど、面白そうな映画だね」

 僕は、面白そうかどうかは関係なかった。由樹ちゃんと一緒に映画を見るということに意味がある。

「じゃー、わたしがご飯食べてる間に、お風呂入ってきちゃいなよー」

「んー、そうしようかな」

 僕は、由樹ちゃんと一緒にお風呂に入りたかった。本当は。

「そーだ!お風呂入ってるとき、洗濯機もまわしといて。お願い」

「ハイハイ。先にお風呂いただきまーす」


 そして、由樹ちゃんと『愛の新世界』を見始めた。普段、僕は映画を見ないので、何の新世界だか何だか知らないけれど、映画などどうでもよかった。由樹ちゃんと僕とが同じ空間で同じ空気を共有することが何より大前提であるのである。ところが、画面に女王様が出てきて、SMの映画なのかなと思いきや、ヘアーヌード写真が出てきて、その後アングラ劇団の稽古のシーンかと思いきや、劇団員の男数人が一人の女劇団員をまわしてセックスをするシーンが出てくるなど、映像の展開が凄まじく、何が言いたいのか分からなかった。ただ、由樹ちゃんが真剣に見ていたので、僕は大人しく見ているフリをしていた。

 映画を見終わった後、由樹ちゃんは映画談議がしたいらしく僕に話を振ってきた。

「映画どうだった?」

「うーん、よく分からなかった」

「わたしはね、演劇をやりながら、SMクラブの女王様をしている主人公に憧れを抱いたの」

「ある意味、由樹ちゃんが女王様って言うの分かる気がする」

「なーによー! 変なこと急に言うわね」

「だって、由樹ちゃんは僕のこと……」

「何が言いたいの?」

 ここで、僕は言葉が出なくなった。頭の中で僕は、由樹ちゃんの下僕だと呟いた。

 由樹ちゃんはどうしても、映画談議がしたくてしたくて堪らないようだが、僕は先ほどからセックスがしたくて仕様が無かった。僕は、隣にいる由樹ちゃんに抱き付いた。そして、服の上からBカップくらいの胸を揉んだ後、口づけをし、いいムードになり、これからという時に、由樹ちゃんはその後の行く手を遮るのである。それでも、執拗に僕が攻めると由樹ちゃんは一発僕をぶん殴り、「やめろよ、しつこいんだよ、この雑魚が!」と罵るのである。



 当時、由樹ちゃんは、東大法学部出身の財務省に勤務するキャリア官僚だった。僕は、アラサーだったけれども某大学大学院経済学研究科の博士課程に在籍していた。由樹ちゃんは、高校時代の後輩で年は二つ下だった。高校時代から、由樹ちゃんに告白する男子生徒は、枚挙にいとまがなかったが、皆相手にされなかったようだ。僕と由樹ちゃんは、物理部という部活動で知り合いになった。由樹ちゃんは、アマチュア無線がやりたかったようで、そのための免許を取得するために勉強を一生懸命やっていた。僕は、そのお手伝いをしてあげていた。その頃は、二人の仲が発展していくということは全くなかった。そのうち、僕は、受験勉強が忙しくなり部活動に行かなくなった。


 受験勉強はかなり根を詰めてやった。それでも、由樹ちゃんの姿が浮かんできて、どうにもならないこともあった。僕は、医学部を受験することを目標としていたが、模擬試験の結果が思わしくなく、受験する学部を変更せざるをえなかった。

 苦悩した結果、全く興味のない工学部を受験することにした。結局、受験する学部を変更したことが功を奏して、大学に合格することができた。そして、大学というものに入学してはみたものの四年間実験の時間に悩まされた。実験装置に触れるのも苦手だったし、実験そのものに全く興味がわかず非常に苦痛だった。レポートもなかなか受理されず、何回も書き直しを命じられ、心労が絶えなかった。

 最後の四年生は、卒業研究を一年かけてやらなければならず、研究室に籠って毎日実験装置と向き合わなければならない生活は非常に精神的な苦痛を伴い、鬱病に陥り、暫く大学を休んだ時期もあった。

 今となっては、何を研究していたのかも覚えていない。同級生達は、ほとんどが大学院に進学し、就職を選択した者は、大企業に入社した。

 僕だけ進路が決まっておらず、研究の方も進展をみせないまま、一年が経過し、教授の恩情で何とか卒業させてもらった。最悪の気分を味わい、この時期は、死んで世の中から姿を消してしまいたい心境だった。

 大学卒業後、結局、僕は、就職しなかった。魅力を感じる職業がなかったからである。その後、アルバイトを転々として、生活というものが辛くなってきた。時の流れについていくのが非常に困難となり、生きる気力が稀薄になった。精神的に疲れやすくなり、動くのが面倒くさくなってきた。

 そんな僕を、母は見兼ねて心療内科の診療所へと導いてくれた。二十三歳の冬だった。この時から現在まで心療内科に通院しているのだけれど、もう、心の病というやつを治そうとは思っていない。とにかく、朝昼夕と一日三回薬を飲み続ければ、僕は正常でいられるのだから。

 けれども、僕がこの境地に辿り着くまでには、紆余曲折があった。特に、心療内科に通院しだした頃から二十九歳までの二十代は、自暴自棄になることが多かった。肉体的には、どこも悪くないのに、モチベーションが上がらないために、一日を棒に振ることが何日も続いた。次第に、僕の心は荒んでいき,終いには厭世観を抱くようになった。この世から消えてなくなりたいと思うことも度々で、僕は人間の屑だから生きていても意味がないと、のたうち回っていることもしばしばあった。薬の影響で眠くなることが多く、明るいうちから寝てしまうこともあった。このような生活を続けていると、この先の人生に大変不安を覚えるようになった。

 こんな僕でも、母は優しく接してくれた。唯一の味方だった。食事も作ってくれ食べることに不自由はしなかった。それに、母は同じような境遇の母親が集まる家族会というものに入り、一生懸命活動していたし、心の病についての勉強会にも積極的に参加していた。

 これに反して、父親は厳しかった。すぐにでも就職先を見つけて働けといった。甘ったれている場合ではないと、頻りに僕に迫った。これには、僕も、ただでさえ精神的にダメージを受けているのに、その上にさらに追い討ちをかけられたので、非常に辛い思いをした。

 

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