Episode 5

 とある寝苦しい夜半、グレーザーは何度目か分からぬ寝返りを打った。眠れないのは確実に暑さのせいではない。幾ら目を瞬けども、暗闇にソフィアの姿が浮かび上がっては消えてゆくのだ。

 海に連れて行った後も、度々彼女に会いに行った。食事を共にしたり、彼女の竪琴と歌を聴いたりもした。花畑や湖畔に連れて行きもした。しかし、どこに行っても、何をしても、最後に彼女は寂しそうな顔をする。その顔が見るに堪えず、また劣等感と罪の意識は増すばかりで、近頃は足が遠のき気味だった。──そしてそこに、新たな苦しみが加わっていたのである。

(治したい。彼女の暗闇に、光と色を与えてやりたい)

 竜人は、古の竜の血を引いた一族だ。伝説となった古代竜の呪力も、かの竜たちには到底及ばないが、多少は受け継がれている。

 ──実を言えば、治せるのだ。竜人の力を使うならば。

 しかし、竜はその力のために狩られた。竜人にも同じ力があると知れれば、今度は彼らが破滅の道を辿りかねない。人間は協定を覆し、再び戦いが始まるかもしれない。故に、他種族の前で力を使うことは禁じられていた。もし掟を破った場合、その者は何かしらの代償を払うことになる──何が犠牲となるかは、分からない。

(治してやりたい。が……)

 しかし、彼が思い悩んでいるのは別のことだった。彼女が幸せになるならば、代償など幾らでも払う気でいた。未知の犠牲も怖くはない。問題はそこではない。

(もしソフィア嬢の目が見えるようになったならば、俺は傍にいられなくなる。騙していたと、知られてしまう)

 彼にとって、彼女に視力を与えることは、散々憎み、嘆いた、無骨で異様な己の姿を彼女の前に晒すことである。また、今まで彼女をたばかり、正体を隠していたと打ち明けることである。ソフィアも年頃の娘だ、グレーザーに見当外れの期待をしているに違いない。何せ深窓の令嬢、男になどほとんど会ったことがないだろう。初めて関わった男、それも自分を気遣い、多少の優しさを見せた者とあらば、想いを寄せてしまうのも無理はない。

(俺はソフィア嬢の相手にはなれない。俺の姿を見て失望してくれれば、それで良いのかもしれない……)

 そう言い聞かせてみる。が、なかなか割り切れなかった。

 ソフィアは傷つくだろう。そして己の存在が、裏切った男として彼女の胸に刻まれるのが耐え難い。

(治せるならば、治してやるのが筋だ。己の欲のために弱者を見殺しにするのは、卑劣漢のすることだ)

 幾ら責め立てても、決心がつかない。女々しさを呪い、蔑み、呆れながら、それでも尚正義を阻み、胸を灼くのは恋の焔なのだと、グレーザーは薄々気付いていた。


 一方こちらにも、眠れぬ夜を過ごす者がいる。

(……エルダインさま)

 ソフィアである。

 明るく振舞おうと努めているものの、最近はグレーザーがあまり訪ねて来ないので、落ち込んでいる彼女であった。

(お仕事が忙しいのでしょうか。……それとも、私に構っている暇はないのでしょうか)

 便りや季節の果物などは来るが、本人がぱたりと来なくなったので、戦が始まるのかと思ったが、そんなことはない。寧ろ国は安泰だという。その証拠に、蒼月騎士団の兄弟たちも帰ってくる頻度が増えた。彼にだけ休暇が与えられないとは、考えにくい。

(誰か、大切な人がいらっしゃるのでしょうか。それなら当然、そのお方と結ばれるべきです……目が見えなくて、手のかかる私なんかより)

 彼に想い人がいたとしても、その人を妬みはしない。が、悲しいのは事実だった。彼が来ないことで、余計に不安は募ってゆく。

(きっと、迷惑だったのだと思います……ごめんなさい。でも、寂しいです……私に、外の世界を教えてくれたひと。優しい、ひと)

 忘れようと思っても忘れられるものではない。彼との時間は、 それほど鮮明な、何にも変え難い思い出なのだ。

「お会いしたいです、エルダインさま……」

 思わず、何度も繰り返した心の声を口にしてしまうと、必死に堪えていた涙が溢れてしまった。

 暗闇の中で、独りということの心細さを改めて噛み締めながら、布団に顔を押し当て、人知れずソフィアは泣いた。


 悶々と日々を過ごしているうち、グレーザーの元にアーノルドから手紙が届いた。

 身構えながら封を切る。手紙は短く、簡潔なものだった。

『数日前から、ソフィアが臥せっている。卿のことを気にしていたようなので、声を聞かせてやって頂けないだろうか』とのことである。

(俺のせいで、心を病んだのか?)

 長らく彼女の許を訪れていないことが、思いの外堪えているのかもしれなかった。

(だとすると、二重にまずい)

 自分のせいで彼女が臥せってしまったとなると、それは責任を取らねばならない。早急に見舞いに行くべきである。

 しかし、本当にそうだとするならば、ソフィアの心は大分彼に傾いていることになる。

(恋の痛みは、想いが強くなればなるほど強くなる、と、誰かが言っていたか……いつまでも手をこまねいてはいられない。もう、蹴りをつけねば)

 ぐずぐずしていればまた迷うと分かっていた。意を決して馬に飛び乗る。

 鎧と手袋、そして恋情は置いていくことにした。


「ソフィア嬢──」

 半ば駆け込むように部屋に入ったグレーザーは、寝台に横たわって布団を被っているソフィアの後ろ姿を見た。その瞬間に、今まで彼女を訪れなかったことを後悔した。

「……エルダインさま?」

 緩慢な動作で、ソフィアが彼の方を向く。白さが増しているように思えた。

「ああ、俺だ。痩せたな」

 聞けば、あまり食べていないのだという。思ったよりも容態は深刻だった。

 グレーザーが来ないので外に出ない。心が乱れ、食事が喉を通らない。そう考えれば元凶は彼である。

「来てくださったのですね。わざわざ、申し訳ありません……」

 そうして、苦しそうな顔のまま微笑む。その痛々しさに、迷いも、見栄も、恐れも吹き飛ぶ。

「俺こそ、詫びねばならぬことがある」

 深く息を吸う。決闘の前のように、吐き出す息と共に心を空にする。竜の顔から表情が消えた。

 願うのは、ただ一心。己の身体も、心も、犠牲にする覚悟はできている。

 彼女が不思議そうに首を傾げている様子が愛らしい。心が痛む。身体も痛む。

「目を開けて頂きたい」

 全く突然の要求に、ソフィアは意味が分からず狼狽えた。

「いいから、嘘だと思って開けろ。全て、分かる」

 自棄やけになったグレーザーの、有無を言わさぬ強い口調に気圧されて、遂にソフィアは、躊躇いながらも瞼を開いた。


 ──あの日の海のような、澄んだ青い瞳がグレーザーを見つめた。

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