Episode 3

 数日後、グレーザーに再びソフィアのもとにいた。

『卿と出かけるのが待ち遠しくて仕方がないようだ。せめていつ頃になるかくらいを話してやってくれないだろうか』と、アーノルドから手紙が来たのである。非常に決まり悪そうな顔でエディンガー家に赴き、アーノルドとソフィアに散々礼を言われて余計に仏頂面になったグレーザーであった。

「……次の、月が満ちる日の午後でどうか。天気が悪ければ、その翌日に」

「はい……私のわがままに付き合ってくださって、本当にありがとうございます、エルダインさま」

 部屋の中までも明るくなるのではないかというほどの、ソフィアの笑顔だ。

「お気になさらず」

 返事は素っ気ない。グレーザーだけは、素直に喜べなかった。自分がこんなことをして良いのかという疑問が生じていたのである。

(俺が竜人だと知っていたら、ソフィア嬢はどうしただろうか。あらぬ期待をさせてしまっているのではなかろうか)

 情に流されてつい口走ってしまったことを、後悔し始めた彼であった。


 約束の日の、前日の晩のことである。

(やっと、明日……)

 ソフィアは少女らしいときめきに胸を高鳴らせていた。──いや、そう言うと些か語弊があるかもしれない。楽しみなのは「グレーザーとの外出」ではなく、あくまで「海へ行くこと」である。

(エルダインさま……明日がとても、待ち遠しいです)

 だが、やはりグレーザーのことも、気になってはいるのだろう。

 姿の代わりに、彼の声が脳裏に蘇る。

 騎士だというし、低くて重厚な声をしているから、逞しい人なのだろうな、とは思う。見た目は少し怖そうな気もする。しかし本当は穏やかで、少し不器用だけれど優しくて、あたたかい人なのだと分かっていた。

(でも……なんでしょう、時折すごく苦しそうなのです。話していると、突然、心がすっと離れていってしまうような気がするのです)

 目が見えない彼女は、顔色や仕草から判断することができぬ代わりに、雰囲気から相手の心情を察することに長けていた。その人が纏う気の微妙な変化が分かるのである。

(どこか、心を閉ざしてしまっているお方です。この前もお会いしたのに、私、エルダインさまのことが全然わかりません)

 どうして、少し話しただけの自分を海に連れて行ってくれると言ったのか。どうして、優しい人なのに自ら壁をつくっているのか。訊きたいことは、たくさんある。どんな食べ物が好きか、普段どんな風に暮らしているのか、そんな他愛ないことも訊いてみたい。

(やはり、目は見えませんし、人ともなかなか会えないので、エルダインさまが来てくださるのが嬉しいのです。ずっとひとりだったけれど、実は私も寂しがり屋だったのですね……)

 小さい頃から友達はいなかった。父と母と兄弟たち、そして数人の使用人たちしか、関わる人はいなかった。しかし父は仕事があるし、母は数年前に他界した。兄弟たちは成長して家を出た。使用人たちも、彼女に対して遠慮気味であるし、盲目の彼女をどう扱って良いか戸惑っていたようだ。子供ながらにそれを察し、なるべく気を遣わせぬよう、迷惑をかけぬよう生活しようとしてきた。となると、一人で部屋にいるしかなかったのだ。

(もしかして、私のような子供はご迷惑でしょうか……そういえば、エルダインさまにも好きな女性がいらっしゃるのでしょうか。頼もしいお方ですもの、きっと好かれますわ。かっこいいお方なのでしょうね……)

 ソフィアがこのように思いを馳せていたことを、グレーザーは勿論知らない。またソフィアも、グレーザーが己の姿に呪詛の言葉を吐きかけて鏡を叩き割ったことを知らない。


(人の世になど、降りてくるべきではなかった。もう俺は、竜人にも、人間にもなりきれぬ、中途半端な化け物だ)

 鱗を突き破って破片が刺さった拳に滲む血が、宵闇の中に赤く鮮やかだ。

(告げるべきだった。俺がグレーザーであると……竜人であると)

 名を偽ったとき、彼女に気を遣わせないよう、彼女を怖がらせないよう、と理由をつけた。が、本当はのではあるまいか。彼女が盲目なのを良いことに、己の醜い姿を彼女の前から抹殺しようとしたのではないか。

(浅ましい。所詮俺は、中身も醜い)

 握り締めた拳から血が滴る。

 グレーザーが密かに抱える自己嫌悪を、一体誰が知っていただろう。誰がその痛みを和らげてくれただろう。ソフィアの美しい姿は、対する己の醜さを映し出した。彼女に会うたび心は軋み、苦しさは増した。

 自分のような異形、人々から蔑まれ、忌み嫌われる異形が、彼女の傍にいて良いはずはないと。

(かと言って、今更放り出せもしない……)

 どうしようもない苛立ちがやるせなさに変わり、割れた鏡をぼんやりと見つめながら立ち尽くす。

(どうした、俺は。らしくもない)

 その横顔は虚ろで、少し痛そうだった。


 そして遂に、約束の期日になった。

 ベッドから抜け出し、カーテンを開けた。青天に、旭日は煌々と輝いている。

「……これはまた、良く晴れたものだ」

 皮肉っぽく呟く。午前中は練兵に行こうと思っていたが、副官に事情を話したところ、来なくていいと言われたので、仕方なく気を紛らわすように素振りをした。

 結局、昼になっても天気は崩れなかった。

 革鎧を身につけ、手袋をはめて全身を覆い、剣を帯びた。暑いだろうが仕方がない。──彼女に触れたとき、肌の感触で竜人と悟られぬためである。これならば、万が一に備えてだ、と誤魔化せる。下らぬ悪足掻きだな、とは思ったが、まだ真実を知られたくはない。彼女があれほど楽しみにしていた日だ。憂いなく楽しませてやりたかった。

(今日だけは、忘れろ。ソフィア嬢の騎士に、なっていい)

 己にそう言い聞かせ、グレーザーは馬を飛ばした。


「お迎えに上がった」

 門前で呼ばわると、暫くして、ユリアに付き添われたソフィアが姿を現した。

 なるべく華美でない、質素で動きやすい服装にしろと言ってあった。一目で令嬢と分かる娘を連れていると、ろくなことにならぬからである。彼女は白いワンピースと手袋、鍔付きの帽子を身につけている。庶民に近い格好ではあるが、やはり元が美しければ何を着ても美しいのだ、という妙な感慨を覚えた。

 日傘や水筒といったソフィアの荷物を受け取ろうと、馬を下りる。ユリアは明らかにグレーザーのことを良く思っていないようであり、不機嫌そうに荷物を手渡した。まだ彼に対する恐怖は克服できていないらしく、大分虚勢を張っているようであるが。

「……何かあったら、承知しませんからね」

 敵意に満ちた囁きに、彼は荷物を馬に括りつけながら軽く頷いた。

「失礼する」

 馬上から手を伸ばし、ソフィアをひょいと引き上げる。拍子抜けするほど軽かった。

「多少乗り心地が悪いかもしれないが、落ちることはない」

 できれば馬車の方が良かったのだろうが、目立つことこの上ないので、仕方なくラクーに相乗りすることにした。

 横乗鞍サイドサドルは着けてあった。そこに彼女を座らせ、自身はその後ろに乗る。右手で彼女を支え、左手で手綱を取った。

「それでは」

 グレーザーは馬腹を蹴った。

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