Episode 2
挨拶を忘れ、立ち尽くしかけたことは事実であった。
真っ直ぐに流れ落ちるプラチナの髪。大人びた、控えめで整った顔立ち、肌は透き通るようだ。
(確かに、美しい
美貌に目が眩んで平静を失うような彼ではなかったが、驚きはした。普段、女性の姿に何の感慨も抱かぬグレーザーであるが、その彼を感嘆せしめるほどである。噂もあながち間違ってはいなかったのだ。
だが、彼女の美しさは燦然とは輝かず、霞がかったように朧げであった。例えるならば
それでも彼女──ソフィアに向けられた彼の目に
「お加減は如何か、ソフィア嬢」
微かな心の揺れを自覚していたのかいないのか、或いは押し殺していたのか定かではないが、表面は微塵も揺らがない。
「お気遣いありがとうございます、エルダインさま。きちんとお迎えもできず、申し訳ございません」
ソフィアはそう言って微笑んだ。が、その笑みがあまりにも儚いので、随分と年齢に似つかわしくない笑い方をするものだ、と、グレーザーは面食らった。
「こちらこそ急な御挨拶をお詫び申し上げたい。御父君には常々お世話になっている」
「そうですか。……お掛けください。あの、どうぞ、堅苦しいごあいさつは結構ですので……お気兼ねなく」
「そうか。失礼する」
グレーザーは口下手であり、殊に女性に対しては物言いが突っ慳貪になる。騎士のくせに貴婦人への礼節がなっとらん、と時々咎められるのだが、ソフィアは外に出ることはほとんどなく、まともに自分の家以外の者と喋ったこともないのだろう。彼にとってはありがたいことに全く気にしていないようだった。
「今日は何のご用ですか?」
「ソフィア嬢が御兄弟のことを案じておられるというので、お話ししようかと」
「本当ですか? そうでした、蒼月騎士団の方ですものね」
彼女の顔がぱっと明るくなった。余程、兄弟のことが大切なのだろう。これからは休暇を増やして彼らをもう少し帰省させるべきだな、と思ったグレーザーであった。
(目も見えず邸に籠もりきりで、訪ねて来る人もないとなれば、親類が恋しくもなるか……)
このくらいの娘なら、本来はもっと違う楽しみがあって、もっと無邪気に笑って然るべきではないかと思わずにはいられない。彼女は微笑みこそすれ、少女らしからぬ憂いの影は消えず、余計にその笑みを哀しく見せたからである。
「……こんなところだろうか」
そんなことを考えながら一通り話し終え、部屋には雨音の沈黙が満ちた。
(他に話すこともない。帰ろうか……)
幾ら世間知らずの少女、子供に近いものだとしても一応女であって、接し方に戸惑ったグレーザーは早々に引き上げようと思い始めた。が、そうもいかなかった。
「あの、エルダインさま」
その名で呼ばれることにはやはり違和感がある。目こそ閉じているものの、こちらを向き、手を伸ばせば届く距離に少女が座っていることへの違和感の強烈さには到底及ばないが。普通の少女にそこまで近付けば、悲鳴を上げて逃げられ、憲兵を呼ばれるに違いない。
「どうされた?」
「いえ、兄弟とは全く関係ないことなのですが……」
言いかけて、彼女は俯き、恥じらうような素振りを見せた。そうしてみれば、年相応に幼くも見える。不思議なものだ。
ソフィアは結局、逡巡の後、躊躇いがちに言った。
「海は、どんなところですか」
「……海?」
流石のグレーザーでも、声に訝しさが滲む。彼女もそれを感じたのだろう、はにかんで繊細な左右の指を絡めた。口元には相変わらず寂しそうな笑みを湛えたままだ。寧ろ、痛々しさが増している。
「はい。行ったことがなくて……見ることもできませんので。でも、今更皆にこんなことを聞くのも、気恥ずかしくて。……あ、ユリアには、聞かれてしまいましたね」
そう言って笑うのだ。
それは何と哀しい憧憬であっただろうか。
「…………」
思わず言葉を失った。胸が苦しい。と同時に、何と答えれば良いものか、大いに悩ましい──元々能弁ではない上に、グレーザーの知る海の美しさを幾ら語ろうと、彼女にはそれを確かめる術がないのだから。
「……今度、お連れしようか」
上手い言葉が見つからず、彼はそう言っていた。
いつの間にか雲間から陽光が差していた。ソフィアの顔も晴れていた。
「お父さま!」
グレーザーが邸を辞してから、
「ソフィア。今日は調子がいいのか?」
「はい。……エルダインさまは、もうお帰りになられましたか?」
「……ああ、さっき帰ったよ」
そうだ、彼女にとってはグレーザーではなくエルダインなのだ、と思い起こす。
『名を偽ったが、グレーザーと名乗れば俺が竜人だと知れ、ソフィア嬢を怖がらせてしまうと思った故。できることならばエルダインで通して頂きたい』と、生真面目な顔で弁明し、帰っていった後であった。
「良い人だっただろう、エルダインは」
「はい、とても。海に連れて行ってくださると仰いました」
「海?」
娘の口から思わぬ言葉が飛び出したので、アーノルドは何かと思った。そのようなことはグレーザーから一言も聞いていない。
「お父さまが許してくださったら、ですけれど。ね、お父さま、だめ? 行ってもいいでしょう?」
顔を輝かせながら小さな子供のようにせがむソフィアもそうだが、それよりもグレーザーが彼女を誘ったことの方に驚いた。あの堅物のことである。しかし不器用なだけで中身は優男であるから、ソフィアが不憫になったのだろうか。頑として自ら女性と関わろうとしない彼なりの信条に
「構わないさ。連れて行ってもらいなさい」
グレーザーは十分信頼に足る貴紳である。娘を預けることには何の心配もない。
「やった! ありがとう、お父さま!」
許可を得て、ソフィアはそれは嬉しそうに笑った。あまり見ない喜びようだったので、アーノルドも口元が綻ぶ。後でグレーザーに礼を言っておこうと思った。
と同時に、ずっと彼女を育ててきた彼自身も見たことがないほどの明るい表情を、初対面のグレーザーがつくり出したと思うと、少し悔しいような気もした。
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