8 最悪だったあいつ
「落ち着いたか?」
「……うん」
一度深呼吸をして、持ってきた麦茶を飲む。
さっきよりは、だいぶ呼吸がしやすくなった。耳鳴りも治まったし、動悸も落ち着いた。それはきっとこいつの……高崎光のおかげだろう。
こいつは、何も聞かずに傍にいてくれた。それだけじゃなく、俺が苦しそうにしていると、背中をさすってくれたり、飲み物を差し出したりしてくれた。
本当に、お節介な奴。だから、これ以上付き合わすわけにはいかない。
「……よし! もう大丈夫! 行くか!」
「……は?」
「は? って何だよ。お前も迷ったし、その分急いで行かなきゃなんないんだよ。足首も、もう痛くねーし」
「……」
懐疑的な視線で俺を見つめる高崎光を無理やり押しのけて、虚勢を張る。
「ほら早く! 行こう……」
「──おいっ、待てよ! まだ座ってろ!!」
「っ!?」
立ち上がろうとしたら、腕を引かれ、ベンチに座らされた。
やっぱりこいつは、こいつなりに、俺のことを心配してくれている。でも……。
「……何だよもう。だから、大丈夫だって」
これは俺の問題だから、こいつを巻き込むわけにはいかない。平気なふりをしなければ。
「大丈夫、大丈夫って……もう聞き飽きたわ」
「……え?」
ふと、独り言なのか、俺に向けられたものなのか、そんな言葉が聞こえてきた。
「それ、独り言?」
「違う。お前の『大丈夫』とか『平気』は、もう信用出来ねぇってことだよ」
「……!!」
……信用出来ない、か。そう言われても仕方ないな。
しかし、何だ? こいつ、さっきまでと雰囲気が違う気が……。
「な、何でそう思うんだよ……」
「んな泣きそうな面で言われて『はい、そうですか』って素直に受け入れられると思うか?」
「……泣きそう、って、それは……」
あぁ、完全に、見抜かれている。
心が未だにぐちゃぐちゃなこと。俺が無理してるってこと。
……どうする? 話すか? 出会ってたった数時間のこいつに? そもそも、話したところで、こいつは受け止めてくれるのか? だけど……。
「お前が何抱えてんのかは知らねぇけどよ……我慢しなくていいんじゃねぇの?」
「我慢なんか……っ」
「笑いたいときは笑う、怒りたいときは怒る、それと同じように、泣きたいときは泣く。それが、人間として正しい姿だと、俺は思う」
高崎光の、ぶっきらぼうだけど優しい言葉が、胸に沁みる。胸に沁みて、痛い。自然と目の奥が熱くなる。
「まぁでも、お前が泣きそうってのは、あくまで俺の主観だよ。……でも、だからって、放置するわけにはいかねぇだろ」
……もう、もうやめてくれよ。俺に優しくするのは。
「…………っ、何言ってんだよさっきから……! もう俺行くからな……!」
「あ、おい、待てって!」
思わずその場を立ち去ろうとすると、手首を掴まれた。
それで、つい振り向いてしまい……。
「……やっぱり、泣いてんじゃねぇかよ。この強がり」
「……うっ、うるせぇ……」
ぐちゃぐちゃになった顔を、こいつに見られてしまった。
✴
「は~……マジで最悪だわ。よりによって、こいつの前で泣くとか……」
俺はあの後、ベンチに座り込んで、我を忘れて号泣した。で、今はかなり落ち着いたのだが……。
冷静になって、自分の行動を省みる。本当に、とんでもなく恥ずかしいことをしてしまった。人前で号泣すること自体恥なのに、その見られた相手が相手だ。
「最悪って、あんだけ泣いてたくせによく言えんな」
「う、うるせー! あのときは……その、俺が俺じゃなかったっていうか……」
「あーはいはい、わかったわかった」
「何だその言い方、ムカつく!」
やっぱ腹立つわこいつ。……でも、色々と、感謝してないこともない。
……やっぱり、こいつに話そう。今なら、落ち着いて話せそうだし。
「……あのさ、光」
「あ? 何だよ、改まって」
「少し、聞いてくれるかな。……俺のことについて」
「……!」
「今なら、平気だって思って……。お前だって、このままだとモヤモヤするだろ。だから……」
俺が言うと、光は暫し黙ったあと、真剣な眼差しと表情で答えた。
「……わかった。聞かせてくれ」
「……うん」
念の為、一回深呼吸をする。……よし、大丈夫そう。
「三年くらい前、家族みんなで海に行ったんだよ」
「唯奈の家族も一緒で……まぁ、唯奈の兄ちゃんは行けなかったけど、とにかく、楽しい時間に……なるはずだったんだ」
「なのに……そこで、俺が海に溺れちゃってさ」
「目が覚めたら何故か病院にいて、状況が何もわからなかった。でも……」
「俺の上の姉ちゃん……セイ姉が、俺の代わりになったってのは、わかった」
「一応、死にはしなかったけど、既に意識はなくなっていて……」
「今も、目覚めてない」
「……そんな感じ」
……よかった。落ち着いて話せた。直前に目いっぱい吐き出したからだろうか。
光の顔を見る。やっぱり、反応に困っている風だった。いきなりこんな話をされたら、戸惑うのも当然だろう。申し訳ないな……。
数秒間、沈黙が続いたあと、光が静かに口を開いた。
「……お前にとって、海はトラウマだったんだな。悪い。あの時、海でも見りゃいいなんて言っちまった」
「それは、別に謝ることじゃないよ。何も知らなかっただろ」
そんな会話の後、また俺たちを静寂が包んだ。さっきのそれよりも長いものだった。
この時間が、苦しい。俺のせいなのはわかってるけど、それにしたって、何か喋ってくれても良いだろ。いや、こいつが喋らないなら、俺が喋れば良いだけの話だ。なのに、次の話題へ紡ぐ言葉が何も思い浮かばなかった。
そして、この重苦しい沈黙を破ったのは、またしても光だった。
「初夏」
「な、何?」
「何つったらいいかわかんねぇけど、自分ばっか責めなくていいんだからな」
「……!」
「誰もお前のせいだなんて思ってねぇと思うぞ。まぁお前も、本当はわかってんだろ」
「……」
光の言う通りだ。頭じゃわかってる。でも、やっぱり、そう思わずにはいられない。あのとき、俺が溺れていなければ、セイ姉は今も元気に過ごしていたはずだったんだから。
……いつまでもこんなんじゃ、駄目だよな。変わろう。変わらなきゃ。
海が視界に入っても、取り乱さないように。いつかセイ姉が目を覚ましたとき、胸張って、大好きだって言えるように。
「お前の姉貴、目覚めてほしいな」
「──うん」
何故かはよくわからないが、燻った心はどこか、晴れ晴れとしていた。
✴
「……よし! しみったれた話は終わり! つか、めっちゃ時間経ってんじゃん、早く行こうぜ」
「わーってるよ。すっかり元気だな」
「まーな。でもそれは……」
お前のおかげだよ、と言おうとして、やめた。それよりも、先に言うべきことを思い出したからだ。
「……何だよ?」
「いや、なんでもない。それよりさ、初めて会ったとき、チビとか、散々言ってごめん。嫌な気持ちになったろ」
「っ、い、いや、俺の方こそ、ガキとか言って、悪かった。その、大人気なかったっつーか……」
謝ると、光は何故か目を泳がせていた。あからさまに動揺している。いや、今動揺する要素あったか?
「何で、んな焦ってんだよ……」
「し、仕方ねぇだろ! お前が素直に謝るとか、驚くに決まってんだろ」
「はぁー? 何だそれ……」
本当におかしい。でも……何でだろう、初めはこいつのことが嫌いだったのに、今は、こいつのことも、こいつと過ごす時間も、嫌いじゃない。
何だか、不思議と笑いが込み上げてくる。
「……ふふっ、ははっ」
「!」
我慢出来ず笑い出すと、光が驚いた様子でこちらを見ていた。
「……ん? 何見てんだよ」
「……いや、お前の笑顔、初めて見るなって思って」
「そりゃそうだろ。お前の前で笑うの初めてだし」
まさか、こいつの前で笑うなんてな。少し前は、そんなこと微塵も想像してなかった。
「しかめっ面ばっかしてねぇで、ずっと笑ってりゃいいのに。可愛い顔してんだから」
「あーはいはい。わかっ…………はぁ!?」
かわ……え? 今こいつ、俺に可愛いって言った??
「えっ、何、何言ってんだよお前!! ば、馬鹿じゃねーの!? かわ、可愛いとか……!!」
「急にでけぇ声出すなよ……。そう思ったから、言っただけだっつの」
「そう思ったからって……!」
つーか、何で俺、こんなに動揺してんだよ。こいつに可愛いとか言われたところで、別に、どうってことないはずだろ……。
なのにこんな……まるで俺がこいつのこと……す、好き、みたいじゃん……!
何か顔が熱い気もするけど……それも、気のせいだろう。うん。
「ほ、ほら! さっさと行くぞ! えっと、ここからは……うあっ!?」
さっさと切り替えて地図アプリを開こうとすると、突如、スマホが鳴り出した。どうやら、光の友達らしき人物からの電話のようだ。びっくりした……。
「電話か」
「う、うん」
「悪い、ちょっと貸せ」
光にスマホを渡すと、すぐさま電話に出た。
「もしもし? 何だよ、いきなり。何の用…………え? …………それ、雫先生とか、他の先生に言ったか? …………そうか。わかった、俺も協力する。…………そうやって、自分ばっか責めんな。お前のせいじゃねぇ。わかったか? …………よし、急ぐぞ」
……何だか、物々しい雰囲気だったな。電話の向こう側で、何かあったのだろうか。
光が電話を切ったところで、尋ねる。
「な、何の電話だったの?」
「……大変な事態になった」
「えっ……?」
光の顔つきも、険しいものだった。
直後、光の口から飛び出した言葉に、俺は頭が真っ白になった。
「お前のダチ……美玲がいなくなった」
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