絶筆

上善如水

絶筆

『諸国放浪図』。この絵こそ、男の絶筆であると言われている。


 具体的な場所には諸説あるが、少なくともその名前については疑う余地もあるまい。名を正雪しょうせつ。播磨国の法性寺で黄海和尚なる人物に拾われたとあるが、ことの信憑は定かでない。


 彼が法性寺に拾われたのは齢六つの時だったと言われている。意外にもこの頃の正雪は絵に関して特に逸話を残していない。だが、彼の才覚はこの頃から遺憾なく発揮されていたようだ。


 残された話から読み取れるのは、彼の観察眼の鋭さである。


 こんな逸話がある。ある秋の日、和尚が出かけている間に強盗の一団が法性寺を襲い、金目の物を奪って遁走した。幸いにも怪我人は出なかったが、寺にあった財産はこれからの冬を乗り切るためにはどうしても必要な用脚だった。


 だが、強盗たちは全身を隠していてまるで姿がわからない。正雪は彼らの身にまとっていた布がそれほど汚れていなかったから、山賊や野党のたぐいでは無いのではないか、と和尚に話した。和尚はそんな状況で野党の姿を観察していた正雪の胆力に関心したが、それだけならば話はこれまでである。


 その後、旦那に念仏をあげるため、和尚が街に出向いたときのことだった。ちょうどこのとき和尚に付いていった正雪は、なんと街を歩く一人の男を指差して「この者の歩き方は、あの日の強盗と同じです」と言い放った。強盗と呼ばれて面白くない男は怒ったが、その男の家を調べると、寺から盗まれた金銀があるではないか。男は無事にお縄となり、和尚は正雪の類まれな観察眼にたいそう感心した。


 そんな正雪が絵を描きはじめたのは、齢十二になろうかという時だったという。この時の絵が、かの有名な『鶴声松杉図かくせいしょうさんず』で、これをまだ幼い少年が描いたというのだから末恐ろしい。彼は法性寺から出るまでのあと三年の間に百を超える水墨画を描いたと言うが、その殆どは法性寺とともに焼失してしまっている。


 この『鶴声松杉図かくせいしょうさんず』は松杉の森に佇む一羽の鶴を描いた傑作であり、当時の水墨画とは一線を画した表現に驚く。首を持ち上げ、嘴を天に向ける鶴の姿からはまさに「鶴声」が聞こえるようで、あたりに描かれた松と杉の木の迫力と言えば、まるで実物をそのまま写してきたようである。あの葛飾北斎も自身の回顧録に正雪の名を挙げており、その写実的な技法はまた違う形で発展していくことになる。


 正雪の描く絵の噂は、またたく間に広まった。各地の名だたる人物が彼に絵を描かせようとして、そして正雪は彼らの期待に寸分の違いなく答え続けた。これらが皆もよく知る、巨匠正雪の水墨画である。


 今残っている正雪の作品はせいぜいがこの時期――五年程度――の間の作品に過ぎず、その半生は謎に満ちている。


 大抵、こういった人物には絵にまつわる逸話が残されているものだが、どうも正雪にそういった逸話は殆どない。むしろ絵に執着がなかったとすら言えるかもしれない。


 これを裏付けるのが『春秋問答集』に残された正雪の問答で、当時三河で絵を描いていた正雪に、春秋問答集の編者が訪ねた際の問答らしい。これによると、当時の正雪はまだ二十代の若者であったが、そうとは思えぬ老成した雰囲気の人物だったという。編者が「絵を描くとは何か」と質問すれば、正雪は「修行だ」と答えたという。


 これを芸は常日頃磨くものであると我々は捉えたくなるが、どうもこれは違うらしい。正雪が育った播磨国の法性寺は臨済宗であり、厳しい修行によって心を治め、大悟を得るという思想がある。すなわち、彼にとって絵を描くことは、心を無にするための修行だったようなのだ。


 話題を戻すとしよう。


 この様相が大きく変わるのが、この時期に残る一枚の山水画だ。『諸国放浪図』と添えられた一枚で、正雪の落款があるが、未だに真贋つかない作品である。というのも、これは今までの正雪の作風と打って変わって、この山水画はおよそ写実的とは言えないからだ。


 脈絡のない筆筋で描かれた荒々しい画面に、ぽつんと描かれた人間の姿。だが、あまりの作風の違いに、未だに正雪の作であるかどうか、議論が尽きない。


 しかし、これが本当に正雪の作らしいと思わせる逸話が残っている。当時各地を転々としながら絵を描いていた正雪は、ある日野盗に襲われ路銀と食料を失ってしまった。これは当時の上野こうずけ国に記録が残っていて、どうやら確からしい。


 飢えに苦しんだ正雪を助けたのは、一人の老人だった。老人は盲目だったが、正雪に食べるものを分け与えたという。正雪は礼をしようとしたが、しかし正雪にできるのは絵を描くことだけだ。目の見えぬ老人のために絵を描いたところで、それは無用の長物に過ぎない。


 正雪は仕方なく、自らの諸国放浪の旅を老人に語って聞かせた。目が見えず、旅をすることの出来ない老人はそれをたいそう喜び、自分も絵が描いてみたいと正雪に言った。そうして正雪から紙と筆を借り、見えないながらに、この話を絵に描いたのだった。


 無論、その絵は絵と言うにはあまりにも節操のない筆の跡だ。正雪はしかし、これをいたく気に入り、生涯それを懐に入れて、ことあるごとにそれを絶賛していたのだという。曰く、「自由自在、かくあるべし哉」と。


 正雪は、目の見えぬ老人が描いた整合性のとれぬ線の集合を見て、なにを思っただろうか。確かに、集中して、ものを観察し、それを表現しようとするとき、人は無心になるだろう。だが、それも結局は目や視覚というものに囚われたものに過ぎない。


 正雪がなにを思ったかは分からないが、少なくともこれ以降、正雪の名前は歴史の表舞台から姿を消す。故に『諸国放浪図』は、正雪の絶筆と言われている。


 本来であれば正雪の逸話はこれで終わりなのだが、一つ、追記したい話がある。


 東北の民間に伝わる昔話だ。


 ちょうどこの時期にひどい飢饉があった。人は皆飢えに苦しみながら死んでいき、道端には骨と皮ばかりになった人間の死体が、弔われることなく積み重なっていったという。そんな村に一人の行脚僧が現れ、食料を人々に分け与えた。


 この僧侶は毎日のように食べ物を持ってきてくれたが、人々は僧侶が毎日のようにやせ細っていくのを見て、彼は自分が食べる分すらも分け与えているのではないかと不安がった。それを聞けば僧侶は、では、紙と墨を分けてくれないか、と言ったという。


 一年が過ぎ、無事に実りの季節となった。その僧侶は村を訪れなくなったが、恩義を感じた村人たちはその僧侶にどうしても礼がしたく、僧侶を探した。


 すると、村外れの洞穴で、彼がひとり孤独に死んでいるのが見つかった。


 男の周りには使い古された一本の筆と、何枚ものめちゃくちゃな絵が散乱していた。村人は絵をきわめ、描いたものがたちどころに実物となる仙人の話を思い出し、さてはこの男、筆のきわみに至った高僧なのではないか、と考えた。辺りに散らばっている絵は、素人が描いたようなよれた線のものばかりだったが、紙の真ん中で死んでいる男は一枚の絵を大事に抱えている。


 ここで村人に悪い考えが浮かんだ。それほどの人物が最後まで大事に抱えていた絵なのだから、さぞや素晴らしい絵に違いない。受けた恩義を忘れて、村人はその絵を死体の手から剥ぎ取った。


 しかし、その手にあったのは、周りの落書きと何ら変わらない、節操のない筆の跡だったという。


 それ以来、その村ではその洞穴に「画仙絶筆」と刻まれた小さな碑を祀っている。

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