第2話

朝6時50分、板橋区役所前。

青白い朝の空気の中、ツアー参加者は列をつくってバスに乗るのを待っており、美貴子もその列に並んでいたら、ふと視線を感じて顔を上げた。


美貴子が最初その男を見たとき、この人はきっと参加者ではないだろうなと思った。


このツアーは板橋区と茨城県が共催で企画しており、バスの前の歩道には職員らしき人々が所在なげに立っていたから、この男も職員の一人なのだろうと思ったのだった。


その男――年齢は美貴子と同じぐらいの20代後半で、濡れたような黒髪に鋭い眼差しをした男で、大きな黒いバッグを肩から提げていた。ナイフで彫ったような整った顔立ちはいまどきの俳優を思わせたが、浮ついた雰囲気はなく、むしろ取っつきにくいムードさえ漂わせていた。これから稲刈りをしに行くという雰囲気ではなく、カップルや友達同士で参加する人たちの中で浮いていた。区の広報誌のカメラマンだろうかと美貴子はあたりをつけた。


だが、男が自分をじっと見つめたかと思うと歩み寄ってきたのを見て、美貴子は全てを悟った。幼馴染みの透の行動パターンはわかっている。恋のキューピッドを勝手に始めたのに違いない。


「美貴子さんですか」

その声は、低く柔らかいハスキーボイスだった。

「はい。あなたは……」

「私は花岡琢磨はなおかたくまといいます。マスターから今日の旅行を譲ってもらったのですが、私が同行者でもよろしいですか」

「え、ええ」

まさか追い返すわけにもいかないと美貴子は考え、とっさにOKしてしまったが、正直なところ、今日1日この見知らぬ人と稲を刈ったり栗を拾ったりするのだと思うと、どうも居心地が悪いような気がした。顔立ちが整っているのが、かえって苦手に思えた。変に意識してしまいそうだ。



板橋区の職員が手をメガホンがわりにして、声を張り上げた。

「皆さん、急いでバスに乗ってもらえますか。これより区長からご挨拶があるのですが、あまり時間がありませんので」

「課長、参加者の点呼は……」

「いい、もう時間がない。皆さん、済みませんね、どうぞ乗ってください」

職員にせかされて、自己紹介もそこそこに美貴子と琢磨はともにバスに乗り込んだ。


おっとりした美貴子は行動も遅れ気味で、バスには一番最後に乗り込むこととなった。広い車内は40席ほどあったが、その半分しか埋まっていない。みな2人1組でそれぞれ好きなシートに座っていて、ただ一人、琢磨だけがバスの中央あたりの通路に立って美貴子を待っていた。

琢磨は美貴子に窓側の席を譲ると、通路側の座席に腰をおろした。


美貴子が何か話しかけたほうが良いだろうかと思い、頭の中で話題を探していたら、バスに板橋区長が乗り込んできた。


職員がマイクを渡すと、区長はにこやかにスピーチを始めた。

「えー、区民の皆様、おはようございます。本日は茨城の体験ツアーに御参加いただきまして……。


……つくばみらい市には板橋という地名があり……。


……今回のようなご縁で……交流事業を……」



長い挨拶を聞きながら、美貴子は琢磨に話しかけた。

「あの、花岡さんも板橋区民なんですよね?」

「琢磨でいいですよ。ええ、板橋区民です」

美貴子はそれだけで琢磨に少しだけ親近感を抱いた。


「板橋ってあんまり知名度が高くないですよね」

今度は琢磨が話を振ってきたので美貴子は頷いた。

「そうですね。港区に住む知人なんて、板橋ってどこにあるの? なんて言いますもの」

同じ都民からも知られていない存在、それが板橋区である。

「私も同じ事を言われたことがありますよ。どうしてでしょうね、こんなに良いところなのに。なぜマイナーなのかわからない」

「本当にそうです。わさビーフも湖池屋もあるのに……」



「……では、皆様、どうぞ茨城を満喫してきてください」


区長が降りていき、ようやくバスは茨城に向かって出発した。

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