見知らぬイケメンと行く「板橋区→茨城バスツアー」殺人事件
ゴオルド
第1話
お別れするとき、「あなたに会えて良かった」と言われるのが嫌いだ。
私はこれからあなたへの感情を消さないといけないのに、あなたは私を過去のものとして受け止めている。だから、会えて良かったなんて簡単に言えてしまう。
先々週に別れた彼もそうだった。
だから、鈴村美貴子は「あなたに会えて良かった」と言われるのが嫌いなのだ。それは別れの言葉でしかないから。
――
東京都板橋区は、23区のなかでもわりとマイナーな区である。しかし、電車一本で池袋に出て行けるという利便性のため、ホームタウンとして人気が高い。それはつまり板橋は池袋のオマケみたいなものだと言っているようなものではないかと、板橋生まれで板橋育ちの美貴子はどうも釈然としない。
美貴子は地元愛が強い。家族も友人も板橋だし、職場も板橋、買い物だって板橋で済ませる。流行の物を手に入れたければ池袋や渋谷に出ていかなければならないが、美貴子は20代でありながら流行にはあまり興味がなかった。だから滅多に板橋から出ていかない。
ただ、旅行は好きなたちで、美貴子が区から出て行くときは旅行鞄と一緒だと決まっていた。おっとりした性格だが、好奇心は強く、休日はいろんな場所へ出かけていった。そして、板橋へ戻ってきて、やっぱり板橋はいいなあと思うのだった。
ある秋の夜、上板橋駅の近く、有名な饅頭屋とは駅を挟んで反対側にあるバーのカウンター席で、美貴子はため息をついた。
「失恋して最初の旅行が、茨城で稲刈り体験ツアーになるなんて思ってもみなかったわ」
「いいじゃん、失恋のモヤモヤを稲刈りで解消してこいよ」
スキンヘッドの20代後半の男、美貴子の幼馴染みの透が、カウンターの奥で地ビールをグラスに注いで、美貴子に差し出した。透はこの店のマスターであり、オーナーでもあった。
「太陽の下で体を動かしたらスッキリしそうじゃん」
美貴子は差し出された地ビールに口をつけた。飲みごたえのあるどっしりした苦みと香ばしい風味に、思わず頬が緩んだ。それは板橋区内のブルワリーで作られたビールだった。半分ほど飲んだところで、グラスを置いた。
「でも、困ったことに、これって2人ペアで行かないといけないの」
美貴子はカウンターテーブルの上に置いたハガキを再び手にとって、読み上げた。
「板橋区民限定! 板橋区と茨城県の交流バスツアー当選のお知らせ。栗拾いと稲刈り体験が無料でできます。牛久大仏もご見学いただけます。お二人1組でいらっしゃってください、ですって」
ハガキには、このほかにも何時にどこに行くとか、行先の住所まで詳しく載っていた。役所主催の旅行だからだろうか、非常に几帳面に事細かく書いてあった。
このバスツアーに申し込んだとき、美貴子はまだ彼と別れていなかった。別れの予兆のようなものはあったけれど……。
「というわけで、透、一緒に茨城に来てくれない?」
「……うーん、その集合時間って何時?」
「朝7時」
「早っ、無理! つーか何でそんな早いわけよ?」
「バスツアーの集合時間なんてこれぐらいが普通じゃないかしら」
「こっちは朝7時なんて寝てる時間だってのに」
「そう、よね……」
無理をさせるのも気の毒に思えて、美貴子はもうそれ以上頼めなかった。
実は透に頼む前に、女友達を誘ってみた。だが稲刈りだと言うと断られた。親しい異性の友人はおらず、もう美貴子が頼めるのは透しかいなかったが、夜に働いている透を昼に連れ回すのはやはり酷だろう。
今回は縁がなかったのだ。
そう美貴子が自分に言い聞かせていると、透はため息をついた。
「7時に起きるとか無理すぎる。だから徹夜していくから、バスの中で寝ることにするわ」
「来てくれるの……?」
「ま、たまにはいいっしょ」
しかし、バスツアー当日、待ち合わせ場所に透は現われなかった。
見知らぬ男が、「マスターのかわりに来ました」と言って、美貴子の前に現われたのだった。
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