クミンは初恋のかおり
カレーイサン
第1章 チキンな少年とドライな少女~クールなヒロインを巡って~
第1話 チキンな純情少年の隣には、花の様にキラキラした少女がいる。
瞼を閉じる。
……美味しいわ。とても美味しいけど。
瞼の裏に映るはあの日見た大切な女の子の笑顔。
少女は、不安そうな区長とは裏腹に蕩けるような笑顔を浮かべたまま、続けた。
……私、いまとてもだらしない顔をしている気がするの。
何言ってんだよ、とてもいい笑顔で食ってくれてるぞ。俺もうれしいくらいに、な。
そういうと、彼女の笑顔が少し紅くなった。
……バカ。右近のカレーが美味しすぎるせいなんだから。こんなに美味しいカレー、初めてだったから。
窓のそばのカーテンが緩やかに波打っていた。
初夏の到来を感じさせる熱いそよ風が部室の窓の外から時折吹いてきては、室内に漂う異国の情熱的な香りを運び去っていく。
四月の終わりの昼下がりともなれば、さすがに窓を開けていても汗ばむ。ガスコンロを使っての調理中ともなれば、なおさらだ。
現に鍋の前に立つ大柄な少年の額には汗粒が光っている。
彼はそれが大切な鍋の中に落ちないよう、先ほどから手元のハンカチで何度も拭っていた。
グツグツと穏やかに、それでも確かな熱がフライパンの底から表面に向かって伝わっている。
湯気に混じるのは部屋中に充満する刺激的な香り。
それはほとんどの日本人が知っている「カレーの匂い」だ。
「よし……こんなもんかな」
その穏やかに泡立つ鍋の表面から小さなスプーンを使って液体をすくい取り、味見を済ませた少年が満足気に頷いた。
高校一年生にしてがっしりとした体格の長身の少年は、情熱的なまでに真剣な表情をしている。
よほど汗が気になるのか、彼は鍋から身を逸らし気味に、ハンカチで額を拭う。
長い前髪を描き上げて露わになった大きな瞳からは、年相応のあどけなさも感じられた。
「しっかし暑くなってきたなあ……」
汗のにじむ首筋。
それを今度は肩にかけたタオルで丁寧にふき取り、最後にもう一度手にしたハンカチで頬を拭うのは、もはや彼のルーティンと言ってもいい。
少年、浅黄右近(あさぎうこん)が香風(こうふう)学園高等部に入学してから約一か月。
この放課後のカレー作りは、彼がその間ほぼ毎日繰り返してきた日常に過ぎなかった。
一度火を止め、右近は静かに両目を閉じた。
この部室で、時には自宅で、右近は中学生の頃から何度もカレーを作り続けている。
そして、この完成前の瞑想は右近がカレーを作り始めてから欠かさず行ってきたのもまた、彼のルーティンの一部だった。
脳裏に想像するのは、右近にとって大切な少女……青山玖明(あおやまくみん)の笑顔。
それが冒頭のシーンだ。
彼女の笑顔を想像して、ようやく右近のカレーは完成する。
「――お、右近くん、今日もいい仕上がりだね」
家庭科部室の中で、右近とは少し離れたテーブルから声がかかった。
右近がゆっくりと目を開くと、脳裏に思い浮かべていた少女の笑顔が視界に飛び込んできた。
だけどそれは錯覚。
右近自身すぐにそれを理解して、改めて声の主へと視線を返す。
声の主はリズムよく野菜を刻んでいた少女で、右近の良く知る少女だった。
すらりと引き締まった身体に日焼け跡が残る手を止め、右近を見つめている。
室内には右近とその少女の二人だけ。
「ふふふ、右近くんはいつもカレーを作った後は寝ぼけ眼だね」
悪戯っぽい微笑みを浮かべた目の前の少女、青山華憧(あおやまかしょう)はその苗字通り玖明の二学年上の姉で、妹同じく右近にとっては幼馴染だった。
この二人を間違えちまうなんてな……。
ほんの少し、彼女に分からないように小さく首を振った右近は、人懐っこい笑みを浮かべた。
「ああ、完成だ。悪ぃな、ハナねぇ。集中し過ぎてたみたいだ」
「気にしないで! 火と包丁を使ってる時こそ慎重に集中して。調理中のケガだけは絶対避けなきゃいけないからね」
「確かに。ハナねぇに迷惑かかっちまうもんな」
とろ火になっていたコンロの火を切った右近が苦笑する。妹の青山玖明と姉の青山華憧。二人の姉妹は顔立ちこそどこか似ているが、雰囲気や性格は全く似ていない。
「うーん……」
華憧は何を思ったのかムム、としかめっ面を無理やり作ったみたいな表情で右近に詰め寄ってきた。
「今の、あたし的にはゼロ点かなぁ……」
「え、な、何のことだ?」
というか近い近い!
幼い頃からの付き合いとはいえ一般的な高校生男女にあるまじき距離感に、右近はドギマギして声が裏返る。
ふわりとナチュラルに緩いウェーブがかかった柔らかそうなセミロングヘア。
右近の頬に触れそうなその毛先からは何とも言えない女の子的ないい匂い。
中学時代ソフトボールに打ち込んでいた名残が感じられる健康的な肌色の小さな顔は、上目遣いに右近を見上げている。
確かに華憧は身長も女子の中では比較的高く、スラっとして見える。
聞くところによると男子だけでなく女子からも慕われているそうだ。
だけど、エプロンの隙間から無防備にのぞく胸元には深い谷間が見て取れる。
華憧は幼い頃から右近のことを弟のように思っている様子だが、さすがにこうも「女」を見せられては鈍感な右近でも意識せざるを得ないのが本音だ。
「もう、右近くんってば、堅物だなあ……。そんなに怖がられると、あたしも凹むよぉ」
「あ、いや、そういうんじゃなくってだな……」
一転いじけ始める華憧に、右近は慌ててフォローの言葉を探す。
右近だって華憧が本気で右近を責めようとする気がなかったのは分かっている。
「ほら、あれだよな! 最近ハナねぇの料理手伝えてないから、その埋め合わせだよな!」
「違うよ! ってかあたしそんな構ってちゃんじゃないし!」
今度は本気で驚かれた。右近にとって女心はスパイスの相性より複雑である。
「そうじゃなくってさ。右近くん、あたしの迷惑とかそういうの気にしなくていいの。右近くんのおかげであたしは……この部は助かってるんだからさ。それより自分の身を大切にしてってことだよ」
「ああ、そういうことか……。確かに、この部、俺たちが入らなければ秋で廃部が決まってたんだっけ」
現在、香風学園料理部の上級生は三年生の華憧一人のみ。
つまり、右近たち一年生が二人以上入部しなければ、秋に華憧が引退すると同時の廃部が決まるところだった。
「でも、それ言うなら名義だけでも貸してくれた玖明のおかげでもあるし、そもそも俺がいなくてもハナねぇは最後まで活動できただろ」
「あのねぇ……」
思いついたように言葉を返した右近に、華憧が心底あきれたようにため息を吐いて当たり前の事実を言った。
「一人で料理して一人で食べる部活なんてつまらないに決まってるでしょ? 現に右近くんが入学するまでは、あたし去年の部長に泣きついてぎりぎりまで顔出してもらってたんだからね!」
「そ、そうか……」
「もう、右近くんってば、料理の腕はメキメキ伸ばしてるのに、そういう抜けたところは変わらないよねぇ」
「悪ぃ悪ぃ。どうにもカレー完成させた後は頭がぼんやりすることが多くてな」
「まあ、そういうことにしとくよ。……はい、これはあたしの分のご飯」
口を動かしながらも華憧はテキパキと炊けたばかりの白米を皿に盛りつけていく。
その様はさながら器量よしの新妻のようだ。
一皿目は彼女の言葉通り、少し少なめの盛り方をした華憧の皿。
二皿目はその二倍近い量の盛り方をした右近の皿。
昼ご飯を学食で済ませているとはいえ、育ち盛りの男子高校生にとってはこれでも「間食」程度である。
「あ、あとちょっと待っててね」
そこで何か思い出したように華憧が先ほどまで切っていた野菜のもとに戻り、それをごま油で炒め始める。手際よく少量の塩を混ぜ、強火で一分ほど。ちょうど右近がカレーを盛り付け終えた二つの皿の中央に、緑色のそれらを丁寧にトッピングした。
「んー、ごま油のいい匂いだな。今日の副菜は一段と中華チックだが、これは何の野菜だ?」
「豆苗だよ。前に中華料理屋で食べて美味しかったから真似してみたんだ。もちろん、カレーに合うように味付けは抑え目にしてるけどね」
「へえ、これが豆苗かあ。ハナねぇらしいな。面白い」
右近の言う通り華憧は料理全般得意としているが、一番の得意ジャンルは中華料理だった。
中学生の頃から部活帰りによく寄っていた大衆中華の味が好きで、それに影響されたと以前右近にも話している。
この豆苗も、ひょっとしたらその店のアイディアかもしれないな……。
そう考える右近だったが、彼は華憧の味覚が優れていることも知っている。
華憧が一度店で食べた料理を簡単に再現してみせるのは、もはや右近にとっても「常識」となっていた。
「で、今日のカレーは?」
だけど、華憧は今日の自分の役割が「脇役」であることを理解している。
今日の主役。
それは右近が作る十八番の料理、「チキンカレー」なのだから。
「今日はスタータースパイスの数を絞って、仕上げにとあるパウダースパイスを加えることにしてみた。これで風味がまとまった気はするんだが、はてさて、その判断はハナねぇに委ねるぜ」
最後に皿の盛り付けをきれいに整えた右近が、華憧の皿を運んできてくれる。
「さあ、熱情チキンレッド七号! 心して味わってくれ!」
「わー、彩りも鮮やかでいい香り!」
ハイテンションなやり取りはもはやお約束。
ちなみに彩りを一手で華やかに見せている陰の実力者、豆苗炒めの作り手が他ならぬ華憧であることに触れないのもお約束だ。
「そういや唐子(からこ)のおっさんはどうしたんだ?」
「あー、唐子先生ねぇ……」
続いて自身の皿を運んできた右近の問いに、華憧が困ったような笑みを浮かべた。
「『今日は女子高生の手料理しか食べる気分にならねぇ』ってさ」
「ったく、あのスケベオヤジが……」
右近もあきれたように肩をすくめるが、いつものこと過ぎてもはや怒る気力にもならない。
料理部顧問の唐子仁(からこじん)三十七歳独身とは、そういう「だらしない男」である。
最初は驚いていた右近だが入部一か月足らずにして、こうしてもう何も感じなくなってきたのだから、慣れというのは恐ろしい。
「まあ、おかげであたしの豆苗食べ損ねてるのは自業自得だよね」
「まったくだ。ハナねぇがいつも違った副菜用意してくれるから、俺もチキンカレーの作り甲斐があるぜ」
「ふふふ、弟子のアシストも師匠のお仕事だからね。……いただきます」
「おう、俺も食うかな」
和やかな会話ムードも、二人がスプーンを持つと同時に緊迫し始める。
華憧は穏やかで明るい性格だが、右近の料理に対しては常に真摯なコメントをくれている。
だけど、右近はこの食事シーンの緊迫した雰囲気が、好きだった。
「ん……この香り」
スプーンでスープ状のカレーをすくった華憧がスプーンを口に運ぶ寸前、手を止めてわずかに目を見開く。
……さすがはハナねぇ。
内心で驚きつつも自信ありげに笑みを浮かべた右近が、「シナモンがいつもより効いてるだろ?」と言った。
「うん……。スタータースパイスの種類を減らしたって言ってたよね」
「おう、最近のはどうも香りが散りすぎてる気がしてな。色々試した結果、軸になるスパイスの特性を生かし切れていないことに気付いたんだ」
カレーにおけるスタータースパイスとは、調理の最初に鍋で油とともに炒めるホールスパイスのことである。
唐辛子に代表される多くのスパイスはこうして油で熱することで香りを引き立たせることができるだけでなく、油に香りや風味を移すことができる。つまり、多めの油と炒めることで、鍋全体にスパイスの香りを届かせることができるのだ。
華憧がそのままスプーンを口に運び、無言で咀嚼するのを見届け、右近もまた自分が作ったカレーを改めて口にする。
鍋の上で味見としてルウだけ味わうのと、皿に盛ってご飯と一緒に食べるのはまた少し違った味わいになるのもカレーの不思議なところだ。
「ほお……」
一口、カレーを口に運び、右近は新たな味に頬を緩める。
華憧の言うように、まず広がるのはシナモンの甘く豊かな香り。
その後に続く玉ねぎ由来のものとトマト由来のものも含めて甘味が両翼を広げたところで、今度はトマトやソースの酸味が口の中をさわやかに駆け抜ける。
そして、最後にやってくるのはレッドチリの刺々しい辛みだ。
甘味・酸味・辛味のまさしく「三味一体」を体現した旨味。
本来ならこれだけでも完結した美味しさを導き出せている。
だけど、右近のカレーはそれだけでは満足しない。
「やっぱり右近くんのカレーって、どこか大人っぽい風味があって美味しいよぉ」
気付けばほとんど皿を空にした華憧が頬を蕩けさせていた。
華憧の言う「大人っぽい香り」の正体は、クローブというスパイスの香りなのだが、これは最近雑誌によく載っている有名なカレー屋のチキンカレーの公開レシピを参考に、右近が徹底して続けているレシピの軸だった。
「でも、今日のカレーはその中にもなんか懐かしさというか、『カレーの香り』が感じられてとても好きだな、あたしは」
「お、分かるか!」
名残惜しそうに空の自分の皿を見下ろす華憧に、右近がグイと顔を近づけた。
吐息と吐息が触れ合う距離も、スパイスの香りが打ち消してくれるからノープロブレムとばかりの勢いだ。
「う、うん。なんかうまく言えないけど、右近くんの熱と勢いを感じるなぁって」
先ほどとは反対に、今度は華憧がさりげなく椅子を引いて距離を取る。
趣味のカレーに走ると周りが見えないのは右近らしい。
そんな気持ちで笑みを浮かべた華憧だが、当然右近は華憧の内心には気付かない。
「仕上げのスパイスを一つ加えたって言っただろ。これカスリメティって言ってな。これを一つまみ振るだけでカレーっぽい香りが格段に……あ……」
「どうしたの?」
急に早口での解説をやめてしまった右近に、華憧が首を傾げる。
「……素手で触ると手がカレー臭くなって仕方ねえな、このスパイス」
手をひらひらさせながら、右近は顔をしかめた。
何気ないやり取りに、何気なく見える料理部のこぢんまりとした活動。
この部室での日常だけを切り取って眺める者がいたとしたら、きっとこの風景はそんな何の変哲もない学生生活の一部にしか見えないだろう。
だけど、華憧は……彼女だけは右近の気持ちを理解しているつもりだ。
彼がどれだけの想いを、このカレーに毎回込めているのかを。
「……じゃ、自分の洗い物してあたしは家に帰るね」
「おう、俺はもう少しここで待ってるよ」
当たり前のように答える彼が、少しだけ憎い。
そうして待っていてもらえる彼女がとても羨ましい。
洗い物を手早く済ませた華憧は、炊飯器の傍に用意されたもう一つの空の皿へ視線を一瞬やって、すぐに視線を戻す。
コンロの上の鍋からは、まだ温かな湯気が立ち上っている。
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