第94話

 そして、地区予選当日の朝、楓と紅葉は九条邸にやって来ました。三人が緊張した面持ちで庭に並んでいる姿を見て、楓は苦笑しました。


「俺たちは、君らの電車デビューのために呼びつけられたんだな。」


「はい。申し訳ございません。……よろしくお願いいたします。」


 浩太郎が出てきており、少し離れた場所からしゃがんだ姿勢で手招きをしていました。楓が自分を指さしてみると首を横に振ります。

 すると、呼ばれたことに気付いた紅葉が浩太郎の方へ駆け寄り話を始めています。


「えっ?……紅葉?」


 紅葉と浩太郎が話をしている状況に戸惑いを隠せません。

 二人は少し話をして、最後は握手までしてから戻って来ました。


「何を話してたんだ?」


「うん、お母さんのこと。……あっ!ううん。やっぱり内緒。」


「は?母さんのことって何?」


 紅葉は、そこから先は口をつぐんでしまい何も教えてはくれませんでした。楓は彩音を見て、『何か知ってる?』と聞きますが彩音も首を横に振ります。


「まぁ、いいや。……それじゃ、出発しようか?」


 楓は声をかけましたが、突然思い止まります。


「ゴメン、出発の前に確認しておくことがあった。」


「何でしょうか?……ちゃんと準備はしてありますよ。」


「うん。財布は持ってるよね?悪いけど、中身を見せてくれないか?」


 普通は失礼なことになるので、そんなお願いをすることはないが、この三人に関しては別です。一般的な感覚を身につけたいと言っている以上、確認する必要がありました。


 三人はカバンから財布を取り出して、言われるままに中身を見せます。それぞれに結構な額が入っていました。


「……やっぱり……、福沢諭吉は一人で十分だから、残りは留守番だな。」


「福沢諭吉さん?……ですか?」


 悠花が『あっ』と気付いてお札に書かれた肖像画を彩音と澪に見せていました。そこで楓が言った意味を理解します。


「えっ!?ですが、電車に乗るのに足りるんでしょうか?」


「どこまで行くつもりなんだ?……とにかく絶対に大丈夫だから置いてきてくれ。」


 三人は言われた通りにすることにしました。

 楓は、彩音がズレていることは認識していましたが、澪と悠花も大差ないことに驚かされます。心のどこかで澪と悠花は大丈夫だと思っていたので、これから先が不安になりました。


 置いていく分のお金をタエに預けておき、彩音は戻って来ました。


「……それと、あの車が気になってるんだけど、まさか関係ないよな?」


 楓が指さした先には、小型の保冷トラックが1台止まっていました。楓も何度か来ていましたが、初めて見る車です。


「えっ?あの車ですか?……あの車は差し入れ用ですわ。」


「差し入れ?」


「はい。みなさん、沢山走って汗をかかれると思います。水分補給は大切なんですよ。」


 得意気に話をする彩音と、その言葉に納得して聞いている澪と悠花。

 まさかと思って質問した楓も唖然とします。


「応援するのは新谷さんなんだろ?」


「はい。ですが、渉美さん以外にも聖ユトゥルナ女学園の生徒は参加しております。その方たちにもお配りしないといけません。」


「いや、あれだと他校の生徒全員にも配れちゃうよ。」


「……ダメでしょうか?」


「競技場の近くのコンビニで必要な分だけ買えばいいから、あれはダメ。」


 楓からの返事を聞いても意味が分からず、せっかく準備した差し入れを却下されて彩音は納得できない顔をします。

 そんなやり取りをしていると、浩太郎が笑顔で楓に近付いてきていた。


「我が娘ながら、なかなか不安にさせてくれるとは思わないか?」


「面白がってるんですか?」


「そんなことはない。心配してるんだ。……あれで、他の学校に進もうとしてるんだからな。」


「……止めさせますか?」


「まさか。理事長を前にして宣言してしまったんだから、今更後には引けないよ。」


「今なら間に合うと思うんですけど?」


「いや、あれで意外に頑固なところがあるんだ。このまま突き進むさ。」


 浩太郎は心配していると言いながら楽しそうに話していました。そして、今度はタエが楓に近付いてきます。

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