繋がれた糸
喫茶『ミーティア』の店内。レトロで落ち着いた空間。
落ち着かない、ミドリの心情。目の前の席にはカズマが座っている。毎日のように顔を合わせているはずなのに、こうして二人きりで面と向かうとつい緊張してしまう。
「ミドリさん」
「は、はひっ!」
ミドリが発した妙な奇声に、カズマは目を丸くした。
いけない、ここは一旦落ち着かなくては。水でも飲もう。ミドリはカップを手に取り口に運んだ。
「熱っ!」
ミドリの雄叫びが店内にこだました。
飲んだのは水ではなく淹れたばかりのコーヒーだった。危ない。もう少しでコーヒーを吹き出してカズマの顔にぶっかけてしまうところだった。そうなったらもう、この場にはいられない。彼とは二度と顔を合わせられない。なにをやっているんだ私。
「大丈夫ですか?」
いや、全然大丈夫ではない。穴があったら入りたい心境だ。ああもう帰りたい。
ミドリはカズマに誘われて、彼の馴染みであるこの喫茶店に来た。なにやら話があるようだが、突然の誘いに心の準備のなかったミドリは慌てふためくばかりだ。といってもせっかくの誘いを無下にもできないだろう。
カズマがゆっくりとした動作でコーヒーを啜った。それはミドリを落ち着かせるためにあえてゆっくり動いているように見えた。ミドリは猫舌なので、コーヒーはもう少し冷めてから飲みたい。
「シルバーライトの元気が出てきたみたいですね」
カズマが丁寧な口調で言った。
「そ、そうですね。よかったです、元気になって」
「ミドリさんのおかげだね」
「えっ、私?」
「どんな魔法を使ったんですか?」
カズマは悪戯っぽい笑みを浮かべてミドリを見ている。おそらく、答えがわかっているのにあえてはぐらかした質問をしているようだ。そこに真面目に答えてもしょうがない。
「えーと。相手の杖を奪って自分のものにする魔法ですかね」
なにかのファンタジーにでも出てきそうな魔法である。それを聞いたカズマがクスクスと笑った。悪くない回答だったかもしれない。
騎手としてのカズマを一人のファンとして遠目から見ていた時は、その精悍な顔つきから彼を真面目で少し気難しい人間だと思っていた。しかしこうして身近に接してみると、彼は大らかでお茶目なところもある人間だとわかる。その発見は意外だった。
「今年一年、シルバーライトにとってとても重要な一年になる」
カズマが今度は真剣な表情になって言った。
「ミドリさんの力を貸してほしい。あなたの力が必要だ」
ミドリはカズマを見つめている。彼にそんなことを言われて、胸がドキドキした。
「でも、私にできることなんて……」
「ミドリさんにしかできないことがたくさんある。現に、シルバーライトの調子が戻ってきたのは、あなたの力があったからだ」
ミドリはそう言ってもらえたことが、とても嬉しかった。自分のことを認めてもらえた。それに、自分にしかできないことがある。
「これから、よろしく」
カズマがテーブル越しに右手を伸ばしてきた。手の平をミドリに向けて。
ミドリも緊張しながら右手を伸ばし、彼の手に触れた。そしてお互いに握り合う。彼の手は、その細身の体からは想像できないほどしっかりしていた。彼はこの手で手綱を握り、数々のレースを走ってきたのだ。
握手を交わした後、お互いに手を引っ込める。少し名残惜しい。ミドリはもう少しだけ彼の手に触れていたかった。
整えられた黒い口ひげを生やした壮年のマスターが、テーブルにオムライスを運んできた。赤ちゃんの頬っぺたみたいなふわっふわの玉子。このオムライスはカズマのおすすめだった。ナイフで裂くと、中からとろとろの玉子が溢れ出した。
カズマと同じテーブルで、オムライスを食す。とても美味しい。
彼のほうを見ると、彼も満足気な表情を浮かべていた。
ミドリはしばらくカズマの顔を見つめる。
なんだかこうしていると……。
で、で……。
「デザートのプリンも美味しいよ」
そのカズマの言葉に、ミドリは現実に引き戻された。
カズマはジムでトレーニングを行った後、外で走り込みをしていた。時刻は夕暮れ時で、真冬の寒風が肌を刺す。
こうやって一人で走って何気なく浮かぶ思考に身を委ねていると、ついかつての相棒のことを思い返してしまう。まるで昔の恋人を想ってしまうように。
あらゆる競馬ファンを魅了したノーザンスカイは、完全無欠なスペシャルホースなどではなかった。むしろ精神は欠点だらけで、デビュー当初は関係者たちの期待をことごとく裏切った。
気性が激しく、騎手の言うことを聞かず暴走する癖がある。そのくせ寂しがり屋で、母親離れをした名残りで放っておくと馬房の中をぐるぐる回る旋回癖があった。さらにレースのスタート時にはゲートが開く前に下の隙間から出ていってしまったこともあるなど、精神面の未熟さを露呈した。
三冠に名乗りを上げるべき潜在能力を秘めた馬だったが、成績は振るわず、SⅠレースに出走することすら叶わなかった。
そんなノーザンスカイの転機が来たのは、カズマがこの馬に乗ることになってからだ。まるで厄介者を押しつけられたような状況だったが、カズマはすぐにこの馬の可能性を感じた。
それまでの騎乗者は、すぐに前へ前へ行こうとするノーザンスカイを抑え込もうと躍起になっていた。そんなハイペースではすぐに潰れることがわかっているからだ。前半はできるだけ控え、後半の追い上げで勝負をかけようとした。
しかしカズマは、無理に馬を抑え込もうとは思わなかった。普通の馬だったらそうしただろう。だがノーザンスカイから放たれる気迫を初めて肌で感じた時、カズマはこの馬のやりたいようにさせるべきだと判断した。
そこからノーザンスカイの快進撃が始まった。大逃げの戦法を駆使し、次々と連勝記録を伸ばしていった。ノーザンスカイには後半もペースを落とすことなく走り切れる力があった。この馬をマークすることなどできない。初めから最後までずっと先頭で駆け抜けるのだから。不安要素などない、この馬にしかできない走り。
年齢を重ね、ノーザンスカイの精神も徐々に成熟していった。一緒に走るごとに、カズマとノーザンスカイの絆は深まった。お互いがお互いを信頼し、その力をかけ合わせた。自分一人では、あの誰よりも速い美しい景色を見ることはできなかった。すぐ傍に相棒がいたからこそ、その景色は美しかったのだ。
キャリア最高の地点でのレース中の故障によりノーザンスカイが自分のもとから去ったことは、カズマに重い重い影を落とした。自分の半身を失ったような気分だった。
寒空の下走り込みをしていたカズマは、急にセンチメンタルな気分に襲われた。
彼はその気持ちを紛らわせるため、厩舎に向かった。今の恋人、白い葦毛の馬に会いに行こうとしたのだ。
そして、驚いた。シルバーライトの馬房の前まで来た時、カズマは一瞬自分の目を疑った。
馬の馬房の前で、ミドリがうつらうつらと寝息を立てていたのだ。一体こんなところで何をしているのか。
馬房の中を覗くと、シルバーライトがいて、そのクリッとした可愛い目をカズマに向けた。
カズマはミドリの近くにスケッチブックが落ちていることに気づいた。彼はそれを拾い上げる。
スケッチブックには絵が描かれていた。白い馬。そして馬と向かい合って馬の体を撫でている男性らしき人間。微笑ましい構図だった。
カズマはミドリの馬に対する愛情を感じた。
相棒は、一人ではない。ここにもう一人いる。この先どんな困難が立ちはだかっても、きっと自分たちなら越えていける。カズマはそう思った。
「こんなところで寝てると風邪ひくよ」
カズマはそう言ってミドリの肩をポンポンと叩いた。
「ん?」
ミドリが目を開いた。その目にカズマの姿を捉える。そして彼女の顔が徐々に紅潮していった。
「うぎゃああ!!」
馬房の中にいるシルバーライトが退屈そうに欠伸をした。
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