優しさと温もり
クレセントは月毛の牡馬だ。砂地に溶け込むようなクリーム色の体毛。競走馬より少し体の小さい品種で、短い距離であれば競走馬よりも速く走れる。性格は比較的温厚。
産まれた時、クレセントは脚が悪かった。後ろ脚を引きずるような形で、上手く走ることができなかった。そのせいで体の成長も遅れた。
クレセントが産まれたのは、ケンタロウが十歳だった時だ。クレセントはケンタロウの親が経営している牧場で産まれ、産まれたばかりの子馬の時から知っている。
乗用馬として期待され産まれたクレセントだが、不自由な脚のせいで当初は人を乗せることは難しいと思われた。
ケンタロウはか弱い子馬のクレセントが心配で、毎日学校から帰るとすぐにクレセントのもとに駆け寄った。
クレセントはとても人懐っこかった。不自由な脚にもめげず、元気に遊んだ。一人っ子のケンタロウは、まるで自分に弟ができたような気持ちだった。
成長するにつれ、クレセントの脚は良くなった。ケンタロウはそのことが嬉しくて馬の好物のリンゴをたくさんあげすぎてしまい、親に怒られた。だけど後で隠れてまたあげた。
クレセントはすくすくと育っていった。
少し遅くなったが、三歳になってから乗馬の訓練が始められた。人の指示で動くことから始まり、馬具に慣れさせ、そして人を乗せて走ることを覚えさせる。もちろん初めは戸惑いも多かったが、クレセントは健気に訓練を積んだ。
クレセントに初めて乗った子供は、もちろんケンタロウだ。次に、同級生のミドリも乗った。ミドリが初めて馬に乗ったのが、このクレセントだった。
晴れて乗用馬となったクレセントは、多くの子供に親しまれた。人懐っこくて優しい、そしてちょっとお茶目なクレセントがみんな大好きだった。
クレセントの成長は、ケンタロウの成長とともにあった。ケンタロウの青春の思い出のページの片隅には、いつもクレセントがいた。
そう、まるで家族のように。本当の兄弟のように。
ケンタロウが牧場の仕事を始める前から、クレセントの面倒だけはずっと見ていた。
現在、ケンタロウもクレセントも大人になった。
そしてある日クレセントの背中に「流星の印」を見つけた時、ケンタロウは複雑な心境になった。
それは、「馬との別れ」を意味するからだ。
その日、ミドリが調教を終えたシルバーライトを厩舎のほうに移動させていると、ある人物に声をかけられた。
「おはようございます。記者をやっている、クドウ・サツキといいます」
とても綺麗な女性だ。言葉を交わしたことはないが、何度か見かけたことがある。
「シルバーライトの調子など、少しお聞きしたいことがあるのですがよろしいですか?」
「あっ、はい。私なんかでよければ」
シルバーライトはもうすぐSⅢのレースに出走する。この馬にとって今年の締めくくりとなるレースだ。来年のアステリズム路線に向けても、重要な一戦となる。
ミドリはサツキの簡単な取材に応じた。そういうことに慣れていないミドリだが、サツキがその都度望むべき方向へ導いてくれるので自然と話すことができた。
ミドリはサツキに対して、知的で快活な印象を持った。内気で不器用な自分とはだいぶ違う。仕事のできる女性という感じで、少し憧れた。
取材の間、ミドリに手綱を引かれているシルバーライトはその場でフラフラ体を動かしていたが、じきに焦れ始めた。放っておかれることが好きではないかまってちゃんなところがある。
「ああごめんごめん」
ミドリは馬のほうを振り向き、おでこの辺りを撫でてあげた。人間のその動作を、馬は自分が褒められていると受け取る。お利口に待っていたことに対する報酬だ。
その時、ミドリは近くに気配を感じた。見ると、サツキがシルバーライトにゆっくり近づいてきていた。いまいち視点の定まっていないぼんやりとした表情だ。
サツキはそのまま馬の背中とお腹の中間辺りに優しく手をあてた。それから馬の側面に寄りかかるようにして頬を馬の体に密着させた。ミドリはシルバーライトが反応するかと思ったが、じっとおとなしくしている。
サツキは半ば目を閉じて、馬の体温を感じているようだ。
「温かい」
ミドリは驚いた。小さく呟いたサツキの目に、涙が見えたからだ。まぶたから溢れた一筋の滴が頬を伝っていった。
やがてサツキが唐突に馬から体を離した。シルバーライトはくすぐったそうにブルルと首を回した。
「ごめんなさい」
サツキがその時何を考えていたのか、ミドリにはわからない。ただ、サツキがとても不安で心細そうだったのはわかった。目も充血しているようだ。
「あの、クドウさん」
ミドリはサツキに声をかける。
「はい」
「こんな時に言っていいのかわからないんですけど」
そう言ってミドリはサツキの足元を指差した。
そこでは、サツキの履いているハイヒールのかかとが、シルバーライトの排出したてのボロに見事に突き刺さっていた。
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