海の子

三題噺トレーニング

海の子

僕、海になっちゃった。

弟のヨウが突然言ったのは、僕が中1、ヨウが小5の夏だった。

ヨウがTシャツをめくり上げると、その腹部は薄く透き通って、その奥は水槽のように青緑色の世界が広がっていた。

ヨウが僕の手を取り、その水槽を触らせる。

手を押し込むと、ずぼりと腕がめり込んだ。

慌てて手を引くと、僕の手は海水で濡れていた。

「なるほど、そういうこと」

逆に冷静になってしまった。


繋がっているのは僕たちの町の目の前にある一帯の海。ヨウの目が届く範囲のようだった。

確かめてみたのだ。

ヨウに近くの浅瀬をイメージしてもらって、ゴーグルに海パンの僕がヨウのお腹へと飛び込む。

浅い海へ投げ出された僕が立ち上がって振り向くと、10メートル後ろでヨウが手を振っていた。


ヨウも僕も、海が好きだった。

この海の見える範囲全部を観察できるのだ。こんなに面白いことはない。

僕らは浅瀬の貝や、カニや、エビや、もちろん魚も、片っ端から捕まえていく。

僕らの自由研究が学校で賞を取ったりもして、それでも僕らは海に出るのをやめなかった。


強欲は身を滅ぼす、という言葉があるそうだ。

僕たちのことだった。

観察のエリアを少しずつ広げていた僕たちはいつの間にか、安全な海域からはみ出してしまっていた。

いつもの通り僕がヨウのお腹へ飛び込むと同時に、強い波に僕の身体の自由は奪われた。

僕の体は沖へ沖へと流されていく。

口と鼻から海水が流れ込んでくる感覚があり、僕は意識を失った。


気がつくと僕は病院のベッドの上にいた。

横で父さんと母さんが泣いている。

結局これは、好奇心から沖合に出過ぎた兄弟2名が遭難、兄の方が奇跡的に生還した、というシンプルな事故だった。

弟は行方不明。生存は絶望的。


・・・


退院してからの僕には意外にも早々に日常が訪れたけれど、母さんには訪れなかった。

半年間ほどは悲しみにくれて。

そして次第に、僕を憎むようになってしまった。


食事のたびに母さんは泣き出した。

あなたがそそのかしたんでしょう。

あなたのせいであの子は死んだんでしょう。

4人分の食事が並ぶテーブルで僕は、俯いていることしか出来なかった。

ご飯の味がしなかった。


でもその日は、久しぶりにご飯に味がした。

異常なまでの苦みに顔をしかめてしまうと、母さんは僕をちらと見た。

せりあがるものを感じる。

僕はトイレへと駆け込んで、胃の中のものを吐き出す。

明らかに、何かの毒物が混ぜられていた。

トイレを抱えながら思う。

僕だって悲しいんだよ、母さん。

僕だってヨウに会いたい。


僕はある可能性に思い至る。

僕、海になっちゃった。

そう言ったのはヨウだ。

空っぽになったお腹を押さえて、僕は家を出て海へ向かう。


海はいつも通り穏やかだった。

踏み込み方さえ間違えなければ、海は優しいのだ。

僕たちが間違っていた。

ざぶざぶと海に入り込んでいく。

冬の海は一瞬で身体の感覚を奪っていく。

水底に足が付かなくなって、波に身体を預けた瞬間、僕は全てを思い出した。


半年前のあの日、波に巻き込まれながら見えたのは、ヨウの姿だった。

そのヨウは、腹部だけじゃなくて、全身が透き通って、海と一体になっていた。

ヨウはきっと、僕を探しに1人で海に出たのだ。

「僕ね、もっと"海になった"んだ。だから、お兄ちゃんがどこにいるのか分かった。こうするしかなかった」

ヨウの声が聞こえてくる。

「お兄ちゃんだけはおうちに帰って」

そう言ったヨウの身体は海にぼやけて、僕をくるんだ。

シャボン玉のようなそれは、海流から僕を守り、浜辺へと送り出した。

そして僕だけが救助された。

それが事故の顛末。


ヨウはまだこの海にいるハズだ。

もう苦しいから、連れて行って欲しい。

海になったお前と一緒に、僕も海になるべきだ。


しかし、僕の身体はいつの間にか砂浜へと押し戻されていた。

冬の海なのに、何故か暖かい海水に包まれて。


ヨウがいなくなって、母さんが壊れて、それでも、ヨウは連れて行ってくれないみたいだ。

自分がせっかく助けた命なんだから、ちゃんと生きろってことなんだろうか。

暖かさに包まれて、僕はずっと、弟を感じていた。

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