しあわせ

シチセキ

ある少女の幸福

 私は結構、人から愛される方の人間だと思う。


 お姉ちゃんが怒られるようなことをやっても、私が怒られることはほとんど無かったし、何もせずただそこに居るだけでみんなは幸せそうに笑いかけてくれた。

 たまには怒られることもあって、その時お母さんの大きい声に私はビックリするけど、最後は優しく微笑んで、必ず頭を撫でてくれた。

 そんなみんなのことが、私は大好きだった。


 私は、家族の次に、公園が好きだ。

 くつろげる木陰で、人間観察をする。気まぐれで喧嘩を止めてみたり、たまには虫や猫を観察してみたり。

 これ以上に贅沢で、知的な遊びはそう無いだろう。


 大好きな人たちと、大好きな場所。

 

 ——とにかく私は、幸せだった。

 いや、もちろん、今も幸せだ。

 でも、一つだけ心配なことがある。

 何が心配なのかって、短く言ってしまえば、父が倒れた。……ということ。

 なんで倒れたのか。それは今でもわからない。

 わからないのは、私が馬鹿なのではなくて、単に父が倒れたのがつい昨日のことだったからだ。

 ……いや、訂正しよう。やっぱり私は馬鹿だ。

 だって、父が倒れたとき、私は怖くて何もできなかったのだから。

 

 父はしばらく帰って来なかった。

 いつ帰って来るだろうかと、公園もどこへも行かずに——行く気にならずに——ずっと待っていた。

 玄関のドアが開く度にそっちを見ては落胆する日々が長く続いてから、ようやく父が帰って来た。

 嬉しかった。

 安心した。

 もう二度と帰って来ないんじゃないかと思った……私が何もできなかったせいで。


 その後、父は不思議なくらい普通に過ごしていた。

 撫でてくれるその手は変わらず温かかった。

 

 また家に平穏が戻ったので、私も普段通りに公園へ行った。

 もちろん私にも友人と呼べる者があるので、しばらく公園に顔を出さなかったことを聞かれた。

 あの不安だった日々を誰かに伝えたかったので、父のことを話すと、そいつはこんなことを言った。

「なんでたおれたんだろうねえ」

「それがわかんなくてさ」

「……まあ、だよねえ」

 相変わらず馬鹿っぽい喋り方をする奴だ。だけど、意外に的を射たことを言う。

 ……そう、そうか。わからないのはなのか。

 やっぱり、私はそんなに馬鹿じゃないんだ。ちょっとここぞという時の判断力に欠けているというだけで。

 なあんだ。良かった——

 

 それから何年かして、また父が倒れた。

 たしかに、最近の父はちょっとおかしかった。

 近づくとたまに、口から煙を出すことがあって、それは前からだったけど、最近は特に多いような気がした。

 ——父は、壊れてしまったのだろうか。

 今度は、何もできない私じゃない。無知で幼い私には何もわからないけど、よく公園のベンチに居る、頭のいいあの人に聞いてみることはできる。

「——ああ、それは、タバコの煙だね。あまり吸わないようにするんだよ」

「……たばこ?」

「そうだよ。その人のことはよくわからないけど、まあ、君にできることはないだろうね」

 私にできることは……ない……?

 そっか、しょうがないんだ。

 私はちっちゃくて、何も知らなくて馬鹿だから、何もわからなくて、何もできないのはなんだ。


 だから、後ろで呟くその声にも、気づけなかった。

 「……彼女はまだ、知らないようだ」

 

 父はまた何日かして戻ってきた。

 よく水と一緒に白い粒を飲むようになったこと以外は、やっぱり普通だった。

 また倒れないか心配だから、私はよく父を見ているようになった。

 なんだかつらそうにしている時もあって、そういう時は余計に心配で、近くに寄るようになっていた。

 そうしているうちに、父はあんまりたばこを使わなくなった。

 たばこを使わなくなれば、父はもう倒れないのだろうか。

 それを姉に聞いてみたら、いつもより強く抱きしめてくれた。


 『——おまえのおかげで、父さんはタバコをやめてくれたよ』


 ってことはもう、大丈夫なんだ。良かった。 

 

 

 それから、家族のみんなは前よりも私のことをかわいがってくれるようになった。

 特にお父さんなんかは、前はたまにちょっと撫でてくれるだけだったのに、最近は毎日撫でてくれるようになった。

 ……まあ、お姉ちゃんは相変わらず一日八回のペースを保ってるけど。

 

 家族の中でも特に私を猫可愛がりする姉。

 たまに鬱陶しいけど、一番傍に居てくれる。

 昔はたくさん遊んだけど、今は私が疲れちゃってなかなか遊べない。なのに姉はいつまでも私を好きでいてくれる。

 でも、お姉ちゃんは朝になるとお父さんと一緒にどこかへ出かけてしまうことが多いので、そういうときはお母さんにご飯をもらう。

 

 お母さんは大体家に居てくれるし、ご飯もくれるし、一緒にお昼寝もしてくれる。

 お母さんと二人の時はいつも静かで、私はそういう時間も結構好きだ。

 

 好きな人に囲まれて、好きなことをして生きる。これほど贅沢なことはないし、もう心配事もない。

 ——そのはずだったのに。

 あのとき、私の幸福が、たしかな不幸に形を変えてしまったのだった。

 

 その日私は、いつも通り無知を隠さずボケボケと公園を歩いていた。馬鹿っぽいあいつも一緒だった。

 するとそこへ、いつもはベンチから離れないはずの、頭のいいあの人が珍しく私の方へ歩いてきた。

 そして……

 

「———」

 

 と言った。

 私はその言葉に唖然とした。ショックを受けるどころか、すぐにはそれを理解できずにいた。

 だってその人が言ったことは、今まで私の持っていたほぼ全ての疑問を解消できてしまうようなものでありながら、世界の見方を百八十度変えるものだったから。

 ……隣にいた馬鹿っぽいあいつが、なぜだか申し訳なさそうに私を見ていた。


 そして、その言葉が。突きつけられた現実が。私には耐えられないくらい痛かった。

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