樹林

 夏の山の匂いというものを理解してくれる人は、この広い日本国内で、一体何人居るのでしょうか。夏の山の匂いというのは、雨降りのあとのコンクリートの臭いと、芝を刈った青臭さが混ざったようなものです。それだけならばまだ耐えられるものなのですが、木陰の清涼感と相まった不釣り合いな、鼻につくような草の臭いがどうしても我慢ならなくて、私はあまり好きではありません。

 下腿を擽る枯れ草のむず痒さを堪えながら、茫々の草木の合間を掻き分けて進みました。剥き出しの小さな岩の群を小気味よく跳び。やがて私が目にしたのは、広大な平原のような場所でした。平原と一口に言っても、木々の合間に精々数十メートル程度の空間があるのみですが。

 いわば樹林というものでしょうか。背の高い木が疎らに生える中、大岩や根本の崩折れた高木の成れ果てが苔を生やして埋まっている、広場のようなものです。倒木により途切れた林冠から直射日光が差し、木々の陰では育たぬ花々がここぞとばかりに群生しています。

 夏の黒い蝶が、名も知らぬ白い花の上で羽を休め、澄んだ空気の何処かで鳥が鳴いています。鬱蒼と茂るばかりの森と相対して、私はその空間が何か別世界ではないのかと錯覚してしまう程で、心躍る心地なのを自覚していました。

 下ってきた崖道から数歩足を進めると、地面の雑草に踏み荒らされたような跡を見ました。その足跡のものはどうやら、樹林のうちの一つの木の裏へ続いているようです。私は先客でも居るのかと思い、軽い足取りでそちらへ赴いてみました。

 高木の裏へぐるりと回ると、眩い陽光が遮られ、視界が瞬く間に暗くなりました。暗順応が追いつかずに白む目を擦りながら、私はその目的の木の裏に人の影を見ます。何やらその人は、私よりも随分高い位置に頭があるようで、私はそれを覗き込むように見上げました。

 一般であれば失礼になるようなその行動は仕方なくも、相も変わらず暗がりに慣れていない私の視界が、視界の中央に黒点があるように映っており、その人の面持ちのようなものが伺いづらかったためで、決して悪意のあるものではありませんでした。

 やがて視界の霞みも収まり、私は数度目を擦りました。するとようやく、相手の顔を伺い知る事ができるようになりました。その人物は如何やら、黒い蓬髪の男性のようでした。見上げた目の高さは、二メートルはくだらないでしょう。彼は一際丈夫そうな枝に麻縄をかけ、自重でゆらゆらと揺れていました。それはまるで、振り子時計の振り子のようです。

 薄汚れた大きなぬいぐるみを洗濯機でぐるぐる回して、ベランダの物干し竿の高いところへ乾したときも、確かこのような感じだったなと、その時の私は思いました。それか、てるてる坊主でしょうか。思えば晴天祈願のあれも、だいぶ不謹慎なものだったのかもしれません。ガーゼの頭にティッシュを詰めて、人の首みたく輪ゴムで括り、庇の下にぶら下げておくのですから、それは人死にを思わせるものなのかもしれません。

 何にせよ私はその時、やけに冷静な頭をしていました。いえ、突飛な考えに及ぶのは、寧ろ平常を保っていなかったのかもしれません。

 私は数十秒間、その死体と見つめあっていました。見つめ合うと言っても彼の黒目はぐるりと回っていて、何処か彼方へ向いているため、如何しようにも目線が合いそうにもないのですが。

 そして私は、彼の様相を伺ってみました。くたくたに寄れたジャージは、灰染めではなく元の黒が褪せたものでしょうか。爪は伸び切っており、頬を掻けば血が出てしまいそうです。宙吊りになったお陰で脱げたサンダルの片足は、足元で倒れた木椅子の上に落ちており、何やら知らない液体で汚れていました。

 そうしてもう一度、私は彼の顔を見上げてみました。黒目が上を向き、剥き出しの白目は何処か赤みがかった色をしています。唇は青ざめ、肌の色はたいそう血色が悪く、まるで白絵の具を一面に塗ったようでした。

 そこでようやく私は、彼が死んでいることを理解しました。反芻してやっと、目の前の見知らぬ方が自害しているのだと言う事実を、嚥下することができました。

「っ……お、ぇ、っふ」

 私は振り子の死体から数歩後退り、自分の口を抑えました。込み上げた吐き気を堪えるようにしたものですが、卸したてのワンピースを気にしてのものだったかもしれません。抑えた手の合間、そして口の端から胃液の混じった涎が垂れるぬめりとした感触は、生々しい気持ちの悪さをさらに実感させるのでした。

 死臭のようなものはしませんでした。視覚の情報が多すぎて、私がその臭いを認識していなかったのかもしれません。ですが私の鼻はそれよりも、夏の青臭い山の匂いばかりを嗅いで、今目の前で揺れる死体の悪臭は、僅かにも気になりませんでした。

 私はまるで何かに弾かれたかのようにその場から走り出しました。いえ、走り出したつもりですが、混乱した私の足取りは覚束なくて、緊張した身体は強ばり、数歩歩いた雑草の上で、私は膝から崩れ落ちました。

 死体のぶら下がる木に背を向けて、私は過呼吸になりかけた自分の鼓動をいたわるように、無理矢理肩で呼吸を試みました。ひゅうひゅうと大袈裟な呼吸音が、自身の口から漏れ出ているのと、心臓が速く四つ打つ音が頭の中をぐるぐると巡って、やけにうるさいものに聞こえました。

 自身の足に鞭を打って立ち上がろうと意気込みましたが、身体は根が生えたようにびくともしません。私は震える手を腰のポケットへねじ込むと、慌ててスマートフォンを取り出し、緊急連絡の番号を力強く押しました。

「もしもし。あの、迷子になって、それで、人が死んでるのを、見つけたんです。〇〇の近くにある山の、途中の道の奥です。向日葵畑の近くの崖を、降りたところです。死体が、あるんです。人が、死んでいるんです。はやく、はやくきてください」

 電話を切った私は、蹲って自分の身体を抱きしめて、雑草の根を見つめていました。周囲を見渡すことはおろか、顔をもたげることも、できませんでした。視界に映る瀟洒な白のワンピースが、草の露と泥でぐしゃぐしゃになってしまい、残念だなと思ったものですから、もしかしたら私にはまだ心の余裕が残されていたのかもしれません。

 数分後に訪れた警察に、私は保護されました。

 これはあとから聞いた話なのですが、あの死体は、数日前から行方不明として届け出が出ていた男性のものだったらしいです。

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