その16 どんなことをしても、強くなれば

 

 周囲を取り囲んでいた黒カビが、一気に吹き飛ばされていく。

 黒のかわりに悠季を取り巻いたものは、真っ赤に煌めく炎。それが一瞬の間に黒の浴室を包み、消滅させていく。

 しかし何故か炎は悠季を燃やすことなく、熱い光となって彼を勢いよく包んでいた。


「い、いや……違う!

 待って。そんなことをしたって……

 この世界は、絶対に変われない!!」


 炎の中、必死で手を伸ばす『闇の魔女』。

 悠季も慌てて彼女を助けようと身を乗り出したが、それより早く炎が彼の手を遮った。

 畜生。精神世界じゃ俺が何をしても、葉子に先手を取られちまうってのか。シーフが聞いて呆れるぜ。

 そう舌打ちした時、目の前に現れたものは――



「えへへ~♪ 

 ここでは初めまして!だねっ、悠季♪」



 それは真っ赤に燃える紅の髪に、いかにも魔女っ子的な紫の三角帽子を被った少女。

 瞬間的に分かった。彼女も同じ、葉子であり――魔女だと。

 髪はいつもの葉子よりも短く、肩のあたりでばっさりと切りそろえられている。

 帽子と同じ色のマントを羽織っているが、その内側は結構露出度高めの真っ赤なチューブトップにミニスカートだ。そして、ヒールが高めの黒のロングブーツ。ブーツとスカートの間から見える太ももがやたら目につく。

 とても普段の葉子がやるとは思えない服装の彼女は、満面の笑顔で悠季に話しかけた。


「私は炎の魔女。みんなからは、えんちゃんって呼ばれてるよ!」


 まぁ、そうだろうな。

 これで炎の魔女じゃなかったら何だというレベルに炎の魔女だ。


「っていうか……

 え、えんちゃん?」

「そー♪

 炎のエンだから、えんちゃん。あの子は『闇』の音読みでアンちゃん!」


 朗らかにそう口にしながら、『炎の魔女』は背中のマントから杖を抜き放った。

 先端には真っ赤な宝玉が輝いている。中心部ではゴウゴウと音までたてて炎が燃え盛っていた。

 その煌めきは、明らかに――

『闇の魔女』へ。そして、黒カビだらけの浴室へと向けられている。



「アンちゃん。いつも言ってるでしょー?

 誰かに依存しながら生きてるから、そーなるんだって。

 誰かの支えがないと生きていけないから、あっという間に支配されちゃうんだって。

 だから――」



 大きく振りかぶられる杖。それと同時に、嵐の如くうなる炎。



「どこまでもどこまでも、強くなれればいいんだよ!

 誰にも文句なんか言わせないくらいに!!」



 巻き起こった炎はやがて爆風へと変貌し、一気に浴室を包んでいく。

 黒でしかなかった浴室が、紅蓮の炎に燃え上がる。


「い、嫌……嫌ぁっ!!」


 黒でしかないこの世界を恨み、拒絶し続けていた『闇の魔女』。

 しかし今、世界を無理やり紅蓮に塗られ、彼女は耳を塞ぎ頭を抱え、浴槽で縮こまっていた。

 その姿はまるで、幼い少女そのもの。


 駄目だ。

 葉子を、このままにしちゃいけない――


 本能的にそう判断した悠季。

 熱せられた床を蹴り、両腕を伸ばし、浴槽の中の葉子を抱え込む。

 抱きしめた瞬間びちゃりとカビが飛び散り、墨汁でもぶちまけたのように全身が汚れた。



「や……やめてぇ……!

 これ以上、わたしに希望なんか見せないで!

 わたしは強くなんかなれない。それはわたし自身が、一番良く分かってるんだから!!」



 ――それでも『闇の魔女』は、そんな悠季をも拒絶した。

 ぼさぼさの黒髪を激しく振り乱し、光を失った眼で悠季を睨みつけ、歯を剥きだしたその表情に、現実の優しい葉子の面影はほぼない。


「離せ、離せ、離れろ!

 あなたにわたしが、救えるはずなんかないのに!!

 あなたも結局わたしから離れて、わたしを絶望に叩き落とすしか出来ないくせに!!

 触るな、離れろ、気持ち悪いっ!」



 ――気持ち悪い、か。



 それは初めて悠季が経験する、葉子からの明確な拒絶だった。

 必死で抱きしめようとしても腕の中で暴れられ、冷たい黒の感触が、心にも身体にもじわりと染み込んでくる。容赦なく悠季の頬を叩き、引っかき、その腕から逃れようとする葉子。

 悲しい。寂しい。でも、嫌だ。鬱陶しい――

 ぐちゃぐちゃになったそんな感情は冷たい身体を通して伝わり、悠季の心さえも打ちのめしていく。



 現実にいた時は、全然気が付かなかった。

 現実で笑顔を見ていた時は、何も分からなかった。

 闇の魔女だけじゃない。水の魔女も風の魔女も、土の魔女も。

 全員、酷く重苦しい感情を抱えていた。

 人間ってのは多かれ少なかれ、そんな薄暗い感情の一つや二つを抱え込みながら生きてるもんだ。俺自身だって、一度蓋を開けりゃどんなヤバイもんが飛び出してくるか分かりゃしねぇ。

 ……そう、分かっていたつもりだったのに。



 それでもなお、葉子を抱きしめたまま離そうとしない悠季。

 離しちゃいけない。ここで離せば、葉子は壊れてしまう。

 生来の勘が、そう告げていた。

 そんな悠季の頬を、伸びきった爪で思い切り引っかく葉子。血しぶきが飛んだが、それでも悠季は声を限りに叫ぶ。



「どうやったら、分かってくれる?

 俺だって、お前がいなかったら――!!」



 だがそんな悠季の声さえ、『闇の魔女』は全く受け入れようとしなかった。


「うるさいっ!

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いっ!

 所詮わたしを見捨てて逃げるだけの癖に、わたしに踏み込んでくるなぁっ!!!」


 あまりにも徹底的な拒絶。

 絶望の言葉と同時に、『闇の魔女』は思い切り、悠季の左腕に噛みついた。


「ぐ……あっ!!」


 そのひと噛みは思いのほか強烈だった。

 大量の黒カビを浴びて半分黒く染まりかけていたスーツの袖に、じわりと血の紅が重なっていく。

 それでも執拗に魔女は離れない。悠季を傷つけたと分かっても、魔女は離れようとしない。

 それどころかさらに深く、その牙は骨まで届くかという勢いで、肉を抉っていく。

 精神世界のはずなのに何故か、筋がブチブチとちぎれる感触がはっきり分かった。


「が……あ、あぁ、あ……!!」


 あまりの激痛で思わず悲鳴をあげかかるところを、何とか喉元で嚙み殺す悠季。

 痛みが神経まで響いているのか、左手の指がほんのわずかに葉子の背中から離れてしまう。

 抱きしめようとしても、痛みがそれを許さない。指に力が入らない。

 まるで、魔女の言葉を実証するかのように。

 何で。どうしてこんな痛みに限って、現実に忠実に再現されやがるんだ――



「ほら……

 やっぱり、あなたはその手を離すじゃない」



 悠季の耳元で囁かれる、呪詛。

 同時にまた一つ、別の声が脳裏に響く。

 囚われたまま自我を失い炎熱に焼かれた、あの少女の記憶と共に。



 ――そうだよね、イーグル。

 君は、誰も守れなかった。彼女さえも。

 そして、僕のことも。



 そうだ。守ろうとしても、出来なかった。

 どんなに抱きしめても庇っても、その命は次々と手のひらから零れ落ちていった。

 あの娘も……みんなも。

 そして、ベレトさえも。



 そんな悠季の背後から、熱風が容赦なく叩きつけられる。

『炎の魔女』の言葉と共に。



「ねー、悠季ぃ~?

 そんなことばっかりしてるから、『私』はずっと自立出来ないの。

 貴方がそうやって『私』を甘やかしてばかりいるから、私、なかなか強くなれないんだよ?

 貴方にはね。もっと別の方法で、『私』を強くしてもらわなきゃ!」



『炎の魔女』は、目をキラキラ輝かせながら炎をまき散らす。全てを燃やし尽くす勢いで。



「アンちゃん。あなたは、ここから出るのが怖いだけ。

 人はその気になれば、どんどん強くなれる。若いんだから、一歩外に出ればいくらでも強くなれるはずだよ?

 ――目の前の悠季が、それを実証してるでしょ?」



 炎の威力が、どんどん強まっていく。

 病みきった葉子を抱きしめながら、悠季自身も熱風に喉を焼かれ、最早呼吸さえもおぼつかない。

 咄嗟に水術を使おうとしても、こんな時に限って術は全く発動しなかった。



 それでも『炎の魔女』は快活に笑いながら、黒の浴室を焼き払っていく。



「さぁ、悠季。私にその強さを見せて?

 貴方がいる限り、貴方が強くなってくれる限り、私もどこまでも強くなれるから!!

 私は――」



 どんなことをしても、強くなってみせるから。

 その為に、貴方が必要なの。



 そんな葉子の声が聞こえたと思った刹那――

 眼前に、突如黒い幕が降りた。

 同時に魔女たちの姿も声も遠くなり、悠季自身の意識も急速に薄れていった。

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