その2 女の価値は、「犬」の数?
「いやー、嬉しいなぁ! 電車で天木さんとご一緒出来るなんて!
普段は一緒のフロアだけど、お話出来る機会なんて滅多にないですからねぇ」
「は、はぁ……ありがと、ござ、ます……」
ほぼ初対面のはずなのに、岩尾君は屈託ない笑顔で話しかけてくる。
私は私で眠いところを叩き起こされ、しどろもどろな応答しか出来ない。
あぁ……この人絶対、低血圧のつらさを知らない。
左隣の悠季はと言えば――
大変不機嫌そうに腕組みしながら、岩尾君を睨んでいた。
「ていうか、お前さ……
葉子寝てたよな。無理矢理起こすたぁどういう了見だ?」
「あぁ、神城さんもおはようございます!
こないだはコピー機直していただいて、ありがとうございました!」
元気良く悠季にも挨拶する岩尾君。
っていうか悠季……そんなことしてたんだ。
「神城さんにはいつも感謝してるんです!
僕みたいのにまで気を配ってくれて、コピー機やFAXやパソコンがおかしくなるたび、どこからともなく駆けつけてきてくれて」
「違う、この前も言っただろ。あれが最後だって。
俺は葉子の相棒なんだから、基本的に他の奴らの面倒見る義理は……」
「またまたぁ。しょっちゅうそんなこと言ってるけど、何やかんやで助けてくれるんですよ、神城さんって。
お二人が休んでる時はホントに心配でした。震災で何かあったんじゃないかって」
何かあったどころじゃないんだけど。
でも、悠季ってば……何だかんだで、面倒見いいんだなぁ。
「それに僕、天木さんとは是非一度、お話してみたかったんですよ~!」
「え? 私?」
「はい。覚えてません?
僕新人の時、天木さんにすごく優しくしてもらったんです」
新人の時って……2年ぐらい前か。
岩尾君に言われて、記憶を掘り返してみる。
確か一度だけ、彼と一言二言、会話した覚えはあるけど。
「僕が初めてこのオフィスに来た時、初仕事で書類渡されて。
その時偶然、近くにいたのが天木さんだったんですよ。
右も左も分からなくて、この書類どうすればいいですかって天木さんに聞いちゃったんです。
あの頃はパーティションもなくて、僕のチームと天木さんのチームの机、一緒になってたんですよね。それ知らずに僕、天木さんに聞いちゃったんです。
そしたら、チームが違うから自分には分からない。だから自分のチームの人に聞いてねって
……すごく優しい笑顔で言われたの、今でも覚えてます」
かなりの早口でそう話され、やっと思い出した。
あぁ……そんなこともあったっけ。
というか、それだけのことで私を覚えてた? 嬉しいと言えば嬉しいけど、私は『分からないから他の人に聞いて』という当然のことを言っただけなんだけどなぁ。
「天木さんが滅茶苦茶優しく教えてくれたんで、僕、思ったんです。
この会社の人たちは、多分、いい人ばかりなんだろうなぁって。
実際は……そうでも、なかったですけどね」
そう呟いて、岩尾君は口を噤む。
鬱陶しいくらいに明るかった横顔に、ふと影が差した。
私とのその程度の会話を、未だに覚えているくらいだ。その後どんな艱難辛苦が彼を襲ったのか、想像に難くない。
そんな彼に、悠季は声をかけた。
「なぁ、岩尾。ちょっと気になってんだ。
元からお前はそそっかしいトコあるけどさ。最近、妙に酷くなってないか?」
思わず笑いそうになってしまう。
何だかんだで、やっぱり優しいなぁ。悠季は。
しばらく何か考え込むように逡巡していたが、岩尾君は思い切って顔を上げた。
「……そのことで。
神城さんに、ちょっと相談があって」
「へっ?」
「多分今の状況だと、神城さんにしか話せないことなんです。
あ。天木さんも一緒に聞いていただけると、もっと嬉しいんですけど」
思わず悠季と顔を見合わせてしまう。
――何だろう。すごく面倒なことに巻き込まれそうな気がする。
*******
「ストーカー?」
その日の終業後。
私と悠季は岩尾君の案内で、会社から二駅ほど離れた喫茶店にいた。
きらびやかな商店街より少し奥まった場所にある、知る人ぞ知るといった感じの小さな喫茶店。店内の雰囲気はすごく私好みの静けさに保たれており、カウンターの奥には北欧風の色とりどりのティーカップが整然と並べられている。座席はパーティションできっちり区切られており、他の客の様子は殆ど見えない。
私たちより少し遅れて、周囲を警戒しながら入ってきた岩尾君。
そこで彼が切り出した話は――実に意外なものだった。
「今年の初めぐらいからですかね……
何となく、その女性の視線を感じ始めたのは。
駅で気さくに話しかけてきてくれたから、僕もつい話し込んでしまったんですけど」
話によると――
岩尾君はチーム内のとある女性から、結構しつこくアプローチされているらしい。
最初は親切な先輩だと思って、岩尾君も普通に対応していたようだ。
とはいえ彼の『普通』は、今朝私を電車で叩き起こしたレベルの、かなり積極的なものだ。
数年前たった一言、話をしたことがあるだけの私を。
恐らくその女性も同じように対応され、その気になってしまったのだろう。
「だけど、朝とか夕方、電車で会って何回か話をしているうち、おかしいなって思うようになったんです。
朝はいつも、僕の乗る車両が分かっているかのように同じ車両にいて、偶然を装って話しかけてくるし……
帰りも同じなんです。同じ時間に仕事が終わると、あの人は必ず電車のホームで僕を待ってる。
電車に乗らずにずっとホームで待ち伏せて、やっぱり偶然を装って話しかけてきて――」
うーん……確かに、それは怖い。
私が学生の頃なんかは、好きな人を放課後校門のそばで待ち伏せとか、結構微笑ましい青春の思い出として語られたものだけど――
約束もしていないのに、毎日待ち伏せされて強引に一緒に帰ろうとされるのは、怖いものだよね。
それが何の興味もない相手なら、なおさら。
「勿論、2月のバレンタインデーには彼女から、結構高価なチョコレートを頂きました。
だけど、その時まで僕は気づいてなかった。
彼女が僕を、本気で好きだってことに」
そんな岩尾君の言葉に、悠季は首を傾げる。
「ん?
それまではお前、そいつの好意に何も気づいてなかったってことか?」
「お恥ずかしいですが……その通りです。
それまでも会社では散々、先輩や上司から無理矢理飲みに連れていかれたり、朝まで飲むなんて当然と言われてお店を出禁になるまで騒いだり、付き合いきれないと思って黙って帰ろうとすれば、猪のように追いかけてきて捕まったり。
勿論そのついでに、セクハラまがいのスキンシップを色々な人からされてましたから……」
その話は藤田さんからも聞いていた。
お店を出禁になったというのをさも誇らしげに話していた彼女に、若干引いた覚えがある。
多分彼女たちは、社内のコミュニケーションの延長としてやっているつもりなんだろう。それで岩尾君が何を感じようが関係ないんだ。
若い新人の男なんて、自分たちに尽くして当たり前。雑用も面倒な仕事も、勿論飲み会の幹事だって当然。
だって自分たちは職場のヒロインでバリキャリ。若い男をどれだけ顎で使えるかで、自分たちの価値が決まる――20年以上前にはそんなドラマが大流行していたという話をよく聞くけど、彼女たちの頭は未だにそのドラマのままなのだろう。
傲慢な男たちと対等に戦う為に、私たち女だって強くなってやる。新人の若い男などはその象徴として、どこまでも奴隷の如く使い倒してやる――多分、そんな認識。
そんな彼の話を、悠季も苦虫を嚙み潰したような顔で聞いていた。
「……職場じゃ珍しい若い男だからって、何してもいいってワケじゃねぇぞ。
徹底的に手なずけて、自分たちの犬にでもするつもりかよ」
犬……か。
悠季が擬態の術を使ってくれていて、本当に良かった。
でなければ、悠季のこの美貌だ。あっという間に彼女たちの餌食にされ、岩尾君よりさらに酷い目に遭っていたに違いない。
「だからというわけでもないですが……
僕、気づけなかったんです。
本当に恐ろしいものは、音もなくいつのまにか忍び寄ってくるってことに」
目を伏せて語る岩尾君に――
私も悠季も、揃って唾を呑み込んだ。
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