その2 彼女(奴隷)
「……!!
やば。私、寝てた?」
どうやら私は、愚痴を聞きながらうたた寝していたらしい。
スマホから流れ出る声は未だに終わっていなかった。既に通話時間は2時間を超えている。
《ねぇねぇ聞いてるの!? 人の話聞きながら寝るなんてとんでもないよぉ!!
しっかりしてくれぇ~》
視線を上げてみると、肩まで毛布がかけられている。そして──
悠季がじっと、私の寝顔を正面から見据えていた。
私が目覚めたのに気づくと、彼は無言でメモ帳の切れ端を目の前に差し出してくる。
そこには、こう書かれていた。
──万一ソイツが彼氏なら
間違いなく別れた方がいいと思うけど?
あまりにも直球と言えば直球な、悠季の意見だった。
それでも私は、その疑問には首を縦に振れない。黙って身を起こして、愚痴を聞くしかないんだ。
……すると、幸か不幸か。
《あ、美恵ちゃんからメール入った。この前話したでしょ、滅茶苦茶可愛くて頭もイイあの娘!
じゃあ明日! 待ってるからね!!》
私の返事もろくに聞かず、一方的に切られる通話。
やっと解放された──
心の底からほっとしながら、私は時刻を確認する。さっき帰宅したばかりだと思っていたら、もうすぐ0時を回ろうというところだった。
通話が切られた瞬間、悠季はさっとスマホを奪い取り、表示された名前を確認する。
そのアメジストの瞳に、慈悲は一切なかった。
「……
で? 葉子。あんたはこいつと、どういう奴隷契約を結んでるんだ?」
そんなドストレートな悠季の一言を皮切りに。
私は眠い目をこすりながら、話し始めた。
「そういうこと、言わないで……
彼は、今気が立ってるだけなの。仕事を辞めてお医者さんを目指してて、とても勉強熱心な人で……
でも、周りのレベルが高くて勉強もテストもなかなかうまくいかなくて、それで……」
「医者はこの世界でも結構な地位だってのは知ってるけどな。
そいつも医者なのか?」
「ううん……まだ、医学生」
すっかり冷めてしまったと思っていたご飯は、悠季が温め直してくれていたらしい。
野菜スープに口をつけてみると、冷えた身体にその温もりが沁みとおっていく。
「だからって。
こんだけ仕事で疲れてる葉子に、延々一方的に愚痴垂れていい理由にゃならねぇだろ。
その上、社会人にとっちゃ超貴重な休日を潰させる? 何の権限があってそんな」
「別に……潰されてるなんて、思ってないから」
「いーや、潰れてるね。少なくともあんたの顔はそう言ってる」
「わ、私の顔?」
私は口数が少ない割に、表情に出やすいとよく言われる。
見事にその感情を、悠季に見抜かれてしまっていたらしい。
「彼氏のところに休日遊びに行くってのにそんな浮かない顔してる女、どこの世界にもいやしねぇよ。
いるとしたら、奴隷として買われた女だけだ。いーや、奴隷だってそこそこまともな主人がついてりゃ、そんな顔滅多にしねぇ。
マイス一番のDV野郎で有名だったグラーニオんトコの奴隷だって、もうちょいマシだった気がするぜ? あいつはアッチの方が凄くて女どもが離れたくても離れられないってヤツだったが……」
「毅は、そんなんじゃないから」
「だろうね。声からしてそんな感じした」
「とにかく私、明日は出かけるから。
悠季も好きにしていいと思う。ゲームがやりたいなら、出しておくから」
悠季から何となく視線を逸らしながら、ご飯を食べる。
彼はしばらく唇を尖らせながらそんな私を見つめていたが、やがて言い放った。
「んじゃ、好きにするわ。
俺、明日は葉子についていく!」
「……え?」
唖然とする私に、悠季は当たり前のようにニカッと歯を見せて笑っていた。
「俺はあんたの担当者で、相棒だぜ?
言ったろ。あんたが助けを求めるなら、俺は力になるって」
翌日の昼過ぎ。
結局私は、電車で1時間以上かかる毅の家に向かっていた。
ただでさえ仕事で疲れているのに、金曜夜の電話で強制的に呼び出され、愚痴を聞かされ、足を引きずるようにしながら土曜に出かける。
そんなことがずっと、日課になってしまっていた。
ただ──
今日は隣に、悠季がいる。
それだけで、何かが違ってくる気がした。
会社で私を助けてくれたように、悠季は、今度も──
いや、駄目だ。
仕事は悠季の力で何とかなっても、これは解決できるとは思えない。
だってこれは、私の「家」の問題でもあるんだから。
でも悠季は、私が何度言っても聞かなかった。
「葉子のパフォーマンスを著しく低下させている何かが、ここにはある。
プライベートに深入りするつもりはないが、それでも放っておいちゃいけない。
俺の勘がそう言ってる──」
そう言い張る悠季を前に、ついに私も根負けしてしまい。
毅の前には姿を現さないことを条件に、悠季の同行を許してしまった。
そんな私の気も知らず、悠季は不満げに頬を膨らませる。
「当たり前のように葉子を呼びつけて、そのままろくにデートも行かずに翌日日曜昼過ぎまで拘束って……」
「仕方ないの。ずっと勉強していなきゃ試験に通らないし、デートなんてしてる余裕はないの。お金もないし」
「だけどさ。葉子の作った弁当ぐらい、感謝して食えっての……
オ×ジン弁当の鮭弁じゃなきゃ駄目だって、どういう理屈だよ」
「私が勝手に作ったものは絶対に分量計算がおろそかになってるから、信用出来ないんだって。
だからさすがに面倒になって、指定されたものを買ってる。その方が楽だし」
「だがよ。その弁当代は全部葉子持ちなんだろ?
もっと言うなら、葉子が買い物して作る夕食代も」
「だから、仕方ないの。
今は彼、勉強に必死でバイトも出来ないし」
今日の悠季は黒Tシャツにパステルブルーのカッターシャツを羽織り、下はジーンズといったシンプルな軽装だった。対する私は──
化粧っ気も殆どなく、お腹周りがきつすぎないロングスカートにいつも会社に来ていくブラウスといった、毎日の通勤とほぼ変わらない服装。肩からかけた鞄は着替えが入っているせいでずっしりと重い。
自分でも思うけど、とても彼氏の家に行く服装じゃない。
だって──どれほどおしゃれしたって、無駄なのは分かっているから。
電車から降りた場所は、医大にほど近い学生街。
私の足は、まず弁当屋に向かう。
しかし悠季は首を振りながら、その前に立ちはだかった。
「駄目だ、やっぱり納得出来ねぇ。
話聞いてるだけで、もう駄目だ。
なんであんた、そんなのと付き合ってる? ゲームをすっかりやめちまったのも、そいつのせいなんだろ?」
「……どいて、悠季。
彼はアニメや小説は好きだけど、ゲームは嫌いだし……仕方ないのよ」
「だけどさ」
なおも私の前を塞ごうとする悠季に、私は思わず声を荒げてしまっていた。
通行人が振り返るほどの勢いで。
「だから、仕方ないんだって言ってるでしょ!
彼と結婚出来なかったら、私は自分の親からも見捨てられるんだから!!」
「!?」
私の怒声が意外だったのか、さすがに言葉を失う悠季。
その横を急いで通り過ぎると、私は弁当屋へ駈け込んでいった。
学生街より少し奥に入ると、坂の多い住宅地に出る。その隅にある小さな学生用アパート。
そこが、毅の自宅だった。
弁当屋前でちょっとした言い争いをしてから、悠季はふっつりと私の前から姿を消してしまった。
毅の前には姿を現さない。その約束を守ってくれたのか──
ドアの前で呼び鈴を鳴らした時も何となく周りを見回してみたが、悠季の姿はなかった。
──さすがにこれは、貴方でも無理ってことだよね。
自分でも酷く重いと感じたため息が、胸の奥から零れ落ちる。
そして扉が開かれたかと思うと、中から毅が姿を現した。
「遅いよぉ! もう午後じゃないかぁ、色々頼みごとあったのにぃ!!」
いきなり浴びせられる、悲鳴のような小言。
丁寧に刈り込んだ短髪に、痩せた顔。ぐりぐりと大きな丸い目が、眼鏡の奥から神経質に私を見つめていた。
「ごめんなさい……
昨日仕事で疲れてたし、ここまでは電車で1時間以上だし、どうしても遅くなって」
「そんな仕事やめりゃいいんだって、何度も言ってるじゃないか!」
それだけ言うと、毅はさっさと奥へ引っ込んでしまう。
彼の家はわずか1K。玄関入ってすぐにお風呂とキッチンがあり、その向こうには6畳ほどの洋室があるだけだ。実質1部屋しかないその一室には所狭しとベッドとテレビと本棚が配置されている。窓はあるがずっとカーテンが閉められ、部屋は無機質な蛍光灯の光で満たされていた。
部屋の中央にはこたつ用のテーブルがあり、その上には様々な医学書や勉強道具が整然と並べられている。
やたらきちんと整理されてはいるものの、それでも人二人が座るのがやっとという程度しかない部屋。ここに一旦入ってしまえば、もう私にパーソナルスペースなどというものはないに等しかった。
広げられたノートの横には、開かれたポテトチップスの袋と割り箸が見える。多分いつも通り、箸でポテチをつまみながら勉強していたのだろう。
買ってきたお弁当を勉強道具の横へ広げ、私たちは遅い昼食を食べ始めた。
解雇寸前という状況の私の話は全く聞いてくれないばかりか。
昨夜の愚痴と全く同じ愚痴を聞かされながら、数分して──
「そうだ、これ。
夕飯買いに行く時、一緒に買ってきてよ」
鮭弁当を頬張りながら、私にメモを突きつける毅。
それは結構大量の買い物リストだった。勉強に必要らしいノートや鉛筆、マーカーやバインダーの類。ノートはB5だとか鉛筆はHBでなどは当然として、それぞれメーカーまで指定されている。
しかも今回は、赤珠堂でという指定まであった──歩くとそこそこ距離のある文房具屋だ。
「赤珠堂って……ここから結構遠いよ?
夕飯の材料買って帰ると、時間かかるし」
「そこじゃなきゃ駄目なんだよ!
赤珠堂にしかそのマーカー、売ってないんだ」
夕飯の材料と一緒にこれだけのものを持ち運ぶのは、かなり骨が折れそう……
さすがにため息が隠せない。
「……今日は、ちょっと疲れてるんだけど。
私だって毎日仕事してるし、この前PIPっていうプログラムが課せられたのは話したでしょう? このままだと、仕事にも影響が……」
しかし毅は子供みたいに首を振りながら、私の言葉を拒む。どうせ聞き入れてもらえないとは、分かっているけど。
「疲れた疲れたって、くだらない愚痴ばっかり! ああもー、しっかりしてくれぇ!
自分が出来ないのを僕のせいにしないでよ!!」
「……くだらなくなんかない。私は真剣に」
「そんなに嫌だったらやめればいいじゃないか!
ため息つかないでくれ、最近冷たいよ! こんなんでこの先、大丈夫かなぁ~……」
怒りが胸のあたりに充満する。
自分が昨日どれだけ、勝手な愚痴を言ってたと思ってるのよ。
貴方の前でため息をつくことさえ許されないの、私は?
味が殆ど感じられない弁当を噛みしめながら、私は思わず歯を食いしばる。
駄目──駄目。
今だけ。今だけ我慢すれば。
会社で何を言われても、必死に我慢しているように。
今は、毅は自分がつらいから、私に当たっているだけ。ちゃんと医者になれれば、仕事を始めれば、もう少し前向きになってくれるはず。
──
「ねぇねぇそれよりさぁ。
昨日も話したでしょ、去年同級だった美恵ちゃん! 彼女やっぱり頭イイんだよなぁ、僕のことちゃんと覚えててくれてメールくれて、今度一緒に食事しましょうって言ってくれてさぁ!」
女の子の件となると、態度ががらりと変わって上機嫌になる。
他の娘のことを話しながら、私に寄り添って遠慮なくスカートに手を入れてくる。
その手を私は拒めない。拒めばまた、不機嫌になるに決まっているから。
もう、こんなことは日常茶飯事となってしまったけど──
結局私は買い物の指示を受け入れてしまい、へとへとになりながら夕飯と文房具を買っていた。
買い物にかかった時間は2時間ほど。その間だけは一人になれるのが何となく嬉しくて、少し寄り道までしてしまっていたが──
帰り道。学生街の奥の坂道まで戻ってくると、両腕に抱えた荷物が重すぎて汗が出てきた。
すると──
「さすがにヤバイだろ。持つよ」
左腕に下げた夕飯の買い物が、不意に軽くなった。
ミントの香りがふっと漂う。勿論横にいたのは──
神城悠季。イーグルだった。
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