上海公司

第1話

 じんわりとした湿気と暑さが冷たい世界と一緒に、冷房を受けて冷え切った僕の体を温めていくのを感じた。初夏の早朝は涼しさと暑さを両方いっぺんに感じて、不思議な気持ちになる。蒸し蒸ししていて暑いはずなのに、体の芯が温まりきっていないせいでふとした瞬間に寒いと感じることがある。僕はまだ目覚めきっていない街中の、誰もいない路地を独り歩いた。まだ午前6時。こんなに早い時間に目覚めているのは少年野球に勤しむ子供達とそれを支える大人達、それから短い命を必死に声を出して生きる蝉達ぐらいのものだろう。

初夏の早朝は、期待感と虚無感の両方をいっぺんに感じる。自分が一体何に期待しているのか、また何を失って虚無感を覚えるのか、はっきりとは分からない。それでも僕が28年間生きてきて、この感覚を感じなかった夏はない。だからきっと僕は毎年これからの自分になんらかの期待をしているし、毎年確実に何かを失っているのだ。


 少なくとも五年前の夏、僕は大きな支えを一つ失った。


「い、今の時代さぁ、本っていうのは廃れてきてるよね。」


叔父は少し吃りながら僕にそう言うのだった。


「映画とかさ、す、スマホの動画とか、今の映像ってのは、も、ものすごいもんね。そんな時代にぼ、ぼくはさ、活字で何が伝えられるんだろうって、す、すごく考えるんだよね。ぼ、ぼくが何書いたって読んでくれなきゃ意味ないしさ。」


叔父さんは本の話になるとよく喋った。叔父の話を聞くと、僕は毎度感心させられた。僕はただ昔から本が好きでよく読んでいたし、文章を書く事も周りの人よりはよく出来たので本を書いてみようと思っただけだ。それを叔父に伝えると、叔父は言った。


「い、いいんじゃないかな。本書いてる人なんてそんなもんだよ。何か一つの事を書きたいって考えてる人は、そ、それを書いたら満足しちゃうだろうし。作家ってのは評価されるストーリーを、こ、コンスタントに書いてかないといけないから、漠然と本が好き、とか書くのが好きとかいう人の、方が、む、向いてるんじゃないかな。」


 僕は叔父のお墓に水を流し、線香を焚き、花を添えてから手を合わせた。叔父は5年前の今日、突然心筋梗塞を起こして倒れた。叔父はタバコを吸っていたし、酒も飲んだ。だから生活習慣が原因で心臓が根を上げたのかも知れなかった。


僕の母は、


「本なんて書いてなければ、もう少し長生きできたかも知れないのにねぇ。」


と言っていた。実際叔父の書いていた本は売れ行きが芳しくなかった。叔父は親族の集まりがある度に、お酒を飲んで顔を真っ赤にしてはそれを笑い話のように語っていたが、実際は仕事がかなりまずいところまで減っていた事は何となく察していた。

親族が集まると、みんな叔父の事をいじった。特に母の姉の旦那さんは、大手企業の時期役員候補という事もあって完全に叔父の事を下に見ていた。

それでも叔父は陽気に笑っていた。

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