七話 とっぴんぱらりのぷぅ
「……君の求婚を受け入れることは、僕には出来ない」
単刀直入に僕はそう告げた。ごめんとも、すまないとも言わなかった。
謝ることなんか、できるものか。
それは傲慢な思い上がりに他ならないし、それは彼女を侮辱することに他ならない。
「……なんで」
ややあってから、夕声が、僕をまっすぐに見つめながら言った。
ひどく困惑した様子で。
「……なんで、あんたのほうがそんな、泣きそうな顔してるんだよ?」
そう指摘されて、僕は思わず自分の顔に手をやった。確かめるように頬を触り、目元に指を這わせる。
そうか。僕は今、泣きそうな顔をしているのか。
……そうと自覚した瞬間に、痛いほどの悲しみがやってきた。
「そんな顔、すんなよ」
夕声が、こちらを気づかうように言った。
「フラれたのは、こっちなんだからさ。失恋したのは、あたしのほうなんだから」
だから、あんたがそんな顔、すんなよ。
夕声はそう言った。
それは違う、と反論したかった。
失恋したのは僕も同じだと、そう言いたかった。
君を拒むことで、僕もまた君への恋を失ったのだと。
だけど、そんなこと言えるわけがなかった。
そんなこと言う資格が、僕にあるわけが。
「……うん、そっか。フラれたんだよな、あたし」
状況を確認するように呟いたあとで、「あはは、フラれちゃったなー」と言って、夕声は笑った。
強がった笑顔で――無理をして強がっているのが、瞭然に見て取れる笑顔で。
「バチが当たっちゃったのかもな」
バチ? と、僕がそう問い返すよりも早く、問わず語りに夕声は続けた。
「あたし、傲慢だったと思う。あんたに告白して答えを待っているあいだずっと、あんたにフラれるかもって、それがずっと怖かった。
だけどそんな風に不安な気持ちとは別に、あんたはきっとあたしを受け入れてくれるって、そう思ってた。あたしがあんたのこと好きなくらい、あんたもあたしのこと好きでいてくれるんじゃないかって、根拠もなくそう思い込んでたんだ。というか、『思い上がってた』んだ。
だからいま、そんな傲慢の報いをうけた気分。バチが当たったんだって気がする」
そう語り終えたあとで、夕声はまたも『あはは』と笑った。
違う、違う、それも違う。
僕はまたも心の中で反論する。
それは思い上がりなんかじゃない。
君が僕を好きでいてくれた以上に、僕は君に胸を焦がしていた。
『あんたの予想の中であたしと一緒にいた同級生って、女友達? それとも、男だった?』
あの日あの駐車場で、夕声は茶化すようにそう聞いた。彼女の友達が猫であることを知らず、てっきり高校の同級生と一緒にいるのだと思い込んでいた僕に。
ああ、そうとも。
あのとき、僕は彼女の友達が女子であることを期待していた。というよりも、男子ではないことを祈っていた。
自分の想像の産物でしかない夕声の男友達にすら僕はそのように嫉妬していて……つまり、あの頃にはもう、すでに僕は君に恋をしていたのだ。
……根拠がないなんて、そんな悲しいことを言うなよ。
僕と君が一緒に過ごしたこの数ヶ月のすべてが、余さずこの恋の根拠じゃないか。
「あーあ、フラれたフラれた」
夕声はもう一度そう言った。痛ましいほどの笑顔で。
もしもこの恋が一方通行のものだったらと、そう考えずにはいられなかった。
もしも夕声が僕を好きにならなかったなら、失恋の痛手は一人分だったはずだ。自分の心を誤魔化したまま僕は夕声との友情を謳歌し、いつか彼女が他の誰かのものになったときには、一人でひそかに傷心して、それで終わりだったのに。
この恋が一方通行なら、そんな悲しい笑顔を見なくてもよかったのに。
――僕はこの相思相愛を、心の底から唾棄する。
「……なぁ、なんとか言ってくれよ」
そのとき、夕声が僕に向かって言った。
「さっきから、あたしばっかり喋ってるじゃんか。こんなのあたし、不安だよ。だからあんたもなにか、喋ってよ。頼むから」
それまでの沈黙を恐れるかのような多弁から一点、あたかも哀訴の声と表情で夕声は言ったのだった。
無理してこしらえていた笑顔も、いつのまにか消えていた。
「それとも、あたしとなんか、もう話したくないのか?」
そんなことない、と僕は思った。
「そんなことない」と僕は言った。
だけど、それ以上先が続かなかった。
なぜなら僕には語る言葉もなければ、語ることを許された言葉もなかった。
夕声を気づかったり慰めたりする資格すら僕にはないのだ。
「……どうして、あたしはあんたの嫁になれないんだ?」
不甲斐ない沈黙に陥った僕に、夕声が聞いた。
「あんただってあたしのこと、嫌いではなかっただろ? あたしと一緒にいて、あんたも楽しかったろ? あたしは、こんなにもあんたが……なのに」
なのに、どうしてあたしじゃダメなんだ?
それがすべての核心だとでも言うように、真剣極まる目でこちらを見てくる。
核心。
そう、確かに問題の
……だけど。
境内を見渡すと、すでに談笑していたおばさんたちは帰ったあとだった。
作業着姿の業者さんも、いつもいる宮司さんの姿も見えない。
まるで夕暮れ時の神社のような。
「……答えないってことは、やっぱり、そうなのか?」
僕が黙っていると、やがて夕声が言った。
「やっぱり……やっぱりあんたは、あたしが人間じゃないから――!」
「それは違う!」
夕声の言葉を遮って、不甲斐ない我が口から言葉が迸った。
思うより先に、考えるよりも早く、まるっきり反射的に。
「それだけは違う! 何度も言ってる通り、僕にとって君は君だ! 人間だろうがキツネだろうが、そんなのは少しも――」
「だったら、なんであたしじゃダメなんだよ!」
今度は夕声が僕の言葉を遮った。
「それは……」
答えようとして、言葉を途切れさせた。
それを答えることによって救われ保たれるなにかと、損なわれてしまうなにかについて、懸命に想いを馳せる。
答えることによって僕は夕声の不安を拭うことが出来るかもしれない。
だけど答えることによって、僕は夕声を傷つけてしまうかもしれない。
悩みに悩んで、逡巡の上に躊躇いを重ね、時間だけがただ無為に流れていく。
「――わかった。もういい」
そうして、僕がなかなか結論を出せずにいると。
「ハチ」
夕声が、僕の名を呼んだ。
「もう、言葉で答えてくれなくていい」
「……夕声?」
彼女の方をみて、違和感に打たれた。
さっきまでの切羽詰まった様子とは打って変わって、その瞬間、夕声はなんだか奇妙に落ち着いた表情をしていた。
「違うなら、証拠を見せろ」
まるで周囲の静寂を吸い込んで、自分の内側に取り込んだかのような。
「『ハチ』」
もう一度呼ぶ。いつもの呼び方で。彼女だけがそう呼ぶ僕の愛称で。
それから。
「『椎葉八郎太』」
今度は、普段滅多に呼ばれることのない、フルネームで。
そうして、二種類の名前で僕を呼んだ、そのあとで。
「椎葉八郎太、あんたが本当にキツネであるあたしを受け入れていると言うなら、今この場で、あたしを思いっきり抱きしめろ」
夕声はそう言ったのだった。
いや、命じたのだった。
「あ……いや」
ややあってから、僕は一瞬の忘我から立ち直る。
そして。
「……ごめん。それは、できない」
命じられた通りに出来たなら、どれほど素晴らしいだろう。
彼女の背中に手を回して、可能な限り距離をゼロにしてくっつけたなら、それはどれほど素敵だろう。
だけど、出来るわけがないじゃないか。そんな破廉恥なこと。
「『椎葉八郎太』」
僕の返答を無視するかのように、夕声がもう一度名を呼ぶ。
「『椎葉八郎太』、あんたが本当に『キツネのあたしを受け入れている』のならば、お願いだから、『あたしを抱きしめろ』」
そうしてさっき言った台詞を、もう一度繰り返した。
二度目のそれを口にした時、夕声は、なぜだか絶望したような顔をしていた。
「ごめん、やっぱり、それはできないよ」
僕はそう答える。
「何度お願いされても、それは――」
「やっぱりか」
言い訳じみた言葉を続けようとした僕を、夕声のつぶやきが遮る。
「やっぱり、あんたはあたしが人間じゃないのを、あたしがキツネなのを気にしてたんだな」
夕声がこっちを見る。笑いながらこちらを見る。
いつもの温かい笑顔ではなくて、凍り付くような冷笑で。
「今のはな、呪だよ」
「……シュ?」
「そう。
怪談だの昔話に詳しいあんたなら知ってるだろ、と夕声。
「あたしは、名前を使ってあんたに呪をかけたんだ。『椎葉八郎太』ってあんたを呼んで、『あたしがキツネであることを受け入れているなら』と条件をつけて、それで行動を縛ったんだ。名前と条件で」
ピクニックの帰りの光景が脳裏に蘇った。
それに、水沼さんの台詞も。
『ねぇ椎葉さん、名前ってとっても素敵で、とっても特別なものですね』
「もちろん、高名な陰陽師や年経た化け狐ならともかく、あたしの力なんてたかが知れてるよ。あたしの呪なんて、子供がやるおまじない程度のもんでしかないさ。
でもな、今回あたしは、具体的な条件をつけて、具体的な行動を命じたんだ。なのにあんたは顔色一つ変えなかった。眉一つ動かさなかった」
どうしてかわかるか? と夕声。
「簡単なことだよ。つまり条件が満たされてなかったんだ。あんたはやっぱり、キツネであるあたしを受け入れてなんかいなかった。いくら口先で違うと言い張っても、もしかしたら自分でも『僕は夕声を受け入れてる』なんて思ってたかもしれないけど、だけど心のそこでは、あんたは――!」
そこまで言うと、夕声はピタリと笑うのをやめた。
笑うのをやめて、子供みたいに声をあげて泣き出した。
静かな境内に、悲しみに染まりきった泣き声が谺した。
そのあとで。
「……『とっぴんぱらりのぷぅ』」
夕声がそう唱えた瞬間、いつかと同じように、強烈な目眩が襲ってくる。
「ぅぐ……」
思わず、僕はまぶたを押さえて蹲る。
そうして数秒後に目を開けた時、栗林夕声という女の子の姿は、もはやどこにもなかった。
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