五話 夕声ちゃんが好きですか?
おやつの時間を挟んで、楽しかったピクニックもいよいよおひらきの時間が近づく。
子ダヌキトリオは口を揃えてまだ帰りたくないとごねたけれど、君たちの体力が残ってるうちに引き上げないとこっちが大変なのだ。
「おっし、そんじゃお前ら、最後にこれやろうぜ」
そしたら満足して帰るんだぞ。そう言って夕声が持ち出してきたのは、数枚の折りたたまれたダンボールだった。
子ダヌキたちから真っ黄色な歓声があがった。
「? それ、なんに使うの?」
出がけに玄関先に置いてあったのには気付いていたのだけど、用途が判然としない。子ダヌキたちの反応を見るに、荷物の梱包用ということはあるまい。
「これはな、ソリだよ」
「
「うん。これ使ってたつのこ山の斜面を滑り降りるんだ」
「おお!」
夕声の説明に思わずそんな声をあげた。それは、なんともいかにも楽しそうだ。
「時間もあんまりないし、いこうぜ」
はーい、と子ダヌキたちが元気に返事をして、小次郎君と桔梗ちゃんが控えめな声でそれに続く。
そんな子供たちを引率して、夕声はすぐ目の前のたつのこ山へと出発した。
「やれやれ。帰り支度は僕たちだけでやらなくちゃですね」
「まあまあ。夕声ちゃんが子供たちの面倒を見ていてくれるなら安心じゃないですか」
僕のぼやきに水沼さんが応じる。
そうして、残された我々は帰り支度をはじめた。
「今日はいろいろお話出来てよかったです」
誰かがレジャーシートにこぼした醤油を拭きながら水沼さんが言った。
「ですね。思えば今日は水沼さんとばっかり話してました」
「ふふ、そうかも。夕声ちゃんは子供たちの相手に忙しくしてたから」
なんだかんだで面倒見がいいんですよね彼女は、と僕が言い、夕声ちゃんはいいお姉ちゃんです、と水沼さんが言う。
そうしながら、水沼さんは使い終わったウェットティッシュをコンビニのレジ袋に捨てた。
「そういえば椎葉さん。たくさんお話出来たついでに、もうひとつだけお聞きしてもいいですか?」
「はい、なんですか?」
「告白とかされたんですか? 夕声ちゃんに」
集めていた使用済み紙皿とプラ食器を、思わず取りこぼした。
「ゆ、夕声からなにか聞いたんですか?」
「あら、聞かなくてもだいたいわかりますよ。あの『椎葉夕声』で」
ああ、言われてみればその通りだ。あれで気付かないほうがおかしい。
「でも、もしも夕声ちゃんが恋愛相談をするなら、やっぱり最初は私にでしょうね。人間と一緒になった異類婚の先輩当事者ですし」
あとは美羽さんもそうですけど、いま彼女は龍ケ崎にいませんから、と水沼さん。
美羽というのは僕の叔父の奥さんである。白鳥の。
「それにほら、なんといっても、私は夕声ちゃんの姉貴分ですからね」
だから椎葉さんも、私には話してくれていいと思いますよ。水沼さんは優しくそう言った。
姉貴というよりは、やっぱりこの人はひたすらにお姉さん的な存在だ。
「……はい、実はされました。告白すっ飛ばして、いきなり求婚でしたけど……」
水沼さんに促されて、僕はとうとうそう白状した。
作業の手を止めて、思わず俯いてしまう。
後ろめたさが胸を占めていた。水沼さんがどういう顔をしているのか、見ることが出来なかった。
「そうですか……それで、椎葉さんは、なんて返事をしたんですか?」
僕は黙って首を横に振った。
「まだしてないんです」
これが後ろめたさの原因だった。
夕声が婚姻届持参で乗り込んできた(乗り込んできたという表現で間違ってないはずだ)あの夜、僕が彼女に返した答えは、イエスでもノーでもなかった。
『すぐには返事をすることが出来ないから、しばらく待って欲しい』
そんなようなことを僕は彼女に言った。
保留。現状維持。問題の先送り。
たった一人で勇気を出して婚姻届をもらいに行き、そしておそらくはそれ以上の勇気を振り絞って我が家を訪ねてくれた女の子に対して、それはなんと空疎で不誠実な態度であっただろう。
いや、過去形ではない。過去形の表現にしてはいけない。
だって現在進行形で、僕はなにも決断できていないのだから。
「……水沼さんの旦那さんは、すごい方です」
今日この場にいない人について思いを馳せる。
水沼さんのご主人、龍ケ崎市立北竜台小学校で教鞭を執る若き熱血教師。水沼先生。
桔梗ちゃんにまつわる水沼夫妻の選択と決断は、情愛に満ちているだけでなく、凄まじい果断さで成された。
義を見てそれをするのに、迷っている暇などどこにあるのかとばかりに。
それに比べて、未だに夕声になにも答えられていない、僕のこの惰弱さときたら。
でも、だけど。
「……水沼さん。僕は、決断することによって彼女との関係が変わってしまうのが、嫌なんです。……いや、怖いんです」
あたかも告解する心地で、僕は水沼さんにそう打ち明けた。
そうだ、僕は夕声との今の関係をとても愛している。
だから、なにかを選択することでなにかが変わってしまうことが、僕にはおそろしい。
これ以上なんて望まない。
いや、これ以上なんて、想像もつかない。
ずっと今のままでいられたら、僕には、それが。
「椎葉さんは夕声ちゃんのこと、好きですか?」
そのとき、水沼さんが僕に言った。
「友達としてでも、それ以外の意味としてでも、どちらでもいいんです。椎葉さんは、夕声ちゃんが好きですか?」
水沼さんの口調には、質問というよりは諭すような響きがあった。
少しだけ言うのを躊躇したけれど、ややあってから、僕は意を決して答えた。
「好きです。大好きです」
「そうですか」
そう言うと、水沼さんはやっぱりにっこりと笑って、さらにこう続けた。
「ねぇ、椎葉さん。私は『椎葉夕声』って、とっても素敵な名前だと思いますよ」
水沼さんはそれ以上なにも言わなかった。
僕もなにも言わなかった。
それからまもなくして子供たちと夕声は戻ってきた。
子供たちと同様、夕声のジャージも汗と芝草に汚れていた。
どうやらただの引率でなく、彼女自身も
「やれやれ。君もまだまだ『たつのこ』だな」
「うっせ、『利根川のこっち側で一番野郎』」
不本意にして恥ずかしい二つ名を持ち出されて口ごもる僕の横で、「ここってとねがわのどっちがわ?」「さぁ?」「とんとけんとうもつかぬ」と子ダヌキトリオ。
僕に対して忠実な小次郎君がフォローになってないフォローをしようとして派手に失敗し、一連の様子を水沼さんと桔梗ちゃんの親子が眺めている。
そんな風にして楽しいピクニックは終わりを迎えた。
いや、そういえば、最後にもう一つ。
「ねえ夕声ちゃん、あれやってくれないかな?」
駐車場で車に荷物を積み込んでいる時に、水沼さんが夕声に言ったのだ。
「えー……別にいいけどさ、あんなの効果なんていっこもないぞ」
「いいのよ。おまじないなんだから」
そう言うなり、水沼さんは桔梗ちゃんの手をとって自分に引き寄せ、そのまま後ろから抱きすくめる。
桔梗ちゃんは少しだけジタバタしたけれど、しかし決して嫌ではないらしく、やがてされるがままになった。
いったいなにがはじまるのだろうと、僕は固唾を呑んで見守っていた。
すると。
「『水沼静』、それに、『水沼桔梗』」
夕声が二人の名前を呼んだ。なんだか少し改まった様子で。
そのあとで。
「水沼静、水沼桔梗。あんたたちは、きっと幸せで仲のいい親子になるよ」
それでおしまいだった。
いや、なんだったんだ、いまの?
なにかしたようには見えなかったけど……。
「おい、こんなのマジでなんの効果もないんだからな? それもあんなふんわりした内容じゃ特に……」
「いいのいいの。おまじないよ、おまじない」
難しい顔で念を押す夕声に、水沼さんはさらっと返す。
そのあとで、水沼さんは僕に向かって小さくささやいた。
「椎葉さん。名前って、とっても素敵で、とっても特別なものですね」
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