八話 こう見えて僕は。
開け放した窓の外は土砂降りの雨だった。風にあおられた雨粒が部屋の中に吹き込んで、窓際の床をびしょ濡れにしていた。
檻の中の二匹は……小次郎くんと桔梗ちゃんは、まだ目を覚まさない。
僕と夕声の会話も途切れていた。
雨音をバックグランドミュージックにして、室内には重い沈黙が鎮座していた。
夕声と共有する沈黙を重いと感じたのは、たぶんこれがはじめてだ。
『よりによってアライグマかよ……』
さっき夕声がそう毒づいていたのを僕は思い出す。
悔しそうに、そして同時に何かを諦めるように、夕声はそうこぼしたのだ。
そもそもアライグマとはどのような動物なのか?
アライグマ、北米原産種。
合衆国やカナダでは古くから国民的動物として親しまれている中型哺乳類。
本来は日本に生息しない動物だったが、1970年代に放送されたテレビアニメの影響で知名度が急上昇し、ペットとして大量に輸入されることになる。
しかし、ここで大きな問題が顕在する。
愛らしい外見とは対照的に、アライグマは非常に気性の荒い生き物だった。
凶暴で人には懐かず、むしろ飼い主相手でも平気で牙と爪を剥く。
原生地である北米大陸においても、身近な動物ではあっても飼育対象として選ばれることは極めて希であった。
このように彼らはペットとしてはまるで適さない存在なのだけれど、それが知られるようになったのは大量の個体が国内に持ち込まれた後だった。
結果として、大量のアライグマが遺棄されることとなった。
飼い主たちは家族として迎えたはずの彼らをあっさりと野に放った。
罪悪感を誤魔化すために『やはり動物は自然で暮らすのが一番』などと嘯く元飼い主も少なくなかったという。
身勝手な人間によって原産地から一万キロの距離を隔てた土地に放出されたアライグマたちだったけれど、しかし日本の自然環境だけは彼らの味方をした。
天敵のいない新天地で、アライグマたちはしぶとく生き延びた。生き延びて、捨てられた個体同士が出会って繁殖して、そうして個体数を増やし続けた。
近年、増えすぎた彼らは我が国において大きな問題になっている。彼らは四十七全都道府県に分布を広げ、各地で生態系や農作物に深刻な影響と被害を与えている。
「……現在、アライグマは特定外来生物に指定され、駆除対象となっている」
そうした現実を、僕はテレビのニュースで見て知った。
人間の無知と身勝手に振り回されて、挙げ句の果てに害獣扱い。ひどい話だなぁと思ったのを覚えている。
そのときは他人事だった問題が今、時間を隔てて僕の目の前にいた。
「そりゃ、憎まれて当然だよな」
獣の姿で横たわる桔梗ちゃんを見つめながら、懺悔するように呟いた。
自分が人間を代表して謝らなきゃとか、そんな風に思い上がった考えを持ったわけではない。
だけど、それでも僕は間違いなく人間だった。悲しいことに。
「……タヌキもだよ」
それまで黙っていた夕声が、ぼそっと言った。
「アライグマから憎まれる理由は、タヌキにもあるんだ」
「そうなの?」
「うん。ほら、タヌキとアライグマってすごく似てるだろ? あんただって、こいつらの片方がアライグマだってすぐには気付かなかったみたいだし」
確かにその通りだった。
「だから、アライグマがした悪さなのにタヌキのせいっだって誤解されることがよくあってさ。ちらっと見ただけじゃ見分けなんかつかないし。しかもタヌキのほうが知名度が全然上だから、濡れ衣は着せられる一方」
「ああ、そりゃ……タヌキからしたら迷惑極まりないね」
「うん。あとアライグマってかなり凶暴でさ、臆病なタヌキは自然界じゃ結構いじめられてんだ。でも、なんといってもタヌキには化けられる奴がいるから、そういう連中が化けられない仲間の代わりに報復すんの。今言った濡れ衣の恨みもあるから、結構エグいことやるんだよ。捕まえて皮剥いだりとか」
アライグマやっつけるために罠免許取った奴もいるって聞くし、と夕声。
なるほど、と僕は肯く。なるほど、これでようやく合点がいった。
「人間とタヌキ、この子にとってはどっちも敵だったんだね」
子ダヌキトリオの直観は、やっぱり間違っていなかったのだ。
「ねぇ、アライグマって、君たちみたいな
僕の問いかけに、夕声は黙って首を横に振った。
「アライグマが化けるなんて話、聞いたこともない」
夕声は続けた。
「たまにいるんだよ、突然変異みたいにいきなり化けだす動物がさ。だけど突然変異は結局突然変異でしかなくて、そいつの
なんなら賭けたっていい、と夕声はさらに付け足して強調した。
たった一匹の化けアライグマの孤独を僕は想像してみた。
群れで生きるタヌキと違って、アライグマは単独行動の生き物だ。仲間のぬくもりも得られずに日々をなんとか生き抜いていたら、ある日突然、憎いはずの人間に化ける能力を手に入れていた。
そのとき、この子は喜んだのだろうか? 嘆いたのだろうか?
「……いや、孤独ではなかったか」
もう一度、僕は檻の中の二匹に視線を移した。
並んで眠っている二匹に。
ひとりぼっちの女の子と、そんな女の子に手を差し伸べた男の子を見る。
「……なんともまぁ、尊いじゃないか」
関八州の守護者にして板東の大英雄。義理人情と義侠心を併せ持つ、男の中の男。
桔梗ちゃんにとって、小次郎くんは本物の平将門公だったのかもしれない。
「……ねぇ、夕声」
だから、それが極めつけの愚問であると知りながら、口にせずにいられなかった。
「……この子たちが、これから先も一緒にいられる可能性って――」
「あるわけないだろ、そんなの!」
夕声が、苛立ちもあらわに僕の言葉を遮った。
「いいか? アライグマがタヌキを嫌うのと同じように、タヌキの方もアライグマを嫌ってんだ。理由はさっきあらかた説明した通り、さらに付け加えるなら
人間で言うところの差別感情とか、そういうのがあんだよ、と夕声。
「そんな薄汚いアライグマに、大事な大事な未来の大親分が誑かされ――どっちが誑かしてどっちが誑かされたのかなんてこの際どうでもいい――たんだ。タヌキどもにとっちゃすげえショックだし、すげえ頭に来る。というか事実激おこだ。こいつらの仲を認めるなんて有り得ないし、引き離すためならなんだってやる」
そこまで一気にまくし立てた夕声は、最後にあざ笑うようにこう言った。
「……はっ、まるでロミオとジュリエットだな」
夕声がなにをあざ笑ったのか、なににそんなにも苛ついているのか、僕には嫌になるほどほどわかった。
彼女はどうしようもなくままならない現実に苛つき、その現実に対して無力な自分自身をあざ笑ったのだ。そして今のこの状況が含有するすべてに対して傷ついていた。
「……あんたはいい奴だよ」
ややあってから、そこまでとは打って変わって消沈した声で夕声が言った。
「あんたは、すごくいい奴だよ。良い奴だし、それに善い奴だ。だから今回だってきっと『当たり前』の良心でもってこいつらに同情して、『当たり前』の良識でもってなんとかしてやりたいと考えてる。……でも、それじゃダメだ」
夕声は力なく首を振った。
「こいつはあんたの『当たり前』が通用しない問題だよ。『自分は大人だから子供の味方をする』なんて、たったそれだけの理由じゃあまりにも弱いし、足りない。あたしらに出来るのは、せいぜい爆竹娘の助命を嘆願してやることくらいだ」
それが限界なんだよ、ハチ。
諭すように、言い聞かせるように夕声は言った。
僕に対してというよりは。彼女は自分自身に対して諦めを言い聞かせていた。
夕声が少しも納得していないことは明白だった。
当たり前だ、僕をいい奴だと言ってくれた女の子は、僕に負けないくらいとびきりにいい奴なのだ。
しかも彼女は僕と違って小次郎君と親しくしている。その心痛はいかばかりか、僕には想像もつかない。
だけどこれもまた僕とは違って、夕声はタヌキとアライグマの確執、その問題の根深さを理解している。
この問題に出口がないことも、自分には諦めるしかないことも。
タヌキとアライグマの異類婚姻譚が、決して成就しないということも。
夕声の笑顔が見たいな、と僕は思った。彼女の笑顔はいつだって僕に元気をくれる。
だけどそれは無理な注文だ。笑顔どころか、彼女は今にも泣き出しそうな顔をしている。
――もしもこのまま諦めたら、僕はこの子の笑顔を永久に失うかもしれない。
そう考えた瞬間、恐怖に駆られた。
もしそうなったら、それは僕にとってもの凄い痛手だ。
絶対に代えの利かない損失、埋め合わせようのないマイナス。
二度と再生されない喪失。
……そんなのは、すべてを失うよりもなお最悪だ。
「……あのさ、夕声」
だから、僕は言った。
「僕はね、平家物語が好きなんだ」
「はぁ?」
夕声が、素っ頓狂な声をあげて僕を見た。
「おいハチ、あんた、なんで急にそんなこと……」
「僕は平家物語が好きだ。でも、一番に好きな英雄は牛若丸でも平清盛でもない」
夕声はなにか言いたそうだったけれど、構わずに続けた。
「源平合戦が源氏の完全勝利に終わってから数年が経った頃、ある若武者が平家の落ち武者狩りを命じられて九州の山奥まで出向くことになった。長い旅の果てに平家残党の隠れ里を発見したその若武者は、しかし討伐対象であるはずの平家の落人たちにすっかり同情してしまう。若武者は鎌倉に『平家は皆殺しにした』と嘘の報告をする。そしてあろうことか、平家の人々を助けて村で一緒に暮らし始める」
「お、おい」
「源氏の若武者は、いつしか平家の姫君と恋に落ちる。二人は
ちなみにこの若武者はあの那須与一の末弟で、現代にも残るこの村には『那須』姓の世帯が多数存在するという。歴史のロマンを感じるね。
「美しい悲恋物語、本邦のロミオとジュリエットだ。このエピソードを知ったのがきっかけで、僕は平家物語を好きになったんだ」
そう締めくくった時、夕声は怪訝を極めた顔をして僕を見ていた。
「いや、確かにいい話だけど……でも、なんで今そんな話をするんだ?」
戸惑いきった様子の夕声に、僕は言った。
というか、宣言した。
「つまり、こう見えて僕はロミオとジュリエットには肩入れしたくなるタイプなんだ」
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