六話 小次郎と桔梗
『ひょんなことから』という慣用句を日常で用いることは滅多にないけれど、僕が子ダヌキたちの支持を獲得するに至った経緯は、まったく『ひょんなことから』と表現するほかないだろう。
三人の子供たちは熱烈に僕を慕うようになった。もともと夕声を介して仲良くはしていたのだけれど、あの日を境にして彼らは夕声以上に僕に懐いた。
「こいつら、あたしの言うことは聞かなくてもあんたの言うことは聞くんだもんな。ほんと、やってらんないぜ」
やれやれ、と僕の口癖を真似して夕声は肩をすくめた。
やってられないと不満を言いながらも、彼女の声からは目一杯の嬉しさが滲んでいた。
僕が子ダヌキたちに認められたことを、夕声はとても喜んでくれているようだった。
そのようにして五月の残りの日々も過ぎていった。
事件が起こったのは、六月に入ってすぐのことだった。
※
六月の最初の日曜日、僕はコロッケ電車に乗って出かけた。
龍ケ崎商店街では、毎月第一日曜日に商工会主催の『まいんバザール』なるイベントが行われている。
『龍ケ崎コロッケを一人でも多くの人に食べてもらう』という目的のもと開始されたこのイベントには有志が演目を披露するステージも設けられていて、そのステージで子ダヌキのトリオが学校のお友達たちと一緒に劇をやるのだという。
「みにきてね」「きてね」「まってるー」
やれやれである。あんな風に言われたら、来ないなんて選択肢はないじゃないか。
イベント会場であるにぎわい広場は商店街のちょうど真ん中あたり、水沼さんが働いているお店のすぐ近くにあった。
正午の少し前に到着したときには、すでに広場はたくさんの人たちでごった返しの有様だった。フリーマーケットや飲食系の屋台がいくつも並んでいて、みんないかにも楽しそうに店から店へと漂流している。
そうした屋台の一つで、見知った顔を見つけた。
「水沼さん」
「あら」
いましも揚げたてのコロッケを油からあげた水沼さんが、三角巾の下に笑顔を咲かせて僕に会釈した。
「まいんも出張店出してるんですね。少し歩けばすぐそこにお店があるのに」
「ええ、まいんコロッケは龍ケ崎の代表選手ですもの。さしずめグルメ分野の野口啓代選手です」
愛すべきコロッケを龍ケ崎出身のオリンピックメダリストにたとえて、水沼さんは揚げたてのそれを一つ僕に勧めてくれた。
お礼を言ってさっそく一口かじると、スイートポテトのような風味と食感が口いっぱいに広がる。
茨城県産さつまいもを使用したおさつコロッケです、と水沼さんが説明してくれた。
「静ちゃん、こっちの油の温度は、これでいいかね?」
そのとき、別の鍋を担当していたおばさんが水沼さんに話しかけた。
水沼さんはほんの一瞬鍋に目をこらしたあとで、「火、少しだけ弱めたほうがいいかもです」と返した。
温度計の一つも持ち出すことなく。
「ほら、前に言ったピット器官ですよ。サーモグラフィで温度、見えるんです」
油の温度管理はお手の物です、と水沼さんは得意げに言った。うーむ、現代生物学。
※
イベントステージは広場の一番奥にあった。
僕が到着したとき、ステージの上では市内のおじいちゃんバンドが加山雄三の曲を演奏していた。
取り立てて上手な演奏ではなかったかもしれないけれど、平均年齢70歳越えのメンバーは全員、心の底からこの舞台を楽しんでいた。
「おっせえよ。間に合わないかと思ったじゃんか」
客席に夕声の姿を見つけて隣に座ると、彼女はほっとした顔をしたあとでそんな文句を言ってきた。ごめんごめんと謝りながら、僕はまいん出張店で買ってきたコロッケを差し出す。
夕声はなおもぶつくさ言いながらりんごコロッケをつまんだ。
「あの子たちの出番は?」
「このじいちゃんたちのあとだよ。多分いま、ステージ裏で準備してるとこ」
加山雄三のあとで、おじいちゃんバンドはさらに一曲演奏した。サイモン&ガーファンクルの『冬の散歩道』。オリジナルよりもだいぶスローテンポで英語の歌詞も下手くそだったけれど、それでも彼らは見ていて気持ちよくなるほど楽しそうに演りきった。
演奏が終わったとき、客席からは惜しみのない拍手が飛んだ。そうしようと思うよりも先に、気がつけば僕も手を叩いていた。
「さ、いよいよあいつらの出番だぞ」
「うん」
おじいちゃんバンドが拍手に見送られてステージを去った、その数分後。
『続いては、北竜台小学校演劇クラブのみんなに登場してもらいましょう!』
アナウンスの紹介を受けて、子供たちがステージに飛び出した。
人数は二十人くらいで、学年も性別もばらばら。みんな揃って武者っぽい格好をしている。
演目は郷土の英雄である平将門公が主人公の劇だった。小学生の演劇にしては渋すぎる題材だけど、史実のディテールはあらかた省略されて将門公のかっこよさだけがフィーチャーされたものらしい。
赤い衣装で揃えた将門公の軍勢の中に、我らが子ダヌキトリオの姿があった。
三人とも、客席からでもわかるほどカチコチに緊張している。
「がんばれ……!」
三人の緊張がこっちにまで伝染したようだった。僕は手に汗をびっしょりと握りながら、口の中で念じるように、がんばれ、がんばれと繰り返していた。
しかし、それにしても。
「……なんか、すごくない?」
進行する劇を見ながら、感心してそう呟いていた。
もちろん、小学生の出し物なので衣装も小道具も手作り感に溢れたものだ。だけどそれでも、子供たちの劇は想像していたよりもずっと立派なものだった。
中でも特に目を引くのは主演の子供、最年長の将門公役の男の子だった。一番深く役に入り込んでいるのに、同時に他の子供たちに常に気を配っているのがわかった。さっきも緊張してテンポを外した竹をさりげなくフォローしてくれていた。
あれはもう、いわゆる神童ってやつじゃないのか?
「なぁハチ、ちょっと驚くこと教えてやろうか?」
そのとき、夕声が横から言った。なんだか得意そうに。
「あの将門、すごいだろ?」
「うん」
「あいつ、タヌキだぞ」
「は?」
まじで? と僕。
まじで、と夕声。
「三月の宴会の時に文吉親分っていたろ? 小貝川三大親分の一人で……」
「……ああ」
思い出した。というか忘れたくても忘れられない。
「東北妖怪スターシリーズの……」
「そうそう。あの将門……小次郎っていうんだけど、あいつはその文吉親分の甥っ子」
得意げに言った夕声の顔とステージ上の新皇将門をしきりに見比べてしまう僕であった。だって仕方ないじゃん。小次郎少年が発散する優等生オーラは、僕の知るタヌキのイメージからそれほどまでにかけ離れていたのだ。
「龍ケ崎のタヌキたちにとって、小次郎の奴はまさに期待の星だ。学校じゃ学級委員とかやってるし。すごいだろ、タヌキが人間差し置いて学級委員だぞ? あいつはいま小六だけど、将来はタヌキの常識を変えるような大親分になるって目されてる」
「はへぇ……」
驚くやら感心するやら、僕はただただ間抜けな返事をするばかりだった。
やがて劇はクライマックスに突入するのだけど。
そこから先は、ここまでに輪をかけて趣向が凝らされていた。
仮面が登場したのだ。
ついに討たれた小次郎少年演じる新皇将門公は、討たれたと同時に真っ黒な仮面を装着して怨霊将門と変じた。
そうして味方の手勢と敵方の朝廷軍が囃し立てる中で、ステージ上を右から左へと早足に動き回りながら、客席に向かって物々しい怨念をアピールする。
「なんか、この部分だけ雰囲気違うというか、もの凄く凝ってない?」
「わかるか? 実はこの仮面の下りだけは割と新しいんだよ。ホクショーOBの振付師が考案したとかで、元々あった劇に後付けでくっつけられたの」
「なるほど。それでここだけ全体の構成から浮いてるのか」
「そうそう。でも結構見応えあるだろ。この後は仮面だけ棒の先っちょにくっつけて振り回すんだ。生首が飛ぶのを表現してさ」
いや、ネタバレすんなし。
さて、夕声の言った通り、やがて黒子役の男の子が棒を持ってやってきた。
そうして、黒子に渡すために小次郎少年が仮面を外そうとした、その瞬間。
けたたましい破裂音があたりに響き渡った。
「な、なんだ!?」
反射的に周囲を見渡す。
すると。
「バーカ!」
目に飛び込んできたのは、一人の女の子が火のついた爆竹をステージに投げ込む決定的瞬間だった。
数秒後、またしても破裂音、そして煙。
舞台の上の子供たちから悲鳴があげる。
「バカバカ、バーカ!」
爆竹犯の女の子が再び叫んだ――その悪罵の声に僕はゾッとする。
六年生くらいだろうか、見たところ将門役の小次郎少年と同じ年頃の女の子だった。
小柄で痩せ型の、少々野暮ったい印象がある以外はいたって普通の小学生女児。
そんな普通の女の子に僕がひるんでしまったのは、彼女が目元と声に漲らせている感情のせいだった。
爆竹と一緒に投げかけられた「バーカ!」という悪態にも、いましもステージを睨み付けている目にも、凄まじい悪意が籠もっていた。
あるいは、恨みと呼ぶべき感情が。
それを見た瞬間、僕の心に押し寄せたのは言葉にできない悲しみだった。
そしてそれが去ったあとには、どこにも持って行きようのない憤りが残された。
こんな小さな子にあんなに悲しい目をさせるなんて、この子の周りの大人はいったいなにをやってるんだ?
「わぁぁぁぁん……!」
小さな泣き声が、激情にとらわれかけた僕に我を取り戻させた。
爆竹の音に驚いたのだろう。ステージに目をやれば、子ダヌキトリオの紅一点である梅がへたり込んで泣き出していた。
そんな梅を松と竹は必死に慰めているけど、その二人だって今にも泣き出しそうな顔をしている。
そして、さらに由々しきことには。
「やべ……! あいつ、尻尾が出ちまってる!」
夕声の指摘通り、梅のお尻からはチラチラと尻尾が見え隠れしていた。
「嫌いだ! お前らみんな、嫌いだ!」
焦る僕たちを尻目に、例の女の子がまたも叫んだ。
再び取り出される、チャッカマンと爆竹の束。
そして、点火。さらに、着火。
「おいおいおいおいおい!」
「じょ、冗談じゃないぞ!」
僕と夕声、二人同時に悲鳴じみた声をあげる。あと一回でもあれが炸裂したら、今度こそ梅の変身は完全に解けてしまうだろう。しかもこの大入りの観衆の前で。
「や、やめ――」
ほとんど懇願するような調子で僕が制止を叫ぼうとした、そのときだった。
「やめろ!」
僕の声にかぶさるようにして、別の声が叫んだ。
「やめろよ……ね、やめよう?」
はたして、声の主はステージ上の平将門公、神童タヌキの小次郎少年だった。
小次郎少年はまっすぐに爆竹少女を見据えて、諭すように言った。
「やめようよ、桔梗」
言いながら、小次郎少年は被ったままになっていた怨霊の仮面を外した。
「こ、コジロウ……?」
将門の小隊が小次郎少年だと知った爆竹少女の目から、憑き物が落ちるように恨みの感情が抜け落ちていく。
……と、そのとき。
「んきゃっ!」
火のついた導火線が燃え尽き、爆竹が少女の手の中で破裂したのだった。
「桔梗!」
小次郎少年がステージを飛び降りて少女のもとに走る。
「桔梗、大丈夫? 怪我してない?」
「う、うん……」
爆竹少女の手を取って、怪我の有無を確認する小次郎少年。心から案じる様子の少年に、爆竹少女もされるがままに任せている。
二人の間になんらかの信頼関係が存在するのは、誰の目にも明白だった。
それから。
「あっ……」「あ……」
少年と少女は、自分たちがすっかり注目の的になっていることに、ようやく気付いた。
「あ、あの……その……ええと……」
小次郎少年は、しばし言葉を探したあとで。
「お騒がせいたしました!」
謝ると同時に深々と頭を下げて、その場から走り去ってしまった。
爆竹少女の手を引いて。
「な、なんだったの?」
「あたしに聞くなよ……」
主役の去ったイベントステージは、水を打ったように静まりかえっていた。
やがてどこからともなくまばらな拍手が巻き起こり、それは会場全体に伝播する。
誰も状況を正確に把握出来ないまま、残された人々は半ば思考を停止させながら拍手を送り続けた。劇的に退場したドラマの主人公たちに向かって。
「ドラマティックが渋滞してる……」
そう呟いた僕もまた、やめるタイミングを見失ったまましばらく手を叩き続けた。
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