四話 蛇沼公園の女王

 僕の暮らすニュータウン北竜台に、蛇沼公園という名の公園が存在する。

 住宅地のど真ん中にあるにはちょっと不自然なほど大きな公園で、さらに園内は人工物が希薄で雑木林や小川などの自然ばかりが濃密だ(あるいはこの公園も意図的に『昔』を切り取って保全している場所なのかもしれない)。

 いつでも神秘的な気配が立ちこめるこの場所をことさら神秘的に演出しているのが、園内最深部に見える大きな沼だ。園名にもなっている『蛇沼』という名前は、細長く曲がりくねった形状に由来するとされている。表向きには。


 さて、五年前のある冬の夜、一人の男がこの沼で自殺を図った。

 男は近くの小学校で三年生のクラスを担任する若い教師だった。

 なんとなく教員免許を取得してなんとなく先生になりましたという教師も多い反面、この男は教育への理想を胸に宿した熱血漢だった。自宅には山田洋次監督の『学校』シリーズが揃っていた。

 しかし、夢かなって参入した教育の現場は、彼の想定と覚悟を遙かに上回って過酷だった。想定していなかった種類のストレスをいくつも味わう羽目になったし、覚悟を殺すような諦めと妥協を強いられることは日常だった。

 理想が確かであれば確かであるほどに、現実が彼を打ちのめした。


 そうしていつものように残業で遅くなった夜、帰宅途中のコンビニでおにぎりと幕の内弁当を温めてもらっていた、まさにその瞬間。

 まるっきり唐突に、彼のすべてが限界に達した。

 コンビニの駐車場に車を停めたまま、彼は徒歩で近所の公園に向かい、そのまま迷うことなく暗い沼へと飛び込んだ。


 そのようにして若い熱血教師は沼底の深みへと沈んでいった……はずだった。


 意識を取り戻した時、彼は岸辺の草の上に仰臥する形で横たわっていた。


「あ、気付かれました?」


 顔をあげると、すぐそばに女が座っていた。

 和服姿の美しい女だった。真っ暗な闇の中なのに、なぜだか彼はその女の美しさを二つの まなこに捉えることができた。


「この沼で身投げなんて、いつ以来かしら。戦後とか高度成長期とかそういう時代にはまだ結構あったのだけど、でもほら、最近は自殺の方法も増えたでしょう? なんといっても多様性の時代ですものね。娯楽の多様化、性の多様化、自殺の多様化……いずれにせよ、沼に身投げっていうのは昨今ちょっとレトロ過ぎるもの」

「……あの、あなたが助けてくれたんですか?」

「ええ、余計なお世話かとも思ったのだけれど。……余計なお世話でした?」


 女が悲しげに眉をひそめるのを見て、熱血教師は反射的に首を横に振った。とんでもない、助けてくださってありがとうございます。


「それでその、あなたは……」

「ああ、すっかり申し遅れまして。私はね、こういうものです」


 言って、女はべーっと舌を出す。

 長い舌は、先端が二股に割れていた。スプリットタンというやつだ。

 女は舌の先端を器用に交差させてみせた。


「ええと……元ヤンかなにかですか?」

「どうして元ヤンが夜の沼で人命救助してるんですか?」

「では、ビジュアル系のバンドをやってらした、とか?」

「つくづく察しの悪い人だわぁ」


 呆れた様子もあらわにそう言ったその後で、女はにっこりと笑って自己紹介した。


「私は、古くからこの沼に棲む くちなわでございますよ」


 いわゆるヌシというやつですね。女はあっけらとそう明かした(最近わかってきたのだけど、この土地の化生たちはしばしば簡単に正体を明かす)。


 さて、それからはじまったのは長い長い身の上話の時間だった。

 自称蛇女はたいそうな聞き上手で、自殺を決意するに至った教師の苦悩を一つ一つ、解きほぐすようにして聞き出した。

 真夜中の水辺で行われる対話は一種のセラピーだった。教師はたまりにたまった鬱憤を問わず語りに吐露した。


 語りながら、いつしか彼は泣いていた。


「つらかったんですね」


 すべてを聞き終えたあとで、蛇女は泣き続ける教師の背をそっと抱きしめた。

 そのあとで、同じ背中を、今度は励ますようにぱんっと叩いた。


「ねぇ先生? もう少しだけ、もう一回だけ、ファイトっ! してみませんか?」


 そう言って蛇女がどこからともなく取り出したのは、つやつやとした光沢を放つ円いものだった。彼女はこれを小さな巾着袋に入れて教師に握らせた。


「これ、貸してあげます。お守りです」

「……お守り?」

「はい。霊験あらたか、御利益は絶対保証。でも、袋の中は見ちゃダメです」


 ともかく、蛇女の励ましを受けた教師は、死ぬのをいったん保留することにした。

 死ぬ前にもう一回だけ、ファイト! してみようと決めたのだ。


 そうして彼は翌朝もストレス渦巻く学び舎へと出勤した……のだが。

 その日から、教師は恐ろしいほどの幸運に見舞われることとなる。


 まずはじめに、周囲の彼を見る目が急速に変化した。

 彼としてはそれまで同様にしていたつもりなのに、生徒が、同僚教師が、それにPTAをはじめとした保護者たちが、彼の言動をやたらと好意的に受け止めるようになった。

 これまで放置され続けていた熱意や真面目な勤務態度が、なぜだか一気に評価されはじめた。いくら熱弁しても届かなかった説教が、いきなり生徒らの胸を打ちはじめた。


 それに、やたらと都合のいい偶然が相次いだ。前日の夜にテレビで見た話題が翌日の職員会議で議題にのぼったり、忘れ物を取りに戻った駐車場で児童の危険な悪戯を目撃してあわやでこれを防いだり、遅刻した朝に行き倒れのご老人を助けて感謝状をもらったりもした。

 言うまでも無く、これらの偶然もまたすべて彼の評価へと結びついた。


 かくして日常からストレスは去った。

 また、最初こそわけのわからない幸運によって与えられていた評価だったが、それによって自己肯定感を獲得した彼は、次第に与えられる評価にふさわしい内面を備えるようにもなった。

 前向きな自信とみなぎる積極性、北竜台小学校 ホクショーのミスターポジティブとは彼のことだった(というか、何度も書いているように彼はもともと熱血野郎だったのだ。ちょっと心が折れかけていただけで)。


 教師は幸運に見舞われて、見舞われて、見舞われ続けた。

 蛇女のお守りのおかげだということは、疑いようもなく明らかだった。


「へぇ、また教頭先生に褒められたんですかぁ。よかったですね」


 あれ以降、教師は足繁く蛇沼公園に通うようになっていた。どんなに忙しくとも三日と空けることなく、可能な限りほとんと毎晩。

 そうして彼が日々の出来事を報告すると、蛇女はいつも嬉しそうに聞いてくれた。


「これもみんな蛇さんのおかげです」

「なにをおっしゃいます。ただ先生が立派なんですよ」


 二人が出会ってから、すでに一年が過ぎようとしていた。

 はっきりと証拠を見せられたわけではなかったのだけど、彼女が蛇であるという突拍子もない話を教師は信じていた。

 どんなに親しくなっても教師が蛇女と会うのはいつも夜の蛇沼公園だったし、公園に来た彼が沼に向かって呼ぶと、いつの間にか彼女は彼のすぐ背後に現れているのだ。

 音もなく、まるで蛇が這い寄るように。


 彼女の本性が蛇であるという告白を教師は信じ、その事実を受け入れている。


「本当に、とっても立派になられたわ。つらい人生から逃げ出すために身投げなんてしてみたものの全然死にきれなくて挙げ句に助けてくれた女に泣き言を聞かせていた惨めったらしくて情けないヘタレ男とは、もうまるっきり別人みたい」

「昔の自分とはいえそこまで辛辣に言われると傷つく……ま、全然否定できませんけど」


 困ったような照れたような顔になる教師に、蛇女がくすくすと笑う。

 そのあとで、彼女は寂しそうに言った。


「でもこれで、私の役目もそろそろ終わりですね」

「え?」

「だって先生はもう、私がいなくてもやっていけそうですもの」


 それから、蛇女は語り出す。

 気まぐれで助けた人間 ひとに、情が湧いて肩入れをして……そうしてズルズルと関わり続けること早一年。別れよう、もう別れようと思いながらも、それでも決心つかずに巡る季節を見送って……

 だけどもう、優柔不断はこのくらいで終わりにしなければ。

 なにしろ、御身は人で、この身は畜生。棲む世界が違うのですから。


「思い立ったが吉日と申しますし、今夜今晩いまここで、お別れしましょう。というわけで、別れの句など一首詠みますね……えー、『蛇沼の 暗しみなもに――』」

「結婚しましょう!」


 詠まれはじめた別れの句を遮って、教師が蛇女の手を取って叫んだ。


「……え?」

「結婚しましょう!」

「え? え? え?」

「結婚! しましょう!」


 交際の手順を二つも三つもすっ飛ばして、いきなりのプロポーズだった。

 しかしそれが勢いだけのものではないことは、汗ばんだ手と真剣そのものの瞳が証明していた。


 熱血教師の熱血のすべてが、今この瞬間だけは学校も生徒も教育委員会も完全に忘れ去って、目の前のただ一人の女にぶつけられていた。


 だから。


「ひゃ、ひゃい。よろしくお願いいたします」


 気づいた時には、蛇女は呆けたようになって彼の熱血を受け入れていた。



   ※



「以上がうちのなれそめです。先生と……ダーリンと私の」


 そう締めくくって、水沼さんは赤くなった頬に手をやった。幸せそうにはにかむその仕草には少女のような印象すらあった。

 彼女が戦前から生きる『蛇沼の女王』だとは、やはりとても信じられなかった。


「ほら、蛇って変温動物じゃない? だから暑苦しいほどに熱血なあの人って、私には結構お似合いなのよね」

「はいはい、ごちそうさん。あー、お熱いことお熱いこと」


 水沼さんの惚気を受けて夕声がパタパタと顔を仰ぐ。人外の惚気 のろけはあまりにもぶっ飛びすぎていて僕にはちょっとついていけない。


「でも意外だな。『水沼』って、旦那さん側の名字だったんですね」

「ええ、よく言われるんですよ。『水沼静』って、まるっきり名は体を現してるのにって。だから、うふふ、きっと運命だったんでしょうね。蛇沼が水沼になるのは」

「ハチ、余計なこと言うな。こうなった静さんはなんでも惚気につなげてくるぞ」


 やれやれ。


 しかし、聞けば聞くほど異類婚姻譚だ。

 しかもこれは、とびきりオーソドックスな。

 蛇女房。


「そういえば、旦那さんに渡したお守りって、なんだったんですか?」

「ああ、それはね。これですよ」


 言うなり、水沼さんは右の目元に手をやって、そしておもむろに取り外した。

 眼球を。


「ひっ……」

「あ、びっくりさせちゃいました?」


 当たり前だ。いきなり目の前で目ん玉外して見せられたら誰だってびっくりする。


「ですよね。だからダーリンに渡した時にも袋の中身は見るなって言ったんです。見たらびっくりしちゃうから」


 そう言う水沼さんの手の中で目玉がぎょろっと動く。

 後に旦那さんとなる水沼先生は彼女の言いつけを守ったに違いない。こんなの見てたらびっくりじゃすまない。


「でも、そうか……思い出しました。『蛇女房の目玉 まなぐだま』の逸話」


 古今東西に分布する蛇女房の異類婚姻譚の中で、目玉は常に重要なアイテムとして登場する。

 正体がばれて去る間際、蛇女房は愛する夫に片方の目玉を残していく。これはいわば女房の形見のような代物で、渡された目玉をなくしてしまわない限り、夫には破格の富や幸運が舞い込み続けるのだ。


「お若いのによくご存知ですねぇ。そうですそうです、蛇女房の目玉ってラッキーアイテムなんですよ。とはいっても、私は当時まだ全然女房じゃなかったんですけど」


 うふふ、運命、と水沼さん。夕声の言った通り、ほんとに隙あらば惚気るな。


「おい、ちょっと待てよ」


 そこで、夕声が口を挟んだ。


「目玉をなくさない限りって、昔話だとなくしちゃう展開もあるってことか?」

「うん。というか、まず確実になくしちゃうね。殿様とかの権力者に取り上げられちゃう場合もあるけど」

「ひっでえな。それで、なくしたあとはどうなるんだ?」

「沼に帰った女房のところに残ってるもう片方の目玉をもらいにいくんだよ。で、両方の目玉を渡してしまった蛇女房は目が見えなくなってしまう」

「ますますひどいじゃんか! 怒れよ蛇女房! というか断れよ、渡すなよ!」


 昔話に真剣に腹を立てる夕声。まぁ、その意見にはおおむね同感だけど。


「まぁまぁ。でもほら、目玉がなくなっても、私たち蛇にはまだピット機関が残されてるでしょう? 赤外線でね、サーモグラフィーみたいに熱源が感知できるんですよ。だから視力を失っても、最悪なんとか生活はしていけるから」


 頭がこんがらがるから昔話を現代生物学でフォローするのはやめてほしい。


「でも椎葉さん、どうしてこんな話を聞きたがるんです? こんなおばさんの恋バナなんて、あんまり面白くないでしょう?」

「こいつはそういう話が好きなんだよ。怪談話とか、イルイコンインタンとかさ」

「あら……そっか、恋バナじゃなくて怪談話として聞いてらしたんだ……」

「ち、ちがいます! とってもときめく恋バナでした!」


 シュンと眉を落とした水沼さんに、慌てて弁明する僕である。


「いいんですいいんです。私なんてどうせ怪談です、ホラーです。口裂け女とかトイレの花子さんとかゴジラとかと同じジャンルの存在なんです。どうせね、どうせ……」

「み、水沼さぁん……」

「うふふ、冗談ですよ。でも、そうですか。椎葉さんは怪談に興味がおありですか」


 でしたら、と水沼さんは続けた。


「でしたら、一つ新鮮なのがありますよ。ダーリンから聞いた話なんですけど」

「水沼さんの旦那さんて、小学校の先生の?」

「はい。ですからこれは、怪談としては王道中の王道ですね」


 ずばり、学校の怪談です、と水沼さんは言った。

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