-2話 提案は誰のために
ようやく住処に帰りつき、二人をリビングに招き入れる。帰りを待つ人がいない空間は外と変わらず寒々しく、俺は湿ったコートを着たままリモコンのスイッチを押した。家屋と同様に古いエアコンがうなり、風を吐き出し始めたが、広いリビングを暖ためてくれるまでは時間がかかる。その間に二人が体調を崩しかねなかったので血の気がない顔色をしている田上に提案した。
「リビングを出ると正面がバスルームだ。それと玄関近くの
「そうさせてもらうわ」
彼女は水を吸って重くなったコートを脱ぎながら答える。雪道に不釣り合いなパンプスを履いていただけに中はスーツだった。ただ、あちこちぬれた上によれていたので、なおさら疲れ果てて見える。駅で会った時の様子からすると実際に疲弊しきっているのだろうが。
それでも
そんな二人を残してリビングを後にしようとしたが、引き止められる。
「待って。私たちを置いてどこに行くの?」
「書斎にいる。廊下の突き当りだ。何かあれば言ってくれ」
「わかった」
田上は俺に目を向けたまま少年の肩に手を置いた。先に温まってきなさい、と言われた少年は無言でトラベルケースを開けて着替えを取り出す。
あとは自分たちでやるだろうと思い、今度こそリビングから暗い廊下に出た。すぐうしろに続く少年を肩越しに見ると目が合う。
彼はペコリと頭を下げ、バスルームに消えていった。
物静かな子に見えたが、他人の家で物怖じせずに風呂に入る一面もあるらしい。そう思うと少し興味がわく。まだ名前すら知らない少年の事を考えながら書斎に入った。
暖房をつけ、二台のPCを起動する。環境音が部屋を満たし、ふう、と息をつく。
田上たちがどんな状況に置かれているのか気にはなるが、やり残した仕事を先に片付けたい。かじかむ手を擦り合わせて作業を始める。田上たちへの興味を忘れるまで時間はかからなかった。
PCの時刻が22時に変わる。ひと息つきたくて風呂に入り、タオルをフードの替わりにしながらキッチンに向かう。まだ終わりそうもない作業のお供に温かいコーヒーが欲しい。
リビングからキッチンに入る時、足が止まる。そこに田上がいたからだ。
彼女はコーヒーミルのハンドルを握り、力を込めて回す。ガリガリと豆を
本来なら俺以外が立つ事がない場に他人がいるというのは不思議なものだと思っていると、見られているのに気づいた田上は手を止めた。
「コーヒー、いただくわ。自由に使っていいのよね」
ジーンズとセーターというラフな姿のせいか生気を取り戻したようだ。内容はともかく口調は少し柔らかい。
「今頃、お風呂?」
「ああ。切りのいいところまで進めていたら遅くなった」
「家に仕事を持ち込むのは感心しないわね」
「雪で電車が止まりそうになっていなかったら職場でやっていた」
隣に立つと、田上は再びハンドルを回し始める。
「そうなっていたら、こうして隣にいなかったでしょうね」
「そうだな。それにしても、こんな時間からコーヒーか?」
「本当は違うのがいいわ。眠れなくなるから。でもお茶すらないじゃない」
「俺が飲まないし、来客もないからな。一応、コーヒー以外もある」
背後の棚を肩越しに指差す。赤い瓶に直接刻まれた英語の銘のせいで洋酒に見えるが、立派な日本酒だ。それも手に入れにくい部類の名酒でけっして安酒ではない。
田上もちらりとだけ見て、肩をすくめる。
「寝酒にするにはもったいなさすぎるわ。……おかしいわね」
今まで回っていたミルのハンドルが止まり、田上はさらに力を入れる。その瞬間、鈍い音がした。ハンドルは回るようになったがスムーズすぎるし、豆が挽かれる音もしない。
豆をよけてみると、軸が折れていた。
それを知って田上は申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんなさい」
「かなり古い物だからな。いつ壊れてもおかしくなかった」
「新しいのを買ってくるわ」
「そこまでしなくていい」
気にするなと言われて、すぐに切り替えられないのは曇ったままの表情でわかる。
対価を払う事で気が済むなら違う形で返してもらうか。
「正直なところ、ミルを使うのは面倒だったんだ。挽きたての良さがわかる舌を持っているわけでもないしな。買ってくるなら豆で頼む。モカの粗挽きがいい」
軽い調子で話す俺の意図が伝わったらしい。田上も合わせてくれた。
「モカは私も好きよ。でも粗挽きはないわ。細挽き一択よ」
「わかっていないのは田上の方だ」
そう言って頬を緩めると、田上も目を細める。
二人とも無言のまま、静かに時間だけが流れた。
そんな
「仕事は何を?」
「ソフトウェアのエンジニアだ」
「人生予定通りってわけね」
天気の話をしているような当たりさわりのない会話に、とげが含まれているのはわかった。
「田上は違うのか?」
「うまくいっていたら幸二に会わずにすんでいたわ」
「何があった?」
「幸二にとってエンジニアが天職のように、私にとっては営業職がそれなのよ。でも奪われてしまったわ」
田上は自嘲ぎみに笑い、ためこんでいた思いを吐き出す。
「ひとりで子供を育てながら仕事するのは大変だった。体がいくつあっても足りない。それでも必死にしがみついてきたわ。自分が選んで勝ち取った仕事だから。でも駄目だった。あの子の急病やら学校からの呼び出しやらで大きな商談をいくつか潰してしまったの」
「それで職を奪われたのか」
「そうよ。左遷。くだらない事務職に変えられた。子供のためだと思って続けていたけど、耐えきれなくなって辞めたわ」
声に込められていたのは怒り。それがいつしか悲しみに変わっていた。田上は赤くなった目を両手で覆う。
大変な思いをしてきたのだろう。しかし俺にはモニタに映し出される悲惨なニュースを見ているように感じる。子供を育てた事がない俺にはわかりえない状況だからか、一歩引いた目で見てしまう。
今の田上には職がなく、支えてくれる家族もいない。現状を回復させるには仕事が必要だが、息子を守りながらでは厳しいだろう。
「地元に帰ってきて職を探すつもりなら協力――」
「帰ってくるつもりはないわ」
田上は食い気味に提案を否定し、顔をあげて俺をにらむ。
「こっちに来たのは母を頼ろうとしただけ。あの子を預かってもらえたら仕事を探しやすくなると考えていた。でも断られたわ。それに、また働いたとしても同じ事にならないとは思えない。きっとくり返すに違いないわ。それが怖い」
田上は怒りと悲しみが入り混じった顔を再び覆った。
そんな彼女を前にして考える。仕事という誇りを失い、身軽に動けもせず、頼れる人もいない。そんな状況なら絶望しても誰も攻めはしないだろう。
しかし、俺には挽回する可能性が見えてしまった。ただ、これは田上の問題であり、他人の俺が口を出すべきではないとわかっている。
だとすれば、関わる気がないのに手を差し伸べたのはなぜだ?
自分の生き方と行動に矛盾を感じるのははじめての事だった。そんな不安定な心境だというのに俺は提案を持ちかける。
「元通りにはならないが、事態を好転させる道がある」
「何? サンタクロースにでもお願いするの? クリスマスは終わったばかりよ」
田上は天を仰ぎ、鼻をすすって言った。サンタクロース同様、そんな方法など存在しないと言わんばかりの言い方だったが、構わずに話を続ける。
「俺が少年を預かればいい。田上が再就職し、安定するまでの間」
「何を言い出すかと思えば。他人には無理。知らないでしょうけど親じゃないとできない事がたくさんあるの」
「他人でなければいいだけだ」
単純な話だが理解できなかったらしい。眉を寄せて言葉を失っていた。だから具体的に言い直す。
「二人まとめて俺の籍に入ればいい。そうすればシングルマザーより職を探しやすくなる」
「結婚しろっていうの? 馬鹿じゃない? 私が幸二を好きになるはずがない」
「安心しろ。それは俺も同じだ」
冗談でも寝言でもない提案なのに田上は無言で立ち上がる。そのままリビングを横切り扉に手をかけた。部屋から出ていく時に背を向けたまま、ほんのひとときだけ足を止める。
「明日の朝、出ていく。今夜泊めてくれることは感謝するわ」
そして俺はひとり取り残され、しばらく動けずにいた。断わられた事を気にしていたわけではない。なぜ田上を救いたいと思ったのか、なぜ策を考えたのか、それがわからずにいたからだ。
ロジカルな生き方をしている俺が感情で動くはずがない。しかし、思考をめぐらせても答えはでなかった。
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