第2話 葛藤

 シャルルがガインの店で働きだしてからひと月が経った。以前ほどではないにしろ朝からの行列は相変わらずだ。

 その中にはまだシャルル目当てで通っている連中もいる。しかし、そんな男たちの姿は消えつつあった。

 シャルルを見に来て適当に買ったパンが、意外にも美味しかったという理由で通うようになった客が増え始めているのだ。

 噂の少女が働いているパン屋としてでしか知られていなかったガインの店が、街一番のパン職人の店と認識を改められ始めている。

 シャルルは嬉しかった。

 パン職人になろうと思い立ったとき、シャルルは街中のパンを食べ歩いた。そして、今まで食べた中で一番美味しいと思えるパンに出会ったのだ。それがガインの作るパンだった。

 当然ながら、華奢な女の子を働かせるわけにはいかない、とガインに断られたのだが、シャルルは頼み続けた。


「どうしてパン職人になんてなりたいんだ? 力仕事も多いし、服も汚れる。お前のような子がする仕事じゃないんだ」


 そう言うガインに、シャルルは笑って答えた。


「私には夢が二つありました。パン職人はその一つなんです」


「もう片方の夢はどうした?」


 シャルルはその問いに、僅かな時間、言葉を詰まらせ『もう叶ってしまいました』と静かな口調で言った。


「……そうか」


 ガインはシャルルを雇うことにした。

 魔法士であり探求者だったシャルルにとって、学院での厳しい訓練や旅をしていたときの苦労に比べれば、パン屋での仕事は楽しくて仕方がなかった。

 最近になって、シャルルはようやく本格的にパン作りを教えてもらえるようになっていた。だが、焼き上がるのは焦げついたパンばかりで、形も良くなかった。

 味以前の問題だ。


「さ、最初はこんなもんだろ……」


 とは言うものの、ガインは想像もしていなかったシャルルの不器用さに、苦笑いをしていた。

 日中はパンが売り切れるまで仕事をして、その後はセシリーの家事を手伝って、夕食後はパン作りの修行。

 忙しい毎日が過ぎていった。


 いつもより早めに仕事を終えたシャルルは、セシリーに頼まれた夕食の買い物をしていた。

 市場は普段どおりの賑わいを見せている。

 大、中、小、の声が飛び交い、次々と商品が捌かれていく。

 シャルルはメモを見ながら人と人との隙間から頼まれた野菜を探す。


「えっと、それを三つお願いします」


 買ったものを袋に入れ、歩きだしたとき、轟音が鳴り響いた。

 何かが激突したような音だ。市場の賑わいが、一瞬、それにかき消される。

 シャルルは反射的に音のした方に走っていた。非日常に対しての反応の鋭さは、魔法士の学院での訓練で身につけられたものだ。


「いやああああああっっ!」


 目に飛び込んできたのは、バラバラになった馬車と散らばった荷物、倒れている男性と泣き叫ぶ女性の姿だった。


「……ひどい」


 シャルルは呟いた。

 曲がり角を曲がりきれずに、馬車が壁に激突したのだ。馬は逃げ出したようでどこにもいなかった。馬車に乗っていたであろう女性は無傷のようだったが、男性のほうは頭から血を流して倒れている。


「医者は呼んだのか!」


 誰かが叫ぶ。


「ああ、何人も行ってる! もうすぐ連れて来るはずだ!」


 シャルルは女性に駆け寄って、倒れている男の様子を見た。

 擦り傷や切り傷はいくつもあるが、問題になるような怪我ではなかった。気になるのは頭部の外傷だ。側頭部から流れ出した血で男の顔半分は真っ赤に染まっていた。

 女性は男の手を握りしめ、ただ泣くだけだった。


「大丈夫。すぐにお医者さんが来てくれるわ」と言ったが、シャルルの言葉に反して医者は現れない。


「誰でもいい! 何とかならないのか!」


「お願いよ、早くしないとメイルが死んじゃうわ! 医者でも魔法士でもいいわ! 誰か早く連れてきて!」


 泣いているばかりだった女性が叫ぶ。

 その言葉に皆が沈黙した。

『魔法士』という言葉に幾人かの表情が強張る。

 街に魔法士はいない。ここに住む人間なら、誰もが知っていることだ。

 医者以外が来ることは、決してない。

 周囲を囲む人々の奇妙な沈黙に耐えきれなくなり、女性はまた大声で泣き出してしまった。


 ──魔法を使えば。

 その気持ちを押さえながら、シャルルは女性を励ました。


「大丈夫よ。メイルさんは助かるわ」


 シャルルの脳裏には、あの日の映像が浮かんでいた。

 血。

 細くなっていく呼吸。

 苦痛に歪んだバートの顔。

 命を懸けて、自分を護ってくれた仲間たち。

 死。

 誰も救えなかった自分。

 聞くことが出来なかった、バートの最後の言葉。

 悲しみが、シャルルの胸を締めつけた。

 倒れている男性がバートの姿と重なって見えはじめる。

 シャルルは唇を噛みしめる。


 ──バート……私はどうしたらいいの?


 医者は、まだ来ない。


 ──魔法を使ったら、せっかく見つけた私の居場所が無くなっちゃうよ。


 まだ、来ない。


 ──きっと、みんなを悲しませちゃうことになる。


 来ない。


 ──私……。


 急に立ち上がったシャルルに、視線が集まる。

 シャルルは、人混みを押しのけて、逃げるように走り出した。


「おい、シャルル! お前まで医者を呼びに行くのかー!」


 誰かが発したその言葉を振り切るように少女は走った。


「あら、早かったのね」と言うセシリーに、無言で買い物袋を渡し、シャルルは二階へと駆け上がった。


 部屋の鍵を閉め、ベッドに倒れこみ、枕を力一杯抱きしめる。

 あの人は死んでしまったかもしれない。なにもできなかった……違う。バートを救えなかった時とは違う。今回は救うことができた。

 私なら間違いなく救えた。女の人が必死で訴えていたのに。私は助けなかった。あの女の人はバートを失った時の私のようだった。私にはあの人の気持ちが痛いほど分かるのに。

 頭と胸がたまらなく痛かった。街での楽しい生活? パン職人になる夢? そんなものが人の命より大事なの?私は。私はあの時なにを学んだの? 大事な人が生きてさえいれば何も要らないって思ったんじゃないの? 大事な人が死ぬ瞬間を目の当たりにして私は何を感じたの? 人の命は何よりも代え難いものだったって理解したんじゃないの? 現に私はバートにすがっているじゃない。まだ。私はどこにいるの?バートの生まれ育った街じゃない。バートは死んでしまったのよ。死んで。


 雨音。

 次々と窓に落ちる小さな雨粒が、そこから見える街灯や路地や向かいの建物をぼかしていく。

 そうだ洗濯物。シャルルは立ち上がろうとする。体が動かない。あの男の人……確かメイルという名前だった。助かっているといいなとシャルルは思う。思考の糸が交差し絡み合う。考えがまとまらない。眠い。逃げた馬は見つかったのだろうか。塩と砂糖の配分はもう覚えた。ねえ、バート、東の森の向こうには何があるのかな。小麦粉。こね台、鉄板。魔法士。パン生地。荷馬車。死……。


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