雲の上への手紙
白河マナ
第1話 魔法士からパン屋へ
乱立する木々の葉枝が陽光を遮っている。そのせいで、あたりはひどく薄暗い。ぬかるんだ地面には、カビやキノコや苔などが色彩豊かに装飾を施していた。
深い森の中。
ゼノン公国の最も東にある村から、さらに東を目指して八日ほど歩いた場所。この森を越えようとした多くの探求者の犠牲によって作られた地図にも、この付近のことまでは描かれていない。
そんな所に人がいるはずもないのだが、確かに人間の叫び声が聞こえた。
「お願い、目を開けて!」
叫んでいたのは、ひとりの少女だった。
名前をシャルルという。
シャルルは血と汗と泥にまみれながら、倒れている男の脇腹に手のひらを向け、治癒の魔法を唱え続けていた。
青白い魔法の光は当初の輝き失い、今にも周りの闇に負けてしまいそうだった。
「死なないで……お願い」
シャルルを囲むようにして三つの死体が転がっている。二人の仲間、そして巨大な獣の死体だ。
突然あらわれたこの獣との戦闘がこの惨状を作り出していた。
命を投げ出す覚悟でシャルルは魔法力を絞り出す。身体は小刻みに震え、額には汗の粒が浮かび、唇は紫に変色していた。
シャルルは死んでしまった二人の為にもバートを救いたかった。しかし、魔法の光はすでに消えかけている。
「……こんなものなの?」
シャルルの頬を涙が伝った。
「一生懸命勉強して、我慢して、やっと魔法士になれたのに。私の力は、こんなモノなの?」
血が止まらない。
バートの脇腹からは止めどなく血が流れ出ていた。
傷口は、獣の角が鋼の鎧を貫通して出来たもので、バートはこの傷を代償として獣に致命傷を与えることに成功したのだ。
シャルルは仲間に対して自分がよく言っていたことを思い出していた。
怪我なんて気にせずに戦いなさい、という言葉だ。
シャルルの魔法士としての能力は素晴らしいものだったが、獣との戦いで傷ついていく三人の仲間を同時に癒やしながら、攻撃補助まですることには無理があった。
結果、魔法が追いつかなくなり、仲間たちは傷ついていった。
「あ……あ……」
魔法の光が消える。
とうとう魔法力が尽きたのだ。
絶望と、恐怖。シャルルの身体が、一度だけ大きく震えた。
魔法士の学院を卒業して出会った最初の仲間であり、最も親しかったバートの死は時間の問題だった。
やり場のない激しい怒りがシャルルを襲う。
「なにが主席よ! なにが任せなさいよ! 私は肝心なときに誰一人救えない役立たずじゃない!」
大声でそう叫んだシャルルが拳を地面に叩きつけようと振り上げたとき、バートの口元が僅かに動いた。
「バート!」
ほとんど聞き取れない弱々しい声で、バートはシャルルの名を呼んだ。一瞬、苦痛に顔を歪ませたが、少女に気がつき、微笑む。
シャルルの胸の奥からは数限りない言葉が溢れ出てくる。だが、どれも口から出る前に消えてしまう。
たくさんの言葉に押し出されてようやく出てきたのは、
「……ごめんね、もう魔法は使えないの」
バートは、首を小さく横に振った。そして、何かを言おうと口を動かしたが、声にはならなかった。
シャルルはバートを抱きしめた。
バートは笑みを浮かべながら、シャルルの頭を優しく撫でる。それを最後に身体からは力が消え、ずっしりとした重みがシャルルの腕に伝わった。
少女の悲鳴が、静かな森を駆け抜けた。
**********
朝靄の中、十人ほどの若い男たちが店の前に並んでいる。
店のドアノブには準備中と書かれたプレートが掛けられていて、ドアの上からパンの絵の看板が下がっていた。
道の角まで続いている列の先頭にいるのは二十歳過ぎくらいの二人組だ。店が開くのを待ち遠しそうにしている。
列に並んでいる中に、なぜか女性の姿はなかった。
「あの、」
女性が列に並んでいる男に声をかける。
「最近評判の美味しいパン屋さんってここですか?」
「ああ。無愛想なオヤジがやっているんだが、味の方は確かだぜ」
その言葉に、並んでいる別の男たちがうんうんと頷く。
「それになんといっても……」
男たちは顔を見合わせて、ニヤニヤと笑った。
「ま、とにかく食べてみるのが一番だ。買えるかどうか分からないけどな」
たかだか十人たらずの列なのに、と疑問を持った女性が列の最後に並ぼうとすると、後ろから声を掛けられた。
「お姉さん、そこじゃないよ」
道の角を曲がった先には、長蛇の列ができていた。その大半はやはり男性だったが、先頭の方にはいない女性、他にも老人や子供の姿まであった。
「だから言ったろ、買えるかどうか分からないって」
先ほどの男がそう言って笑う。
女性が最後尾に向かおうと歩き出したのと同時に店のドアが開き、背の高い、髭を蓄えた中年の男が出てきた。
店の主人でありパン職人のガインだ。
服の上からでも確認できる筋肉質の逞しい体。丸太のように太い腕。鋭い眼光。盗賊の頭でもしていた方が似合うのではないかと思わせる風貌の男だった。
「店の前で騒ぐな」
ガインは先頭に並んでいる二人組を睨む。
竦み上がっている二人を無視して、ドアノブに掛けられているプレートをひっくり返す。
「開店だ」
それだけ告げて、ガインは店内に戻った。
「いらっしゃいませ!」
店の中は人で埋め尽くされていた。次々とパンは売れていき、女の子が忙しそうに焼けあがったばかりのパンを棚に並べていた。
「ありがとうございました。また来て下さいね~」
外にはまだ行列が出来ている。
一人が出ていくと、次の一人が入る。客がある程度自由に動けるスペースを確保する為にも人数制限をしなければならなかった。
「いらっしゃいませ!」
混雑する店の中を、踊るように少女が動き回る。
整った顔立ちに、新芽を連想する艶のある深緑色の瞳。温かい笑顔。金色の髪を揺らしながら働く可愛らしい少女の姿は、男性客たちの目を釘付けにしていた。
店がこんなにも繁盛するようになったのは、彼女が来てからだった。
「シャルル、こっちを手伝って頂戴」
ガインの妻、セシリーが少女を呼ぶ。
「は~い!」
「そのお客さんのお勘定をお願いね」
頷き、トレイに載ったパンの値段を計算しはじめる。
「えっと……百二十ルイになります」と、お金を受け取って素早くお釣りを渡す。
「ありがとうございました。また来て下さいね~」
再びシャルルはパンを運ぶ作業に戻る。
一日の大半はこの繰り返しだった。休む暇もなく、少女は働き続けた。まるで、必死で何かを忘れようとするかのように。
仕事の終わったシャルルは、夕食を済ませ自室で手紙を書いていた。
この部屋は、パン職人の見習いとして働くことになった時に与えられたものだ。
『──バートへ
私は今、アンジークという街のパン屋で働いています。楽しかった旅のことを思い出にして、悲しい現実を忘れたいだけなのかもしれないけど許して下さい。大切な仲間が、大好きな人が命を落とすのを二度と見たくないの。親方のガインさんは優しくて、とてもいい人だけど、パン作り関しては厳しいです。奥さんのセシリーさんは、私の為にエプロンを作ってくれました。今の私の夢は、頑張って早く一人前になって、自分のお店を持つことです。街の人たちも親切にしてくれるので、私は毎日幸せに暮らしています。でも、たった一つだけ心配なことがあります。それは、この街の人たちが魔法を嫌っているということです。大昔に魔法士によって街を滅茶苦茶にされたらしいというのが理由みたいです。私はもう魔法を使う気はないけど、みんなを騙しているようで少し辛いです』
部屋の扉が叩かれ、ペンが止まる。
「まだ起きているのか? 明日も早いから寝たほうがいい」
ガインがドア越しに言う。
「はい。すぐ寝ます」
「冷えるから、ちゃんと毛布をかけて寝るんだぞ」
その言葉にシャルルは笑みを浮かべ、はいと返事を返した。
しばらくしてから、再び、ペンを走らせる。
『私がこの街に来たのには理由があります。いつだったか、あなたが話してくれたのを思い出したからです。ここアンジークがあなたの生まれ故郷だって──』
シャルルは、書きあがった手紙をきれいに折り畳み、ランタンに放り込む。
手紙は瞬く間に燃えて、灰になり、消えた。
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